ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

雨のウィーン … ドナウ川の旅8

2022年12月31日 | 西欧紀行…ドナウ川の旅

  (シェーンブルン宮殿の庭園側)

5月28日 雨。寒い。

 朝、ホテルの部屋のテレビで天気予報を見た。晴天が続いて、ザルツブルグでは30度を越える真夏のような暑さだったが、昨日は時折小雨。そして今日は雨。気温は18度までしか上がらないようだ。ヨーロッパは寒暖の差が激しい。

<雨のシェーンブルン宮殿>

 今日の午前の予定は、シェーンブルン宮殿。

 旧市街から西南へ4キロの所にある。今は地下鉄やトラム、車が行き交う新市街の中だが、昔は「ウィーンの森」に続く森林だったそうだ。そこにハプスブルグ家の皇帝が狩猟用の館を建てた。館の近くの森の中に泉が見つかり、「シェーナー・ブルンネン(美しい泉)」と名付けられた。これがシェーンプルンの名の由来だ。18世紀後半に女帝マリア・テレジアが、狩猟用の館をバロック・ロココ風の壮麗な夏の離宮に造り替えた。

 前回のツアーでは、シェーンプルン宮殿の各部屋を日本語ガイドの案内で詳しく見て回ることができた。政務のかたわら16人の子を産み育てた女帝マリア・テレジアの夏の離宮は、ルイ14世のヴェルサイユ宮殿と比べれば、母親らしい気配りもあり、かつ堅実な家風のハプスブルグ家らしい宮殿だった。とはいえ、壮大にして贅を尽くした大宮殿であることに変わりはない。

 ヴェルサイユ宮殿の鏡の間を模した大ギャラリーは、6歳のモーツアルトが演奏をして、マリア・テレジアからお褒めの言葉をいただいた広間。のちに、「会議は踊る」の舞台となった。

 印象に残った部屋がある。アメリカのケネディ大統領とソ連のフルシチョフ首相が会談したという部屋だ。核戦争の危機(キューバ危機)をかろうじて乗り越えたあと、トップ会談が実現し、この宮殿が会談場に選ばれた。会談が行われた部屋は警備上の配慮から窓のない部屋だった。

 その部屋に入った途端、息苦しくなり閉所恐怖症になりそうになった。扉を閉ざしたこの部屋の中で、両首脳は世界の運命を決める白熱した議論をしたのだ。

 それはともかく、私にはヨーロッパの大宮殿や大邸宅はなじめない。料理人と召使い付きで差し上げると言われても、住みたいとは思わない。遠くから眺める分には、それなりに絵になるのだが。

 すっきりとむだのない、清々しい書院造り風の家屋を日本で見学すると、心が和む。

 西欧では、「自然」を人工化し(例えばルネッサンス庭園)、「文化」(例えば宮殿)の中に「自然」を取り入れる。日本では、「文化」そのものが「自然」の力を借りて造られ(例えば陶器茶碗。「おのずから~なる」という言葉)、また、「文化」(書院造の建物や庭)は大きな「自然」の中に包み込まれている。

      ★       

 今回は、シェーンプルン宮殿の広大な庭園を歩きたいと思っていた。

 広大な庭園の南端は丘になっていて、そこに回廊が建てられ、グロリエッタ(展望テラス)と呼ばれている。ただ、近く見えるが、宮殿の建物から直線距離で1.7キロぐらいあるらしい。グロリエッタを往復するだけで3.5キロ。それでも、その丘から広大な庭園越しのシェーブルん宮殿を撮影したいというのが、今日の計画だった。

 (街をゆく観光用の馬車)

 地下鉄を乗り継いでシェーンブルン宮殿へ。ホテルを出た時から雨が降っていたが、宮殿に着いた頃はかなりの雨。加えて、ひどく寒かった。

 (シェーンブルン宮殿正面)

 マリア・テレジア・イエローは雨に濡れてなお鮮やかだが、地面は既にぬかるみ、雨脚は強くなるばかり。宮殿の付属のカフェ・レストランに入って雨宿りし、コーヒーを飲んで暖を取った。しばらく様子をみたが、やみそうもない。

