(メンヒスベルクの展望台から)
<旅の計画のこと ─ どの町を訪ねるか>
パッサウを出ると、列車で国境を越えてオーストリアに入る。
この旅を計画したとき、パッサウの後、ウィーンへ行く前、どこの町を見学し1泊しようかと迷った。
オーストリアについては、この旅より10年近く前、旅行社のツアー「晩秋のオーストリア紀行」に参加して、ウィーンをはじめ各地を見て回っていた。
ドナウ川沿いの町では、リンツ、メルク、デュルンシュタインなど。ドナウ川はこれらの小さな町を滔々と流れ、湾曲して山影に消えていった。
ドナウ川を離れてオーストリアアルプスの北麓の町や高原 ─ ザルツブルグ、ザルツカンマーグート、ハルシュタットなども訪ねた。
今回は観光バスではないから、こんな風にあちこちつまみ食い的に見て回るわけにはいかない。鉄道駅から近く、しかも、1泊するだけの見どころがある町でなければいけない。
あれこれ迷って、結局、ザルツブルグにした。
映画ファンというほどではないが、過去に感動し心に残った映画はいくつかある。ザルツブルグとその近郊を舞台にした『サウンド・オブ・ミュージック』もその一つ。それに歴史と文化遺産がある。もう一度、あの町を訪ねてみたい。
パッサウからなら、途中、ヴェルスで乗り換えて、2時間弱で行ける。
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<ホテルの予約>
前回のオーストリア・ツアーのとき、ザルツブルグでは新市街の大型ホテルに宿泊した。今回は旧市街の中のホテルを予約する。
ヨーロッパのどこの町でも、旧市街のホテルは古くて、廊下は暗く、部屋は狭く、中にはエレベータが付いていないホテルもある。それでも、ザルツブルグは夏の音楽祭シーズンだけでなく、世界から年中観光客がやってくる。ホテルの料金は安くはない。
ヨーロッパでは、航空券でも、列車のチケットでも、ホテル代でも、その値段はその時々の需要と供給の関係で決まる。そういう点、日本よりもさらにオープンで、ドライだ。
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<見学先をしぼる>
ザルツブルグは前回のツアーの折、自由時間を使ってかなり丁寧に見て回った。それで、今回は思い切って対象をしぼった。
前回のザルツブルグで一番印象に残り、もう一度訪ねたいと思うのはホーエンザルツブルグ城。それも城塞としてではなく、そこからの眺望。あのパノラマをもう一度眺めたい。
あと一つ付け加えるなら、ザルツブルグ大聖堂。この町はザルツブルグ大司教が領主として統治し、創り上げた街だから、その中心はやはり大聖堂。
あとは付録。時間があれば見て回ることにする。
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<ホーエンザルツブルグ城の室内楽コンサート>
ヨーロッパ旅行をする個人旅行者にとって、この旅行の頃(2010年頃)のインターネットの普及は目覚ましかった。航空券もホテルも、旅行業者を通さず、ネットの中で自分の予算と旅の目的とスタイルに合わせて、自由に選んで購入できるようになった。
昔は、パリとかウィーンの伝統的な会場で催されるオペラやコンサートのチケットを、旅行社に依頼し高い手数料を払って入手していた。もちろん、私はそういう贅沢、オシャレな旅行をしたことはない。しかし、今では、ヨーロッパのどこかの都市のどこかの教会で催されるちょっとした弦楽四重奏などのコンサートも、主催者はネットでPRし、日本のどこからでもネットの中で事前にチケットを入手できる。
ということで、今回は、ホーエンザルツブルグ城の元大司教の居室で催される室内楽コンサートのチケットをゲットした。ディナー付のコンサートだ。小さなことだが、旅先での新しい挑戦。旅は自分への挑戦である。
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<ザルツブルグは塩の城>
※ [お断り] コロナのお陰でオンライン化が一挙に進み、カルチャーセンターのプログラムをどこでも …… 東京の大学の若い先生のヨーロッパ中世史の講座も、受講できるようになりました。今まで、本を読んでも、ウィキペディアで調べても、隔靴掻痒の感があったヨーロッパ中世史ですが、月1回、順を追った丁寧な講義をお聴きしていると、今まで腑に落ちなかったことが、あっ、そういうことか、と胸の奥にストンと落ちてくるのです。
で、以下、また、歴史について書きます。素人の歴史講義ですから、信用しないでください。また、興味のない方はカットして、先の項へお進みください。
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ザルツブルグは東へ流れていくドナウ川からは離れ、パッサウから直線距離にして南へ100キロほど下がった位置にある。アルプスの麓に近いドイツとの国境の町で、人口は約15万人。世界遺産の街。
地図を眺めていてふと気づいた。一昨年参加した旅行社のツアー「ドイツ・ロマンチック街道の旅」 の、旅の終わりに訪れたケーニヒ湖に近い。ケーニヒ湖のそばのベルヒテスガーデンの町で土産物として岩塩を売っていた。
岩塩はベルヒテスガーデンから15キロほど北上したバート・デュルンベルクの岩塩坑で採掘される。その岩塩坑からさらに15キロほど北上すれば、ザルツブルグに到るのだ。国が違い、参加したツアーが違うから、二つを関連付けることができなかった。
