ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

ローマにて、人間の歴史を想う…早春のイタリア紀行(16)

2021年05月13日 | 西欧旅行…早春のイタリアの旅

   (サン・ピエトロ大聖堂)

     ★   ★   ★

<「あなたに天国の鍵を授ける」>

 新約聖書の「マタイによる福音書」16章18、19節によると、イエスが弟子たちに自分を何者と思うかと聞いたとき、弟子たちのリーダー格だったペテロが答えた。「あなたはメシア、生ける神の子です」。その答えに対してイエスは言った。

 「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。 …… わたしも言っておく。あなたはペテロ(岩)。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天井でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」。

 ペテロの本名はシモン。同じマタイ伝の中で、「ペテロと呼ばれるシモン」と紹介されている。

 「ペテロ」は岩の意。シモンは体が大きく頑丈だった。ペテロの名は、キリスト教圏でよく子どもの名に付けられる。現代の言語では、英語でピーター、フランス語はピエール、イタリア語ではピエトロ(「サン・ピエトロ大聖堂」はイタリア語読み)、ドイツ語ではペーター、スペイン、ポルトガル語ではペドロ、ロシア語ではピョートルである。

 ペテロは最も早くイエスの弟子となった1人。弟子の中では年長で、何事も積極的だったから、年の若いヨハネとともにイエスに愛された。

 福音書には、次のような「人間ペテロ」のエピソードも記されている。

 このあと、イエスが捕らえられたとき、弟子たちは逃げた。ペテロは役人にイエスのことを問われ、その人のことは知らないと3度も答えた。そして、イエスが「あなたは鶏が鳴く前に3度私を知らないと言うだろう」と言った言葉を思い出して、泣いた。

 イエスの死後、弟子たちはそれぞれ、当時のローマ帝国の各地に宣教に赴く。新約聖書の「使徒言行録」によると、ペテロも、初期キリスト教界の指導者として、初めエルサレムに教会組織をつくった。その後は、パレスチナ各地の教会を巡っている。

 だが、それ以後の彼の足跡については書かれていない。

 イエスの死後、キリスト教は長く迫害を受けたが、AD313年のコンスタンティヌス1世のミラノ勅令によって信仰の自由が認められ、キリスト教は公認となった。

 塩野七生さんも『ローマ人の物語』に書いているが、もともとローマは宗教に寛容で、信仰の自由は認められていた。改めて信仰の自由を布告する必要などなかったのである。この勅令は、キリスト教を公認するためだった。ではなぜキリスト教は迫害されてきたのか。それは、キリスト教が自らを絶対として、他の神々を否定し、異教の神々と共生しようとしなかったからである。その頑なさが人々の反発を招き、その浸透力の強さがローマ市民の中に不安を広げた。

 コンスタンティヌス1世以後、キリスト教は宮廷にも役人の世界にも浸透し、権力を握っていき、4世紀末のテオドシウス帝はついにキリスト教を国教化した。国教化とは、キリスト教以外の全ての宗教が弾圧される社会になったということ。中世ヨーロッパは、宗教に関してはほとんど多様性がなく、キリスト教一色の世界だった。

 それはともかく、キリスト教を公認したコンスタンティヌス1世は、ローマ帝国の各地にキリスト教の大聖堂を建設して寄進した。それまで個人の邸宅や小さな集会所に集っていたキリスト教徒にとって、それは驚天動地の大聖堂だった。ローマ皇帝のサイズの大聖堂が生まれたのである。

 「聖地エルサレムにはキリストの聖墳墓教会、帝国の首都ローマには『すべての教会の頭にして母なる』サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ聖堂、それを範にして聖ペテロの墓の上に建てられたサン・ピエトロ聖堂(324年)、聖パウロの墓の上に建てられたサン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ聖堂などがそれである」(馬杉宗夫『大聖堂のコスモロジー』講談社現代新書)。

 コンスタンティヌス1世の時代には、キリスト教徒の間に、ペテロはローマで殉教し、その墓はローマのバチカンの地にあるという話がひとつの確信として伝えられていたようだ。

