ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

教皇の大聖堂…早春のイタリア紀行(18)

2021年05月30日 | 西欧旅行…早春のイタリアの旅

   (大聖堂のクーポラを見上げる)

       ★

<バロックの巨匠ベルニーニの広場>

 カトリックの総本山サン・ピエトロ大聖堂前の広場は、30万人を収容できるそうだ。

 人々を迎え抱擁するように、円柱の列が広場を囲んで建つ。

 この広場の設計者はバロックの巨匠ベルニーニ。1667年に完成した。

 (サン・ピエトロ大聖堂前の広場から) 

 広場の中心に立つオベリスクは、ローマ皇帝カリグラが造った戦車競技場の中央分離帯の飾りとして、エジプトから運ばれて置かれたものだ。その競技場はここよりもう少し南にあったらしい。オベリスクも、その後、もう一度ここへ移動した。

 皇帝ネロのとき、その競技場でキリスト教徒が処刑された。伝承によれば、使徒ペテロもそのとき十字架に架けられた。亡骸は、信者たちの手によって競技場の北にあった墓地に葬られたという。

 ローマ市内の少し高い所に立てばどこからでも見える大聖堂の青いクーポラは、地上から132.5mの高さ。直径は42.5mある。ミケランジェロのクーポラだ。

 エレベーターと階段で上がることができる。1997年のイタリア旅行のときには、上まで上がった。ローマの街が一望できた。しかし、もう一度あそこまで上がる気は起こらない。

 クーポラの下、ファーサードの屋上には、キリストと洗礼者ヨハネ、ペテロを除く11使徒の像が並ぶ。小さく見えるが、1体の高さは5.7mもある。

 その下には5つのバルコニー。中央のバルコニーから教皇が大群衆を祝福するニュース映像を見ることがある。教皇の祝福を受けようと、30万人の人々が集まってくる。

 「祝福」とは、「神への賛美や信仰の共有を前提に、神の恵みを他者にとりなすこと」(ウイキペディア)。なにしろ「天の国の鍵」を授かっているお方だ。

 柱廊には丸柱と角柱が並び、5つの扉口。さらにその下には広々とした前階段がある。肌を露出せず普通の服装であれば、誰でも自由に入ることができる。

      ★ 

<ミケランジェロの2つのピエタ像>

 前階段を上がって扉口を入ると、右手に、十字架から降ろされたイエスを抱く聖母像、「ピエタ」の像がある。ピエタは「哀しみ、悲哀」の意。

 今は分厚い防弾ガラスの中に置かれている。かつて、この像を鉄槌で壊そうとした男がいたらしい。実際、一部が壊され、修復されたそうだ。

 (ピエタ像)

 ミケランジェロ、25歳の時の作品。精緻を極めて美しい。

 おそらく、古代から中世を経てルネッサンスまで、キリスト教世界で描かれてきた、或いは、彫られてきた数多のピエタ像を一気に凌駕した作品だろう。それを若干25歳の若者が、1個の大きな大理石の中から彫り出してみせたのだ。これほどまでに精緻を極めた美しいピエタ像はなかった。

 彼自身、同じフィレンツェの彫刻家の大先輩ドナテッロや、当時、天才の評判高かったレオナルド・ダ・ヴィンチを超えたと思ったに違いない。傷つきやすく、それゆえ、傍若無人に人を傷つける彼の自負心は、このとき宇宙を満たすほどに大きくなっていたかもしれない。

 だが、私には、30歳を過ぎた息子イエスの亡骸を抱えるマリアの顔が、若く、美女過ぎるように思え、共感できなかった。25歳のミケランジェロは、わが息子を亡くした母親の悲嘆をわかっていたのだろうか??

