このブログ、春には再開するとしていたのに、もう6月。そろそろ再開しなければと思っているうちに、4月、5月と月日は流れ、夏になってしまいました。
ぼつぼつと書き進めていきますので、またご愛読のほどよろしくお願いします。
さて、今年の桜は早く、日本各地で3月中に満開を迎えました。
桜が散った4月早々、司馬遼太郎の『街道をゆく36 神田界隈』『街道をゆく37 本郷界隈』の2冊をバッグに入れ、小さな東京旅行に出かけました。
東京に在住の方には今さらと思われる内容ですが、東京に住んだことのない方、或いは私のように、遠い昔、学生生活を4年間だけ過ごしたが、その間も改まって東京見物などしなかったという方へ向けて、ささやかな東京紀行です。
それにしても、2泊3日のうち歩いたのは真ん中の1日だけでしたが、ヨーロッパ旅行のときと同じく、てくてくと、よく歩きました。
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<神田の古本屋>
「神田」という地名を聞くと、私より少し年下の世代なら、フォークソングの「神田川」(南こうせつ)が思い浮かぶかもしれない。
「貴方はもう捨てたのかしら/24色のクレパス買って/貴方が描いた私の似顔絵/巧く描いてねって言ったのに/いつもちっとも似てないの/窓の下には神田川/3畳1間の小さな下宿 /貴方は私の指先見つめ/悲しいかいってきいたのよ」。
私の学生時代は、この歌より10年ほども前。その頃は、まだ東京・大阪間の新幹線も通じていなかった。地方から出てきた学生にとって、「遠さ」の感覚は、今の学生がニューヨークとかロンドンに留学するのと変わらないぐらいだったかもしれない。
時間がかかるというだけでなく、貧乏学生の身には旅費が大変で、それで一度上京するとなかなか帰省できなかった。「ふるさとは遠きにありて思ふもの」である。
「3畳1間の小さな下宿」だから、歌の主人公たちも貧しいが、私の時代の日本はさらにもう少し貧しかったと思う。安月給のサラリーマンの親が、財産は残してやれないが、せめて学歴だけはつけてやりたいと、月々、無理して送ってくれた仕送り。あとはアルバイトの収入で学生生活はかろうじて成り立っていた。手元に明日の食費(外食だった)がなくなり、授業をサボってアルバイトで日銭を稼いだこともある。新宿の繁華街はよく歩いたが、ポケットにお金がなかったから、青春の鬱屈を抱えながらただやみくもに当てもなく歩いた。
だから、彼女と同棲したり、「24色のクレパス買っ」たりする余裕はなかった。
それに、世の風潮ももう少しバンカラというか、ストイックだったように思う。
「神田」と聞いて浮かぶイメージは、「古本屋の街」。と言っても、おカネのなかった私には縁遠い街だった。学者や作家が神田の古本屋巡りをしたというようなことをエッセイに書いているのを読んで、そういう人生の楽しみ方もあるのだと知った。
それでも、大学3年の終わりごろ、神田の古本街の1軒で『国木田独歩全集』7巻を見つけ、知人に借金して思い切って買い求めて、卒論を書いた。卒業するためには卒論を提出する必要があった。
あれから何十年もの歳月が流れ、今、改めて司馬遼太郎の『街道をゆく 神田界隈』を読むと、あの頃、たとえ貧しくとも、もう少し知的好奇心をもって東京という町を歩いておくべきだったと、自分の青春に忸怩たる思いも生じる。
しかし、それも今の年齢になって思うことだなとも思う。
さて、今回の小旅行は司馬遼太郎の文章を追体験してみようというのが目的だから、以下に書くことのほとんどは上記『街道をゆく』の2冊からの引用或いは要約である。本文中の「」も司馬遼太郎の文章の引用である。
引用は引用として明記して出典を明らかにすること。また、参考にした文献があれば、それも明記すること。こういうルールも、卒論を書くなかで学んだことだ。
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<漢学者が気どって名付けた茗渓(メイケイ)>
神田川は「三鷹市の井之頭池で湧き出た水を水源としている」。
「上流が飲み水(上水)としてつかわれ、さらには江戸城の濠(ホリ)も満たした」。「家康の命で、いわゆる『神田上水』を工事したのは、大久保忠行である」。
「家康入国以来、江戸でおこなわれつづけた土木工事は大変なものであった。一例をあげると、『神田御茶ノ水掘割(ホリワリ)』である。
いま聖堂のある湯島台地(文京区)と、神田山(神田台・駿河台)とはもとはつづいた台地だったが、ふかく濠(ホリ)を掘ってこれを切りはなし、その人工の渓(タニ)に神田川の水を通したのである。
現在の聖橋(ヒジリバシ)は、関東震災後、昭和3年にかけられた橋で、湯島台と駿河台をむすんでいる」。
(神田川を渡る聖橋)
「下はふかぶかと渓をなし、神田川が流れている。この掘削は江戸初期の工事である。施工いっさいは、仙台の伊達政宗がうけもったという」。
