(湯島天神の境内)
湯島天神は、湯島の聖堂のすぐ北にある。湯島聖堂を見学したついでに、湯島天神へと歩いた。
遠い昔、学生の頃、この天神社を一度訪ねたことがある。
<「湯島の白梅」>
私の少年時代はまだテレビがなく、ラジオからよく流行歌が流れていた。聞くともなく耳にしているうちに、いつの間にか覚えてしまった歌もある。
そういう一つが「湯島の白梅」。
どんな歌詞だったかとネットで検索してみた。すると、ちゃんと出てきた。まだカラオケで歌う人がいるようだ。
歌の題もなかなか粋(イキ)である。
歌手は小畑実と藤原亮子。その1番と3番の歌詞。
1 湯島通れば 想い出す/お蔦主税(チカラ)の 心意気/知るや白梅 玉垣に/残る二人の 影法師
3 青い瓦斯(ガス)燈 境内を/出れば本郷 切り通し/あかぬ別れの 中空に/鐘は墨絵の 上野山
(境内の瓦斯灯)
歌詞から、境内に瓦斯灯があったことがわかる。
歌の当時のものではないだろうが、今も瓦斯灯はあった。
司馬遼太郎『街道をゆく』から、
「木々のなかに、瓦斯(ガス)灯もあった。瓦斯灯は、明治の文明開化の象徴というべきもので、街路や公園の夜をあかるくしていた。説明によると、湯島天神の境内にも何基かあったそうである。瓦斯灯があればこそ主税(チカラ)はお蔦をここへよび出せるのである」。
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<湯島天神の境内で>
もう一つ、遠い日の記憶がある。
学生の頃、文京区の大塚にあった大学の教室で、近代文学史の講義を聴いていた。少壮気鋭の先生の話は活力があって面白く、話が明治の文学者・泉鏡花に及んで、少々脱線して、『婦(オンナ)系図』の有名なシーンにふれられた。
有名な、と書いたが、「湯島の白梅」の有名なシーンを、大学生の私はそのとき初めて知ったのだ。
泉鏡花の『婦系図』が発表されたのは明治40(1907)年。翌年には、新派劇として演じられ、大いに評判を呼んだらしい。
新派劇は歌舞伎に対する「新派」で、題材を現代に取り、人々の哀歓や情緒を描いた大衆的な演劇である。
『婦系図』の主人公は、新進のドイツ文学者の早瀬主税(チカラ)。柳橋の芸妓お蔦と2世を契る仲になっていた。ところが、大恩ある大学教授酒井に知れ、別れろと言われる。孤児であった主税は酒井教授にひろわれ、今日まで息子のように育ててもらった。酒井教授は主税の将来を思い、また、主税と兄妹のようにして育った娘が主税を慕っているのを知っていたのだ。主税は先生の命に抗しがたく、お蔦に別れ話をする。
新派劇では、お蔦をよび出した場所が、湯島天神の境内ということになっている。もちろん菅原道真を祀る神社だから梅の木がある。特に白梅の名所だった。
別れ話を切り出したとき、初めお蔦はこう言う。「別れろの、切れろのは、芸者のときに言うものよ」。
大学の講義の中で先生の話がお蔦のセリフに及んだ時、私の頭の中には、講義の本筋よりもこのシーンが鮮やかに残ってしまった。
湯島天神、早春に咲く清楚な白梅、「別れろの、切れろのは、芸者のときに言うものよ」 …… 江戸文化の「粋(イキ)」とは、こういうのを言うのだろうか。
そして、別の日に、大学からそう遠くないこの神社に行ってみた。行ってみると、当たり前のふつうの神社だった。主税とお蔦をわずかに想像して帰った。
今回初めて訪ねた湯島聖堂のついでに、湯島天神を再訪した。
境内に泉鏡花の筆塚があった。
筆塚とは、寺小屋や家塾の師匠の死後、弟子たちがその遺徳をしのんで建てた記念碑のことだそうだ。碑の作成にかかわった文学者らの名も刻まれていた。
(境内にある鏡花の筆塚)
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<日本人の心の中の美>
『婦系図』(湯島の白梅)は、戦前、戦中、戦後、5回も映画化されている。
初回は昭和9(1934)年で、女優は田中絹代。
2回目は、太平洋戦争が始まってまだ戦勝気分の昭和17(1942)年。主演は長谷川一夫と山田五十鈴。大作だったようだ。このときに、主題歌「湯島の白梅」も作られた。
3回目は戦後の昭和30(1955)年。主演は鶴田浩二と山本富士子。美男美女である。
昭和37(1962)年の市川雷蔵主演を最後に、映画化はされていない。さすがに、話の筋が時代遅れになり、人々を映画館に呼び寄せられなくなったのだろう。
実は私も泉鏡花の『婦系図』を読んでいないし、映画も観ていない。私の世代では、話の筋にちょっとついていけない。
あらすじを読むと、このあと、二人はきっぱりと別れる。
そういう二人の心の芯にあるものは何だろう?? 「義理」を大切にする心。或いは、「(江戸っ子の)心意気」??
