(ドナウ川の白い雲/パッサウ)
南ドイツの5月は晴天の日が多く、光があふれて、空気に透明感がある。その分、陰も濃く、自動で写真を撮ろうとするとコントラストが強すぎた。
ドナウ川の川岸の森の緑が白っぽく見える。樹木に、目立たないが、小さな白い花が咲いて、ウイーンのような都会の街路を歩いていても、風が吹くと白い花びらが舞いながら無数に散り落ちてきた。
マロニエ?? プラタナス?? ニセアカシア?? 植物のことはよくわからない。
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<読者の皆さまへ ── ドナウ川の白い雲>
このブログを書き始めたのは2012年の夏でした。今年で、なんと!! 満10年。我ながらよく続いたものです。これも読者の皆さまのお陰です。どなたが読んで(見て)いらっしゃるのか、私の方からはわかりません。わかるのは、前日の読者の数だけです。その人数も、人気ブログと比べると2桁も3桁も少ないのですが、それでも、PRもしていないのに、この地味なブログを読んで(見て)いただいている方がいらっしゃるということに励まされて、今日まで続けてきました。
このブログを始めた年の前年の2011年5月に、「ドナウ川の旅」に行きました。その旅の感動が残っていて、ブログの名前を「ドナウ川の白い雲」としました。
ブログがスタートしたのは、「ドナウ川の旅」から1年以上も後でしたから、これまでこのブログに「ドナウ川の白い雲」のことは一度も出てきませんでした。
その旅から11年もたってしまいましたが、今回、旅の様子と写真を残したいと思います。
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<ドナウ川の旅の行程 ─ レーゲンスブルグからブダペストまで ─ >
「ドナウ川の旅」と言っても、リバークルーズの優雅な旅ではありません。
西ヨーロッパをリバークルーズで旅行するという企画は、コロナの前、欧米でも日本でもパック旅行として盛んに売り出されるようになっていた。長いものだと、アムステルダムから、ライン川、マイン川、ドナウ川を経て黒海までの3週間の旅とか。
しかし、海であれ川であれ、クルーズ船の旅は、私にとって贅沢にすぎ、それに、もの足りない。人生1回だけの「リタイア記念旅行」とか「還暦記念旅行」ならそれも良いだろうが、私はもっとヨーロッパのことを知りたい。クルーズ船の旅は、船にいる時間が長すぎる。
その地を自分の足で歩き、見て、歴史や文化を感じとりたい、そのためには、観光バスから下車し、或いは、船から下船して、ちょこっと見学して、また次の観光地へ向かうという旅ではなく、できたらそこに1、2泊したい。
ということで、私の旅は列車で移動する。
出発点はいろいろ考えた。もっと上流のシュヴァルツヴァルト地方の黒い森とか。ドナウ川の最初の1滴はどこなのかも調べた。しかし、結局、ドナウ上流はカットした。探検の旅ではない。
「ロマンチック街道と南ドイツの旅」の折、ネルトリンゲンからアウグスブルグへ行く途中、観光バスでドナウ川を横切った。一瞬だったが、まだ大河のイメージではなかった。
滔々と流れるドナウ川のイメージならこのあたりからでよかろうと、ドイツのレーゲンスブルグで最初の2泊をすることにした。
そこから、ドナウの流れに沿ってローカル列車でパッサウへ。パッサウはドナウ川の川中島の町で、オーストリアとの国境だ。
オーストリアに入って、ドナウ川の本流からは少し逸れて、2度目のザルツブルグへ行くことにした。
実は、以前、パック旅行で「秋色のオーストリアの旅」に参加した。その折、ザルツブルグにも行ったが、リンツのドナウ河畔のホテルに1泊した。翌朝、一人で散歩に出て、流れ来て流れゆくドナウ川を眺めた。霧の中、河畔をランニングする人や犬を散歩させる人がいて、旅情を感じた。
そのパック旅行では、ウイーンの少し上流のメルクとデュルンシュタインにも立ち寄った。ドナウ川は大きく湾曲しながら滔々と流れていた。メルクもデュルンシュタインも、ドナウ河畔の、中世風の、小さな美しい町だった。
ということで、それらを端折って、ザルツブルグからは、オーストリア国の誇る特急列車に乗って、これも2度目のウイーンへ。
パック旅行の時と違うのは、オーストリア周遊ではなく、ドナウ川に沿って旅すること。そして、自分で列車に乗り、ホテルにチェックインし、自分の足で主体的に歩くということだ。