「完工したのは約40年後の万治2年(1659)という大工事であった。…… 工事が終わって、歳月を経てみると、意外に美しい景観であることが人々にわかった。
ふかく削られた崖には草木が生い茂り、人工の谷に清流が流れ、のちに建てられる湯島の聖堂がみえ、水道橋ちかくは石垣が組まれ、川に上水懸樋(カケドイ)とよばれた屋根付きの木橋が架設されている。いわば当時の都市美というべきものだった。
やがて江戸名所の一つになり、多くの絵師によって描かれた。漢学者は気どって崖下を流れる神田川の人工渓谷を賞し、茗渓などと名づけた」。
さて、引用はこれくらいにして ── 東京駅から中央線に乗って新宿方面へ向かうと、聖橋のある御茶ノ水駅を過ぎ、水道橋駅を通り過ぎるあたりに、「当時の都市美」の名残を見ることができる。
ちなみに学生時代の私は、新宿の先の中野区、杉並区に下宿していたから、電車が水道橋駅のあたりにさしかかると、いつも、大都会の中にあって風光明媚な一角だと車窓の景色を眺めていた。勉強はしなかったが、風景を見るのはこの頃から好きだった。
「茗渓」という言葉は、私が卒業した大学の宣揚歌にも登場し、また、同窓会名にもなっている。「漢学者が気どってそう名付けた」と司馬遼太郎は書いているが、戦前の旧制高等学校等の宣揚歌、逍遙歌、寮歌、応援歌などはみな漢語の多い七五調で、内容は唯我独尊、悲憤慷慨、そして星菫(セイキン)派的(星やスミレを愛する少女趣味的)な歌詞である。青春とはそういうものだ。
青春は、私も含めてそれぞれに一生懸命なのだが、少し離れて見ると可笑しみがある。
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<二つの聖堂を結ぶ聖橋(ヒジリバシ)>
西から流れてきた神田川は、千代田区と文京区の境界をつくり、最後に台東区を横切って隅田川に注ぐ。
千代田区の駿河台とその北の文京区の湯島台とを結ぶ橋が聖橋である。
橋の名は公募で決められたという。
橋の南側の神田駿河台の上にニコライ聖堂があり、橋を北に渡ると孔子を祀る湯島聖堂がある。この2つの聖堂を結ぶということから、「聖橋」と名づけられた。
(御茶ノ水駅ホームから聖橋のアーチ)
関東大震災後の昭和2年(1927)に開通した。全長79.3m。鉄筋コンクリートのアーチ橋。
江戸や大坂の街の中を流れる川も、ヨーロッパの都市を流れる川の多くも、かつては運搬船が行き来していた。鉄道が発達し、道路網ができる近代以前、物資の輸送は陸路よりも河川だった。
神田川も船が航行していた。それで、船から見上げたときに最も美しく見えるようにデザインされたという。
今、そのアーチを見るにはJR御茶ノ水駅のホームからが良いと何かに書いてあった。
写真の橋の右手に緑がのぞく。湯島台に続く緑である。
「JR御茶ノ水駅あたりから、聖橋をあいだに置いて湯島台をみると、丘を樹木がおおっている。梢がくれに湯島聖堂のいらかが見えるから、安藤広重の絵がしのばれぬでもない」。
「しのばれぬでもない」というとおり、湯島の聖堂の杜も、林立するビルの中にあって緑はあまり目立たない。それでも、ないよりはずっと良い。宗派が何であれ、「鎮守の森」は貴重である。
湯島の聖堂は明日歩くことにして、JR御茶ノ水駅を出て南へ、神田の街をニコライ聖堂の方へと向かった。
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<文と武の学びの街だった神田界隈>
「神田界隈は、世界でも有数な(あるいは世界一の)物学びのまちといっていい。
江戸時代からそうだった。維新後もそうで、多くの私学(明治大学、法政大学、中央大学、日本大学、東京理科大学、共立女子大学など)が神田から興ったことでもわかる。
その理由は、江戸に、圧倒的多数の武士が居住していたというほかに、見当たらない。旗本8万騎と俗称される幕臣とその家族が、江戸住まいだった。それに300大名の藩邸がこのまちにあり、定府・勤番の家来が住んでいたから、100万をこえる江戸人口の半分近くが武士か、武家奉公人だった。
かれらの子弟は、当然ながら学問と武芸を学ばねばならない。さらに地方から修学や練武のために江戸をめざしてくる者が多かった。
それらの私塾がとくに神田に集中したのは、地の利によるものだったにちがいない。
武のほうでいえば、江戸末期、神田於玉ケ池(オタマガイケ)にあった千葉周作の玄武館が代表的なものだったろう。流儀は、周作みずから編んだ北辰一刀流で、こんにちの剣道の源流のひとつになった」。
「かれは剣術に、体育論的な合理主義をもちこみ、古来、秘伝とされてきた技法のいっさいを洗いなおして、万人が参加できる流儀を編み出した。剣術史上の周作の位置は、明治初年に柔術の諸流を再検討してあらたに柔道を興した嘉納治五郎に似ている」。
「明治5年から10年ぐらいの時期までの塾の一覧表をながめていると、いまでもそこに通いたいような塾がある」。