   同じように感じた人たちが、当時もいたらしい。そういう声を耳にしたミケランジェロは、「きみは知らないのか?? 純潔の聖母は、年を取らないのだ」と言ったそうだ。25歳のミケランジェロにとって、美しいマリアは、何があろうと美しいままなのだ。

 晩年、ミケランジェロはピエタ像を3回も手がけた。だが、いずれも未完成に終わっている。

 最後の作品はミラノにある「ロンダニーニのピエタ」。残念ながら写真を見るだけで、本物を見たことはない。

 ミケランジェロは84歳になっていた。84歳の老人の鑿を手にする腕の力は弱く、視力も衰えて手探りで彫ったと言う。

 死の直前まで彫りつづけ、ついに未完に終わった作品は、まだ全体の輪郭もイエスとマリアの顔立ちもぼんやりして、現代彫刻の抽象的な作品のようにも見える。

 不思議な構図になっている。十字架から降ろされたばかりのイエスは、まだ地面に横たえらる前の身体を起こして立った姿勢で、母マリアが後ろからイエスの肩を抱いて支えている。イエスを後ろから抱擁するように支える母マリア。だが、イエスの亡骸は、まるで衰えた母を背負おうとしているようにも見える。

 作品にはただ一つの感情が漂っている。それは、悲哀。

 もし84歳のミケランジェロに「あなたは自分をどんな存在だと思いますか」と聞いたならば、「自分は1本の葦よりもはかなく、小さな小さな存在に過ぎない」と答えるのではないかと私には思われた。

 私からの賛辞。サン・ピエトロのピエタに対しては、「25歳にしてこんなに見事な彫刻!! 天才って、いるんですね」。

 ロンダニーニのピエタには、「25歳のあの精緻な美しい像は、老いた今のあなたには絶対に彫れないでしょう。でも、これはほんもののピエタです。私にはそう思えます」。

      ★

<殉教した聖人を祀る大聖堂>

 中は奥行きが211.5m。身廊と4つの側廊があり、柱も壁も床も最高級の大理石で覆われて、贅を尽くし、しかも気品がある。

  (身 廊)

 キリスト教が迫害されていた時代、キリスト教徒たちは殉教した教父の墓にささやかな祠(霊廟)を建てた。そこには遠くからも人々がやってきて、生前や死後のご利益を祈る聖地になっていった。

 4世紀、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世はキリスト教を公認し、さらにこれまでにない巨大な大聖堂を建てて献堂した。この地に建てられた聖堂は、使徒ペテロの墓の真上に祭壇がくるように設計されたと言われる。 

 キリスト教が国教となってから数世紀がたち、中世ヨーロッパ社会は農業生産力が急上昇した。各地の司教や大修道院は、余裕ができた農民や都市商工業者の経済力を引き出し、初めにロマネスク、次にゴシックの、石積みの大聖堂を建設していった。それらの多くは、殉教した聖人の墓或いは祠と言い伝えられた跡を地下霊廟とし、その上に荘厳な大聖堂を建立したのである。大聖堂は、多くの場合、聖母マリアに捧げられた。中世の大聖堂建設の時代は、聖母マリア信仰と、大巡礼時代とが重なり合っていた。

 例えば、当ブログの「フランス・ロマネスクの旅」の中の「ブルゴーニュ公国の都ディジョン」にそういう例を書いている。

 ただし、地下霊廟に葬られている遺骨が、本当に言い伝えらてきた聖人のものかどうかはわからないし、その聖人の伝承そのものが本当なのかどうかもよく分からない。

 例えば、キリスト教の巡礼地として、エルサレム、ローマに次ぐスペインのサンチャゴ・デ・コンポステーラ大聖堂は、聖ヤコブの遺骸を祀る大聖堂である。

  (サンチャゴ・デ・コンポステーラ大聖堂)

 (身廊の奥に聖ヤコブを祀る祭壇)

 使徒ヤコブはエルサレムで殉教した。

 伝承によると、エルサレム教会の信徒たちは遺体を小舟に乗せて海に流した。小舟は東地中海の東海岸から地中海を西へ西へと漂い流れ、ジブラルタル海峡を経て大西洋に出て、イベリア半島の北西海岸のガリシア地方まで流れ着いた。そして、その地の人々によって葬られた。

 その約800年後、レコンキスタ(イベリア半島を支配していたイスラム教徒から領土を奪還する運動)の最中に、「ヤコブの墓」は発見された。やがてその上に大聖堂が建てられ、一大巡礼地となった。

 今も、多くの人々が、遠くフランスやドイツからも、徒歩で巡礼路をたどっている。

 サンチャゴ・デ・コンポステーラ大聖堂に、本当にエルサレムで死んだ使徒ヤコブの遺骸があるのだろうか??