 結局、グロリエッタはあきらめて、宮殿の周りを少し歩いて、また地下鉄に乗って旧市街へ帰った。

      ★

<ドナウ運河の方へ旧市街を歩く>

 午後、雨が小降りになった旧市街を、昨日よりもっと北の方、旧市街の北端のドナウ運河まで歩いた。

 この辺りは、旧市街でも、ローマ軍団の城壁の中だった所だ。

 旧市庁舎が建つホーエルマルクト広場は、9世紀に、近隣から集まってくる商人たちが市を立てることができるよう開かれた広場。広場の片隅から、ローマ軍団の将校官舎の跡が発掘されている。ただ、今は、華やかなショッピング街はこの広場より南になり、この広場から北は下町のような風情がある。

 広場にアンカー時計があり、定時を前に観光客が集まって頭上を見上げる。時計から人形が登場するからくり時計だ。

 (アンカー時計)

 登場するのは、ウィーンの歴史に名をとどめた12人の人たち。

 紅山雪夫さんの『オーストリア・中欧の古都と街道』は名著だが、この12人を紹介しながらウィーン(オーストリア)の歴史を紹介している。以下はそのダイジェスト。

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<ウィーンで没した皇帝マルクス・アウレリウス(在位161~180)>

 オーストリアには、先住民のケルト人が住んでいた。

 ウィーンの歴史は、ローマ帝国の第2代皇帝ティベリウス(在位AD14~37)が築かせたローマの軍団基地に遡ることができる。ローマはドナウ川を帝国の北の防衛線にしようと、軍団基地を築いていった。

 当時は「ヴィンドボーナ」と呼ばれた。

 軍団基地は、定められた規格によって建設された。

 ヴィンドボーナも1辺が約400mほどの城壁に囲まれていた。城壁の厚さは6m、高さは8~10m。さらに周囲に堀を巡らせていた。今、旧市街の高級ショップ街である「グラーベン通り」はこの基地の南の堀の跡である。基地の北側はドナウ川が流れていた。

 ここに1軍団6千人の将兵が駐屯していた。

 基地の真ん中に広場があり、広場には官庁や会議場があって、社交の場である公衆浴場や病院、下水道も完備していた。

 中心の広場から東西南北に道路が走り、城門の外のローマ街道に通じていた。

 ドナウ川に沿って、軍団基地と次の軍団基地を結ぶために、補給基地、騎兵基地、歩兵基地、見張り台などが数珠つなぎに置かれている。その間を結ぶのは街道。そして、全ての街道はローマに通じていた。中国は万里の長城を築き、ローマは街道を通した。

 地中海を中海にして、西ヨーロッパから、アフリカ大陸の北部を通り、中東に到る広大な帝国の辺境を、ローマはこのように防衛線を築いて守った。

 ローマ帝国の中に軍隊はいなかった。首都であるローマに近衛軍団がいるだけだ。パクス・ロマーナは辺境を守る最小の軍隊(最小の防衛費)と張り巡らせた街道とで効率的に守られていたのだ。

 ドナウ川の流れに沿うハンガリーのブダペストも、セルビアのベオグラードも、ローマの軍団基地を起源とした都市である。

 ウィーンのローマ軍団基地は市街地だから、考古学的発掘調査はできない。

 塩野七海『ローマ人の物語Ⅺ 終わりの始まり』によると、皇帝マルクス・アウレリウスがドナウの各軍団長を指揮するために滞在することが多かったカルヌントゥㇺ(ウィーンから50㌔下流の軍団基地)の大規模な発掘調査が行われている。それによると、カルヌントゥㇺの軍団基地(400m×500m)の背後を囲むように、軍団関係者の居住地区が広がっていた。皇帝マルクス・アウレリウスの后は、この居住地区で将兵やその妻たちの世話をして「基地の母」と呼ばれていたそうだ。さらに墓地をはさんでその後方には、地元住民や退役軍人たちの住民共同体があり、ここでは「市」も常設されていた。この2つの地域の全体が軍団基地だったらしい。その双方に、広場も、公衆浴場も、コロッセウムもあった。

 この防衛線上の基地と基地の隙間を抜いて、ゲルマンの騎馬隊が帝国内の奥深く、今のヴェネツィアの辺りまで侵入し、殺しまくり、奪いまくり、人々を恐怖に陥れた。一旦、リメスの中に入られたら、中に軍隊はいないのだ。しかも、ドナウ川の向こうのゲルマン各部族に、そういう不穏な動きがあることが、マルクスのもとに知らされた。