司馬遼太郎が、たとえば、として挙げているのは、中江兆民の仏学塾である。「兆民は官立の東京外国語学校校長であるかたわら、塾をひらいたのである」。
実用のものとしては、「測量のしかたを教える普通測量学校や簿記を教える学校、あるいは顕微鏡のつかい方を教える学校があって、新しい時代の "手に職" という分野だったといえる」。
「医師試験の予備校がふえてくるのは、明治15年ごろからである」。
(神田の街)
さて、今の神田は、大東京の一角を占める普通のビル街に思えるが、こうして由緒を知って歩くと、それなりにどこか洗練された趣が感じられる。
神田駿河台2丁目にある「丸善」のお茶の水店で、ノートを買った。家の近所のスーパーの文房具売り場で見つからなかった手ごろなノートがあった。
近くの喫茶店のテラス席でコーヒーを飲んで一服した。
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<東方正教会のニコライ聖堂>
ニコライ聖堂はキリスト教の正教会(東方正教会)の教会である。正式名称は「東京復活大聖堂」というそうだ。
西ローマ帝国の都ローマを本拠に、西ローマ帝国滅亡後も、西欧から中欧へかけて勢力圏を拡大していったのがカソリック(普遍的の意)教会。
それに対して、東ローマ(ビザンチン)帝国の都コンスタンティノープル(今はトルコのイスタンブール)を本拠に、東ヨーロッパ諸国に広がっていったのが正教会(オーソドックス)。
日本においては、幕末、函館のロシア領事館付きの司祭として来日したニコライ(のち大主教)によって初めて布教された。彼は、函館から東京に出て、明治17年にこの聖堂を起工した。
「ニコライ大主教は、明治の日本人から好かれた。日露戦中も日本に踏みとどまり、露探などという低いレヴェルの中傷にも耐えた」。
聖堂は関東大震災で大きな被害を受け、昭和4年(1929)に大改修されている。
1962年に国の重要文化財に指定された。
(ニコライ聖堂)
高さ35mのタマネギ型のドーム屋根をもつビザンティン様式の聖堂。レンガ造り。駿河台の高台に建つ。
これまでヨーロッパ旅行をし、行く先々でカソリックの大聖堂を見学した。また、ギリシャやトルコでは東方正教会の中にも入って拝観した。
ヨーロッパの旅で、私が心ひかれたのは第一に街並み(風景としての街、街のたたずまい)。その次にその町の中心にある大聖堂。人々を含めてその建物の内部の雰囲気。
お城や、王侯貴族の宮殿・邸宅なども見学したが、むやみに巨大であったり、永遠を誇ったり、豪華絢爛であったりする美学には、日本人である私には馴染めなかった。
私は、どんな普遍的な宗教でも、或いは、普遍的であるためには、伝播されたその土地の風土や人々のものの見方、感じ方、考え方を取り入れていく必要があると考える。それは元のものからは大なり小なり変容するということだが、そうしなければ異郷の地に根付くことはない。
今、日本人がイメージするキリスト教は、ヨーロッパに根付き、ヨーロッパ化した「キリスト教」である。それは、南欧や、中欧や、北欧の風土やその地の民俗に彩られたキリスト教である。そして、ヨーロッパ化されているからこそ、日本人には受け入れやすいのだ。
同じように、今、日本に根付いたキリスト教も、日本人のキリスト教徒が意識しているかいないかは別にして、日本人のものの見方、感じ方、考え方で受けとめられた「キリスト教」である。欧米化されたままのキリスト教であるはずかない。
明治の初めに多くの有能な人材を輩出した札幌農学校は、また、日本の初期プロテスタントの発祥の地であった。その地で、アメリカ人教師のクラークは生徒たちに「gentlemanであれ」と教えた。生徒たちはこれを「武士たれ」と理解したという。gentlemanは武士とイコールではない。だが、その精髄において、相呼応している。相呼応しながら似て非なるものである。
普遍性をもつということは、こういうことである。
そういう意味で、日本に根付いた東方正教会のニコライ聖堂に入って、その中を拝観してみたかった。
だが、コロナの影響もあって、ミサの時以外は公開されていなかった。残念。
ウィキペディアによると、リトアニア領事館領事代理として、ナチスから逃れるユダヤ人たちに多くのビザを発給したことで知られる杉原千畝は正教徒だったそうだ。また、西南戦争のときに兄に与せず、新政府中枢で活躍し続けた西郷従道の長男も正教会の信徒だったという。
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本郷通りに面するホテルに泊まり、夜、食事がてら聖橋から御茶ノ水駅あたりを歩いてみた。
(夜の聖橋)
聖橋の上から、JRと地下鉄の列車が上下3段に交差して走る様子が見え、面白かった。
昼間、桜の花びらの筏を並べていた神田川は、闇の底に沈んでいた。
(聖橋の上から)