 カトリックは、それが神の御心であれば、きっとあるでしょう … と答えるだろう。だが、現代の巡礼者はそういうことにこだわらず、ただ由緒ある巡礼路を「歩く」ことに意味を見出して歩く。若い人。中年になって。初老の人。それぞれに、自分探しの旅、自分を見つめ直す旅、と答える人が多い。  

 サン・ピエトロ大聖堂の話に戻る。

 バチカンは20世紀の半ば、考古学者のチームに大聖堂の地下の学術調査を依頼した。

 地下にはコンスタンティヌス1世の大聖堂の遺構が見つかり、その詳細が実証的に明らかになった。さらにその下から墓地群が発見された。そのうちの1つの墓には墓碑と祭壇の一部が残り、その周囲からは、当時墓参に訪れた人々の残した落書きや願い事が見つかった。

 さらに、そこから、埋葬された男性の遺骨も発掘された。60歳ぐらいの大柄の体格だという。

 1968年、時の教皇は、その男性の遺骨が、「納得できる方法」によって、聖ペテロのものだと確認されたと公表した。

 このように、カトリックの信仰は、さまざまな伝承(古文書)、各地の聖堂に祀られている聖遺物やバチカンによって「聖人」とされた人の遺骨、過去から現在に至るバチカン認定の聖なる奇跡の地、さまざまな伝承を視覚化した美術品の数々、或いは、旅の途中で大聖堂のミサに参列したことがあるが、パイプオルガンの荘厳な響き、男性司祭たちの美しい歌声、時に少年合唱団の讃美歌等々 …… そういう信仰の分厚い層の上に成り立っている。

   (内 陣)

 内陣の中央には、「聖ペテロの椅子」がある。使徒ペテロがローマの「司教」であったときに使用していたという粗末な椅子である。

 17世紀に、ベルニーニによってバロック調のけばけばしい金ピカ装飾が施され、さらにその上はブロンズの天蓋で覆われた。

     ★

 大聖堂の中を一巡して外に出ると、広場は明るい陽光に満たされ、多くの人々で賑わっていた。

 紅山雪夫さんは、『イタリアものしり紀行』のサン・ピエトロ大聖堂の説明の終わりに、「この大聖堂を見てどう感じるかは、人によって大差がある。絢爛豪華ですばらしいと思う人もいれば、宗教建築として贅沢趣味が勝ち過ぎていて、しっくりしないと思う人もいるだろう。各人が抱いている自分の美意識に照らして判断するしかない」と書かれている。

 紅山さんが観光案内の本にこういう文章を書かれるのは珍しい。こういうことをわざわざ書き加えられたのは、多分、「宗教建築として贅沢趣味が勝ち過ぎていて、しっくりしない」と思われたからだろうと想像する。

 私は、ベルニーニの「聖ペテロの椅子」などを除けば、壁面も柱も最高級の大理石を使い、カネに糸目をつけずに造られているにもかかわらず、全体として落ち着いて美的センスが良いと思った。

 この旅の後、何回も、ヨーロッパの大聖堂を見る機会があった。

 その中には、全体がベルニーニの「聖ペテロの椅子」のような金ピカの大聖堂もあった。

 だが、印象に残っているのは、例えば「フランス・ロマネスクの旅」。この旅で、中世の時代の野のかおりのするような素朴な石積みの大聖堂を見て回った。大聖堂に入ると、柱頭にはケルトの民話にでも出てきそうな素朴な妖怪が装飾され、大聖堂の石積みはすっかり古くなっていて、石もこのように老いるのだとその旅で初めて知った。

 また、「フランス・ゴシック大聖堂の旅」。聖堂の中に入ると、林立する石柱の深い森の中のようで、窓には、まるで宝石を無数にばら撒いたようにステンドグラスが美しく輝いていた。

 それらと比べると、サン・ピエトロ大聖堂は確かに贅沢趣味が勝ち過ぎ、「野のユリを見よ」「心貧しき者は幸いなり」と説いたイエスの言葉からかけ離れているかもしれないと思う。全世界のカトリック教会の上に君臨する大聖堂、教皇の大聖堂という印象はぬぐい切れないかもしれない。

 

 

 

 

 

 

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