 そういう伝承を伝える文書も存在する。

 新約聖書には、イエスの生前を直接に知る弟子たちが書いたイエス伝(「福音書」)、イエス死後の使徒たちの宣教活動を記した「使徒言行録」、使徒たちが各地の教会へ送った「書簡」、そして、終末を予言した「黙示録」の27書が収録されている。それらはおよそAD50年~150年頃には存在していたとされる古い写本文書の中から選ばれたもので、最終的にはAD397年のカルタゴ司教会議において承認され、今、新約聖書となっている。

 プロテスタントでは、教皇や、教皇の下の教会組織に信を置かず、神の言葉としての聖書にのみ信仰の根拠を置く。

 一方、カトリックでは、27書から漏れた文書の中にも、正典に劣らぬ重要な文書もあるとし、それらを「外典」として伝えてきた。

 その外典の一つに、その後のペテロの活動を伝える「ペテロ行伝」がある。それによると、…… 。

 ペテロはその後、宣教のためにローマ帝国の首都ローマに行き、首都ローマにおけるキリスト教布教の中心となった。その間、皇帝のお膝元で迫害も受けた。そして、情勢がひっ迫し、皇帝ネロによる弾圧の近いことを心配した信者たちの勧めで、ペテロはローマを脱出する。旅の途中、一人の男が街道を行くペテロとすれ違った。ペテロは瞬時に、主イエス・キリストだと察し、振り返って、「クォ・ヴァディス・ドミネ(主よ、何処へ行きたまふ)」と呼びかけた。イエスは振り返り、お前が多くの信者をローマに残して逃げるから、私がもう一度十字架に架かりに行くのだと答えた。ペテロは恥じ、踵を返してローマに戻り、多くの信者たちと共に、自ら逆さ十字架に架けられて殉教した。AD67年、場所はローマのテヴェレ川の西、バチカンの地にあったローマの競技場という。

 競技場のすぐ北には墓地があった。信者たちはそこに密かにペテロの墓を造り、墓の上に小さな祠を建てた。

 この「ペテロ行伝」の中身が、歴史的文書として事実であると証明されたことはない。

 だが、カトリックの教えは、ペテロがローマ宣教の中心となり(即ちローマの司教となり)、ローマで殉教したという伝承の上に立脚する。

 福音書はイエスの言葉として、「この岩の上にわたしの教会を建てる」、「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」と伝えている。ならば、ペテロの殉教の上に建てられたローマの教会の継承者こそ、この地上における神の代理人である、とカトリックは主張してきた。

 今も、コンクラーベで選ばれた教皇は、即、ローマ司教を兼ねることになっている。

 ルネッサンスの教皇の中には、「天の鍵」を授けられているのだから、免罪符をどんどん印刷して「天国」と引き換えに「献金」を集める権限もあるだろう、と考える教皇も出た。とにかくカネがなければ、ガタビシしてきたサン・ピエトロ大聖堂の再建も、荒廃の極みになっているローマ市(教皇領)の再建もできないではないか。

 こういう教皇の在り方に抵抗して、プロテスタントが生まれた。

       ★

 マタイによる福音書16章について、異なる解釈も示されている。キリスト教には東方正教会もプロテスタントもあるのだから。

 「この岩の上にわたしの教会を建てる」という「この岩」とは、ペテロという一人の「人間」を指しているのではない。「この岩」とは、その前のペテロの信仰告白「あなたはメシア、生ける神の子です」という言葉を受けているのだ。イエスは、イエスをキリスト(救い主)とし、神の子であるとする信仰告白の上に、キリスト教徒の「家」を建てようと言ったのである …… そう解釈すべきだという考えもまた、理にかなっているように思われる。