「ザルツ」は塩。ザルツブルグは「塩の城」の意。
岩塩は紀元前のケルト人の時代から採掘されていた。
BC1世紀には、ローマが、文明とともにやってくる。アルプスより北、ドナウ川より南のこのあたり(今のオーストリア)は、ローマ時代、「属州ノリクム」と呼ばれていた。
5世紀、ゲルマン諸族が次々に侵攻し、西ローマ帝国は滅亡して、混沌の時代に入る。
このあたりには、ゲルマンの一族バイエルン人が侵攻・定着し、バイエルン公国をつくった。首都はレーゲンスブルグ。そこへさらにフランク族がフランク王国の版図を広げてくる。
今のイタリア、スペイン、フランスなどは、ローマ時代にローマ化され、ローマ帝国の終わり頃にはキリスト教が国教化されていた。
そこへ侵入してきたフランク族の王クローヴィスは、賢明にもいち早くカソリックに改宗し(497年)、既にローマ化、キリスト教化していた人々を安心させた。
一方、ライン川より東、ドナウ川より北の地域(ドイツ、オーストリア、チェコなど)は、もともとローマの防衛線の外にあり、ローマ化もキリスト教(カソリック)化もされていなかった。
この混沌としたゲルマニアの地域を支配下におさめるため、フランク王国の宮宰であったカロリング家のカール・マルテル(688頃~741)は、片や軍事力の行使、片やキリスト教(カソリック)の布教という2つの政策を車の両輪にして版図を広げていった。
のちに「ドイツの守護聖人」とされる聖ボニファティウスは、719年にローマ教皇からゲルマニアへの伝道と教会整備の任を与えられた。カール・マルテルは彼を保護し援助して、ゲルマニアのキリスト教化を押し進めさせた。
740年には、フライジング、レーゲンスブルグ、パッサウ、ザルツブルグに4つの司教座を建ててボニファティウスに寄進し、彼を全ゲルマニアの大司教とした。
フランク王国は直属の部下を「伯」として各地に派遣し、版図を統治しようとした。だが、それだけでは広大なフランク王国を統治するに不十分。そこで、司教に領地を寄進し、司教を領主として、布教した地域を統治させていったのである。
(文書能力があり、その下に司祭や助祭や信徒たちを組織し、いざとなれば外敵 ─ このあたりではマジャール人 ─ の襲撃に対して、人々を組織して戦うこともできるのは、キリスト教の司教だった。フランク王国の時代、近代国家のような常備軍、警察組織、官僚組織などはなかったのだから)。
ドイツ中近世史に、諸侯と並んでしばしば司教領主が登場するのは、以上のような事情があった。
しかし、世の中が安定してくると問題が起こる。司教の任命権はローマ教皇にあるのか、ドイツ王(神聖ローマ帝国皇帝)にあるのか。いわゆる叙任権闘争が勃発する。
それは後のこととし、7世紀のザルツブルグについて少し付け加える。
ザルツブルグでは、聖ボニファティウスより少し前に、バイエルン公がルーベルトという司教にザルツブルグ周辺の領地を寄進し、ドナウ川中流域への布教を促進させていた。司教ルーベルトは布教の成果として、ザルツブルグにサンクト・ペーター修道院を創設している。
それから時代が下って、10世紀以降になると、大司教が領主であったザルツブルグは、広大な土地から上がる税収のほかに、ザルツブルグの奥地で採掘される岩塩がヨーロッパ各地に輸送され、莫大な富を蓄積していった。
この豊富な財力によって、歴代の大司教たちは大聖堂やレジデンツ(大司教宮殿)を建設し、背後の丘の上にはホーエンザルツブルグ城を建て、ザルツブルグをバロック様式の街につくり上げていった。
塩の財によって繁栄した町。ザルツブルグは「塩の城」であった。
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<ザルツブルグへの移動>
5月26日 快晴。夏の暑さ。夜は小雨降り、気温が下がる。
普通列車(鈍行)に乗ってパッサウを出発し、2駅目で、また、列車から降ろされた。
事情はよく分からない。言葉の通じぬ旅行者は、降りろと言われれば素直に降りるだけ。ここは先進国のドイツ、そしてオーストリア。ジタバタせず成り行きに任せる。
昨日と違って、降りた駅には既にバスが待機していた。さすが
乗客全員を乗せるとフルスピードで次の駅へ。速いちょっと速すぎる
また列車に乗り、結局、8分遅れただけで乗継駅のヴェルスへ着いた。
ヴェルスはドナウ川から30キロほど南に下がった位置にあり、ローマ帝国時代には州都だった町だ。
ヴェルスから特急に乗り換えてザルツブルグへ。
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<清流と、丘の上の城塞>
ザルツブルグ駅からタクシーに乗り、旧市街の中心部のレジデンツ(大司教宮殿)広場まで行く。広場からは車の入れない路地を少し歩いてホテルへ。
ザルツブルグの町は、ザルツァッハ川によって2つに分けられる。ザルツァッハ川より北東部は新市街。南西部が旧市街だ。
(ザルツァッハ川と旧市街)
ザルツァッハ川の清流はアルプスに源を発し、ザルツブルグを経て、ドイツとオーストリアの国境を成しながら北上。やがてイン川に流れ込む。イン川はパッサウでドナウ川に合流する。古来、ザルツブルグの奥地で採掘された岩塩は、この川を使ってヨーロッパ各地に送られて、ザルツブルグ大司教(領主)に大きな富をもたらした。
旧市街の背後にはメンヒスベルグという丘が1.3キロに渡って続く。その丘に、この町の領主である大司教の築いたホーエンザルツブルグ城があり、町のどこからでも望むことができた。