ウイーンからは、急行列車に乗って国境を越え、ハンガリーの美しい首都ブダペストで流れゆくドナウ川を見送って、この旅を終える。
そこから先は、ドナウ川に沿って走る列車はない。
調べれば、大きく迂回しながらも、列車や路線バスを乗り継いで、黒海の河口付近まで行けるのかもしれない。だが、それはもう若い人のバックパッカーの旅になる。列車が通らぬ地は、私にとって、「未開の地」である。
ちなみに、ドナウ川は、全長2850キロ。ヨーロッパではヴォルガ川に次いで長い大河である。
(流れゆくドナウ川/ブダペスト)
旅の具体的な行程は以下のようであった。
第1日> (5月23日)
関空 () フランクフルト
() ニュールンベルグ
() レーゲンスブルグ(泊)
第2日> (5月24日)
レーゲンスブルグ観光(泊)
第3日> (5月25日)
レーゲンスブルグ () パッサウ
パッサウ観光 (泊)
第4日> (5月26日)
パッサウ (→) ザルツブルグ
ザルツブルグ観光 (泊)
第5日> (5月27日)
ザルツブルグ () ウイーン
ウイーン観光 (泊)
第6日> (5月28日)
ウイーン観光 (泊)
第7日> (5月29日)
ウイーン () ブダペスト
ブダペスト観光 (泊)
第8日> (5月30日)
ブダペスト観光 (泊)
第9日> (5月31日)
ブダペスト () フランクフルト ()
第10日> (6月1日)
() 関空
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<なぜ?? ── そこに立ちたいから>
塩野七海の『ローマ人の物語』は1年に1巻ずつ書き下ろされ、最後の15巻目が刊行されたのは2006年の暮れだった。毎年、本屋で新しい巻を見つけるのが楽しみだった。
江戸時代以前、日本の知識層は基礎教養として中国史を読んだ。
明治以後、攘夷思想の変容として、欧米に追い付き追い越せと、西欧文明の修得に励んだ。しかし、西欧知識人の基礎教養であるローマ史まではなかなか手が回らなかった。
もし、明治以後の日本人が、日本史や中国史やヨーロッパ近・現代史だけでなく、古代ローマ史を学んでいたなら、近代日本の内政も、対外政策も、もう少し違ったニュアンスのものになっていたかもしれないと思う。欧米知識人は、少年の頃、わくわく胸躍らせながらローマの英雄たちの歴史物語を読み、自分の血とし肉とした。為政者の統治と市民との融和、議会におけるスピーチのあり方、異民族との戦争と講和の仕方、植民政策のやり方とグローバリズム、パクス・ロマーナ … 。成熟したおとなになるための基礎教養の欠如が、日本の近代史の不幸の要因の一つであったかもしれないと思う。
その長大なローマ史が、塩野七海という女性作家の手によって、日本語の歴史文学として完成した。これは称賛に値する。日本近代文学は「私小説」だけではない。早速、韓国でも、中国でも翻訳された。中国史には、このような歴史はない。
『ローマ人の物語』の最終巻の末尾の1節は、「歴史」への向かい方を教えてくれる。
「盛者は必衰だが、『諸行』も無常。これが歴史の理ならば、後世のわれわれも、襟を正してそれを見送るのが、人々の営々たる努力のつみ重ねでもある歴史への、礼儀ではないだろうか」。
ドナウ川は、ローマ帝国の北の防衛線であった。
「バーバリアン(蛮族)」との間に国境はない。ドナウ川はローマ帝国の北の防衛線であり、最前線だった。ローマ人にとってそこは辺境の地であり、文化果てる地でもあった。
『ローマ人の物語』を読みながら、そこに立ってみたいと思った。
もちろん、「ローマ帝国の遺跡」などは残っていない。ローマの巨大な遺跡を見たければ、イタリアや南仏やスペインに行けばよい。
レーゲンスブルグも、パッサウも、ウイーンも、ブダペストも、ローマ軍の辺境の駐屯地が置かれた所だ。今は、中近世の美しい歴史の街として人々を魅了しているが、ローマの遺跡は痕跡ほどしかないし、わずかな痕跡を探して旅をしてもつまらない。
ただ、遥かに遠い昔、銀色に輝く兜に赤いマントをなびかせたローマ軍の士卒が、滔々と流れるドナウ川の河畔をパトロールした。
そこに自分も立って、自分の目で眺めたい。これがこの旅の動機である。
三木清「旅について」(『人生論ノート』から)
「旅はすべての人に多かれ少なかれ漂泊の感情を抱かせる」。
「旅の心は遥かであり、この遥けさが旅を旅にするのである」。