 キリスト教(カトリック)美術の中には、「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」という福音書の言葉を受けて、イエスが大きなカギをペテロに授けている場面を描いた絵もある。しかし、イエスが言う「天国の鍵」とは、そういう物質としてのカギであろうはずはなく、「天国の鍵」とは福音のこと。「メシアがこの世に来られた」という福音を、お前が先頭に立って、ここにいる皆で世界の人々に知らせなさい、という意味であるという解釈も成り立つ。

 イエスの言葉をどう解釈するのか。これもまた、2千年の人間の歴史の一部である。

 それらを包含して、「人間」の歴史はある。

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3月15日。晴れ。

 今日は「早春のイタリア旅行」の最終日。

 今日の目的は、バチカン美術館、そしてサン・ピエトロ大聖堂の見学。そのあとは …… そのとき考えよう。

 ホテルを出て、コルソ通りを渡り、市バスの発着所サン・シルヴェストロ広場からタクシーに乗って、バチカン美術館へ向かった。

 感じの良い運転手だった。

        ★

<カトリックの総本山バチカン>

 カトリックの総本山のバチカン(バチカン市国)は、ローマ市の中にある。国土面積は世界最小で、東京ディズニーランドと同じぐらいだそうだ。それでも、独立国家。国家元首は教皇。

 テヴェレ川を渡ったローマ市の西の一画に、「ヴァティカヌスの丘」と呼ばれる地があった。これが「バチカン」という名の由来だ。紀元前、即ち、キリスト教以前から聖なる地と考えられ、ローマ人の共同墓地があった。

 ローマ帝国時代に競技場がつくられ、皇帝ネロの時代にここでキリスト教徒が処刑された。

 4世紀には、コンスタンティヌス1世によって、ペテロの墓の上にサン・ピエトロ大聖堂が創建された。

 ただし、その後の教皇が、ここ(ペテロ=岩の墓の上)に教皇座を置いたわけではない。

 コンスタンティヌス1世は、帝国の首都ローマに「すべての教会の頭にして母なる」サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ聖堂を建設し、また、同じ規格で聖ペテロの墓の上にサン・ピエトロ聖堂を建設した。

 つまり、歴代の教皇は、バチカンではなく、ローマ市内南部にあったサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂を総本山とし、千年に渡って、そこを教皇の教会及び居所があったのである。

 教皇が今のようにバチカンの地を総本山にしたのは、14世紀にアヴィニヨン幽囚から帰還してからである。何代かの教皇がアヴィニヨンにいた間に、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂が2度も火災に遭った。そのため、やむをえずサン・ピエトロ大聖堂を本拠とすることにしたのである。

 コンスタンティヌス1世の4世紀の大聖堂は、壮大な五廊式で、平面の大きさは現在の大聖堂と同じぐらいあったらしい。

 しかし、その大聖堂も古くなり、相当に傷みが激しくなっていた。また、ここにはもともと教皇用の宮殿はなかった。

 そこで、剛腕の教皇ユリウス2世(在位1503~1513)は、ここに教皇にふさわしい宮殿を建てる。中庭があり、華麗な回廊で結ばれた宮殿である。現在のバチカン美術館の基礎となった。

 さらに、教皇ユリウス2世は、1506年、建築家ブラマンテに、コンスタンティヌス1世の大聖堂を全部取り壊し、新しく大聖堂を建設するように命じた。

 その後、教皇は代替わりし、新大聖堂の建設主任もたびたび代わって、そのたびに設計も変えられた。

 1546年、教皇パウルス3世は、すでに72歳になっていたミケランジェロをくどきおとして設計主任とした。ミケランジェロは最初のブラマンテの設計に戻り、その中央に巨大なクーポラを乗せる計画を立てて、さまざまな意見を押し切って強引に建設を進めていった。

 こうして、新大聖堂は、88歳で死去したミケランジェロの死後の1596年に完成した。

 ちなみに、マルティン・ルターが「95か条の提題」を発表したのは1517年。すでに宗教改革の嵐は当のルターを吹き飛ばしてヨーロッパ世界に吹き荒れ、反宗教改革の激しい動きも起こっていた。

(つづく)

 

 

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