 第16代皇帝マルクス・アウレリウス(在位161~180)はそういう事態に直面した最初の皇帝だった。

 彼は皇帝の責務として自ら辺境の地に赴き、各軍団基地の司令官を指揮して、前期と後期の5年間、ゲルマニア戦役を戦った。そして、179年の酷寒の冬をヴィンドボーナ(ウィーン)で過ごした。これまでの戦いから、春を迎え戦闘を再開すれば決定的な勝利が得られると考え、翌春の戦闘の準備が進められていた。その矢先に、もともと病身だった皇帝は倒れた。59歳を迎えるところだった。

 そこで、アンカー時計の第1番目は、ウィーンで没した皇帝マルクス・アウレリウス。

      ★

<ウィーンに入城したカール大帝(国王在位768~814年)>

 ホーエルマルクト広場から、旧市街をさらに北の方へ歩いて行くと、道は入り組んで下町のにおいがする。マップを見るとJudengasse(ユダヤ通り)とある。ウィーンはフロイトやマーラーら優れたユダヤ人が活躍した町でもある。その先で道が下り坂になり、坂の途中に聖ルプレヒト教会があった。

 ローマ帝国は東西に分裂し、西ローマは衰えていった。防衛線に配置されていたローマ軍も撤収され混沌の時代に入る。476年、西ローマ帝国滅亡。

 混沌が少しずつ治まってくると、人々はローマ軍の軍団基地の崩れた城壁の中に徐々に戻ってきて、小さな集落をつくって暮らした。そこへ、辺境への宣教を志すカソリックの聖職者がやってくる。

 聖ルプレヒト教会はAD740年頃に創建されたと言われ、ウィーン最古の教会である。蔦がからんだ古い石造りの聖堂は11、12世紀のものらしい。その土台部分はローマ時代の城壁の一部。

 その下をドナウ運河が流れていて、急な石段を伝って下りていく。

   (ドナウ運河)

 ゲルマン諸族が次々に侵攻して混沌状態になっていた頃、その中から頭角を現したのがフランク族の王クローヴィス(在位481年~511年)。フランク王国を建国し、カソリックに改宗した。

 フランク王国は次第に勢力を大きくし、8世紀の後半、カロリング朝のカール大帝のときに、今のフランス、ドイツ、イタリアにまたがる王国をうち建てた。791年にはウィーンにも入城する。そこで、アンカー時計の2番手はカール大帝である。

 なお、前回のオーストリアツアーのときは、「ホテル・ヒルトン・ダニューブ」に泊まった。ウィーンの郊外にあり、裏をドナウ川が滔々と流れていた。だが、この流れは人工の流れ。ドナウ川はもともとウィーンの旧市街の北辺を流れていたが、幾筋にも枝分かれしてよく氾濫を起こした。そのため、19世紀に流れをまとめて、一直線の人工の大河に造り替えた。

 その流れから枝分かれしたドナウ運河が、実は古代ローマ以来、ドナウの本流が流れていた川筋である。

      ★

<ウィーン発展の礎を築いたオーストリア公レオポルト6世(在位1198年~1230年)>

 せっかく統一されたフランク王国は3分割され(ゲルマン人は嫡子相続ではなかった)、現在のフランス、ドイツ、イタリアの原型になった。(なお、スペインは、地中海を渡ってきたイスラム勢力が王国をつくっていた)。

 9世紀になると、東方から騎馬遊牧民のマジャール人が侵攻してきて、896年にはウィーンも占領された。彼らは強く、西へ西へと、南ドイツ、北イタリアまで侵攻し略奪を繰り返した。防衛の先頭に立ったバイエルン公や司教様にも戦死者が出たほどだ。

 神聖ローマ帝国の皇帝だったオットー2世は、マジャール人を防ぐために東方辺境伯を置き、バーベンベルグ家のレオポルト1世を任命した。996年の公文書に「東方の国(オスターリキ)」という言葉が登場し、オーストリアは996年をもって建国の年としている。

 さて、バーベンベルグ家は幾世代もかけて、北方のスラブ、東方のマジャールと戦いながら勢力圏を拡大し、12世紀にウィーンに到達した。そこで、時の皇帝フリードリッヒ1世は、バーベンベルグ家を「東方辺境伯」から「オーストリア公」に昇格させた。

 12世紀末、ウィーンの人口は増え、オーストリア公のレオポルト5世はウィーンの城壁を現在の旧市街の範囲まで広げた。そのための資金には、十字軍から帰国中に捕らえた英国の獅子王リチャードの身代金を使ったという。

 次のレオポルト6世は、街道を四方に通し、産業を興隆し、市民の自治を認め、ウィーンを興隆へと導いた。ケルントナー通りはこのときに造られた街道で、地中海貿易で興隆期を迎えようとしていたヴェネツィアに通じている。そこで、アンカー時計の3番手はレオポルト6世(在位1198年~1230年)。(4番手は吟遊詩人なので省略)。

      ★

<華やかなハプスブルグ帝国の都の時代(1273年~)>

 13世紀の半ば、バーベンベルグ家は後継ぎがなくなり、断絶する。

 ちょうどその頃、大空位時代を経て、神聖ローマ帝国皇帝にハプスブルグ家のルドルフが選出された。ハプスブルグ家はスイスの小豪族に過ぎなかったが、諸侯は皇帝権力を弱めるため弱小豪族を皇帝にしたのだ。

 ドイツは、フランク王国の血筋が絶えた後、諸侯による選挙で王を決めるようになっていた。

 自領を増やしたかった皇帝ルドルフ1世は、空き家となっていたウィーンに入城する。しかし、この人は気さくな人柄で、人の話をよく聞き、人気のある君主だったから、ウィーン市民は歓迎した。

 その後、ハプスブルグ家はスイスの父祖の地を失っていき(スイスの独立)、名実ともにオーストリアを本拠とするようになった。田舎町のウィーンも帝都ウィーンへと発展していく。そこで、アンカー時計の5番手はハプスブルグ家最初の皇帝ルドルフ1世(在位1273年~1291年)。

 6番手には、ウィーンのシンボル、シュテファン大聖堂を完成させた建築家が登場する。

 7番手はハプスブルグ帝国の大発展の基を開いた皇帝マクシミリアン1世(在位1493年~1519年)。

 8番手と9番手は、オスマン帝国の16万の大軍に包囲されたウィーン(第2次ウィーン包囲)(1683年)を、1万6千人の守備軍で守り抜いた市長と軍司令官。ウィーンを守り抜いているうちに、オーストリア、ドイツ諸侯、ポーランドの7万の援軍がやって来て、オスマン軍を撃破した。

 10番手は、第2次ウィーン包囲のあと、16年間に渡る対オスマン帝国との戦いで、オスマンの勢力圏を大きく後退させたプリンツ・オイゲン公。

 11番手は、マリア・テレジアとその夫(在位1740年~1780年)。12番手は音楽家ハイドンとなる。 

       ★

<リンクを1周する>

 シュヴァーデンプラッツに出て、リンク(環状道路)を回る1番と2番のトラムを乗り継ぎながら1周し、所々で下車して見学した。

  (リンクを走るトラム)

 オスマン帝国による第1次ウィーン包囲のとき、ウィーンの城壁は大砲がない時代に築かれたものだったから、オスマン軍の得意とする大砲攻撃にさらされて市民は恐怖の日々を過ごした。その年は天候が不順で、オスマン軍がウィーンに到着したときは秋も深まっており、なお雨が降り続いて、冬の到来をおそれたオスマン軍は早々に撤退した。ウィーンは気象に助けられたのだ。

 当然、第2次のオスマン軍の襲来があることが予想された。そこで、オスマンの大砲攻撃に備えて、町を囲む城壁の前面に分厚い堡塁を付け、堡塁の上には大砲を並べた。その外側に堀。さらにその外側は、建造物も樹木も取っ払い、幅500mもの空き地帯を巡らせた。当時の大砲の射程距離を考慮したもので、敵軍は敵が身を隠す遮蔽物がなく、近づけば城壁の上からは狙い撃ちされる。

 この防衛施設によって、1683年の第2次ウィーン包囲のときには、16万のオスマン軍を防いだ。

 しかし、19世紀初頭、ナポレオン軍の攻撃を受けたときは、空き地帯の遥か後方から巨砲で攻撃され、城壁も空き地帯も無用の長物になった。

 19世紀中頃、皇帝フランツ・ヨーゼフは、反対する軍部の声を退け、この防衛施設を完全に撤去させた。そして、その跡地を、広いリングシュトラーセ(環状道路)に変えた。さらに残る広大な空き地は公と、民への払い下げによって、美しく華やかな建造物や公園が造られていった。

 ルネッサンス様式の美術史美術館と自然史博物館、民主政治発祥の古代ギリシャにあやかったギリシャ神殿風の国会議事堂、市民共同体の理想としてベルギーのブリュッセルの市庁舎を模したネオゴシック様式の新市庁舎、ブルク劇場、ルネサンス様式のウィーン大学、双塔をもつネオゴシック様式のヴォティーフ教会、アール・ヌーヴォ様式の駅舎、バロック様式のカールス教会、そして市立公園など。

 市立公園のヨハン・シュトラウス像は、台座を修理中だった。

(ネオ・ゴシック様式の新市庁舎)

 ネオ・ゴシック様式の新市庁舎は壮麗だが、市の職員はここで働いていないそうだ。従って、市民も来ない。市民がこの建物を訪れるのは年に何回かの大舞踏会のときだけ。あとは、外国からの賓客があったときに使われる。いつもは市長がこちらにいらっしゃるとか。前回のツアーの時、その地下の食堂で食事した。大阪府庁の食堂をイメージしていたが、豪華に装飾された壁面をもつ宮殿風のレストランだった。もちろん、観光客用のレストランで、食事の内容までが高級というわけではない。

 (双塔のヴォティーフ教会)

 双塔が美しいヴォティーフ教会は、外観に比べて中はわびしい。教会の前に掲げられたコマーシャル用の看板には少々あきれた。

      ★

 途中、疲れて「カフェ・ラントマン」に入った。

 パリのカフェは混んでくると、テーブルとテーブルをくっつけて客を入れる。右隣の男女が雀のようにしゃべり、左隣の男女が何か熱心に議論していても、その間の小さなテーブルの小空間はわが空間だ。それに、外のテラス席が空いていたら、人々は外の席に座る。イタリア人もフランス人も、そして私たちのような旅人も、テラス席が好きなのだ。室内の席に座る人も、一人でくつろいでいる人も、常連の近所のおじさんたちも、ガラス越しに外を見ている。外を歩くオシャレなマダムや美しい街並み眺めているのだ。外を歩く人も、テラス席やガラスの中の人を眺めて行く。一言で言えば、パリのカフェは開放的なのだ。

 ウィーンのカフェは、テラス席はあまり見かけない。中に入ると、天井が高く、柱は大理石だったりして、高級感がある。そこで孤独に新聞を読んだり、時には政治情勢をディスカッションしたり。「カフェ・ラントマン」に入った時、あちこちの席にリザーブの札が置いてあった。毎日、時間になると、いつもの自分の席に座るということなのだろう。

 「私は気が向くと、ヘーレン通りの『ツェントラール』やグラーベン通りから南に入った『ハヴェルカ』に行ってほの暗い世界で時を過ごした。特に秋から冬にかけて、淡くなった窓外の陽射しを眺めながら新聞を読み、いつも携えているノートに心に浮かぶ感想を書きとめたりする」(饗庭孝男『ヨーロッパの四季』(東京書籍)から)。

 それに、特筆すべきは、ウィーンのカフェは、中央の一角にガラスケースがあって、様々なケーキが並んでいることだ。番号が付けてあり、カウンターで番号を言って注文する。マダムやマドモアゼルだけでなく、紳士も食べている。私も一度、食べてみたが、1個が大きく、それに甘すぎる。

 パリのカフェでケーキを食べている人は、まずいない。

      ★    

 古代ギリシャの神殿風の国会議事堂。

 フォルクス庭園のバラ園は見事というほかない。

  (フォルクス庭園)

 また「天満屋」で晩飯を食べ、今日の見学を終えた。

 明日は、列車に乗って国境を越え、ハンガリーのブダペストへ行く。

 ガイドブックを見ると、ウィーンほどには治安は良くないようだ。不安もあり、緊張もするが、それでも、未知へ向かうのは心楽しい。

 

※ 2022年も大晦日。来年は今年よりも朗らかな年になりますように。

 皆様がご健勝で良い年をお迎えになられることを心から祈念いたします。。来年もまた

 

 

 

 

 

 

 

 

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