作者の泉鏡花には、当時の結婚制度に対する怒りがあったのかもしれない。
ただ、主人公がお蔦と別れた後の展開は相当に奇想天外で、最後は悲劇的な大団円を迎える。あまりリアリティはない。
だが、それでも湯島天神、白梅、お蔦と主税は、粋である。
別れるか、別れないか、どちらが正しいかという「正しさ」のことではない。それは時代によって変わってくる。現代を基準にして、彼らの選択を非難してもあまり意味はない。
ただ、このシーンを美しいと感じる美的感覚は今もなお日本人の心の中に緒を引いて残っているようにも思われる。
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<神名を問うなど>
「いうまでもなく湯島の社(ヤシロ)は、菅原道真をまつる天神の社である。文和4(1355)年、郷民によって建立されたという。文和4年といえば室町幕府初代の足利尊氏のころで、南北の争乱のさなかだった」。
司馬遼太郎はこう書いているが、社伝によれば創建は遥かに古い雄略天皇の2年で、天之手力雄命(アメノタヂカラヲノミコト)を祀った神社だったそうだ。その後、1355年に菅原道真を合祀したとする。ゆえに、祭神は、天之手力雄命と菅原道真の2柱である。
武蔵の国は鎌倉武士団の国だから、高天原(タカマガハラ)の一番の力持ちであるタヂカラヲノミコトの方がふさわしいかもしれないと、勝手なことを考えた。
祭神については、以前も当ブログに引用したが、司馬遼太郎のエッセイ集『この国のかたち』の第5巻に「神道1~7」がある。
「神道に、教祖も教義もない。たとえばこの島々にいた古代人たちは、地面に顔を出した岩の露頭ひとつにも底つ磐根(イワネ)の大きさをおもい、奇異に感じた。畏れを覚えればすぐ、そのまわりを清め、みだりに足を踏み入れてけがさぬようにした。それが、神道だった。むろん、社殿は必要としない。社殿は、はるかな後世、仏教が伝わってくると、それを見習ってできた風である」。
また、伊勢神宮について書いた項に、次のような1節がある。
「何事の おはしますかは 知らねども 辱(カタジケナ)さの 涙こぼるる
という彼 (注:西行) の歌は、いかにも古神道の風韻をつたえている。その空間が清浄にされ、よく斎(イツ)かれていれば、すでに神がおわすということである。神名を問うなど、余計なことであった」。
そのように考えれば、タヂカラヲノミコトとか菅原道真という人格神よりも、「昔からこの地におわす神様」とか、「湯島の神様」と言って手を合わせた方が清々しいように思う。
ただし、これは私の感性であって、信心はそれぞれの心のままにである。
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<歴史の中の菅原道真のこと>
湯島天満宮、通称湯島天神は、江戸、そして東京における代表的な天神社である。
醍醐天皇の御代の901年、右大臣菅原道真は左大臣の藤原時平らの讒訴によって、太宰府に左遷されたという。(→現代の歴史学では、誰の意図で、なぜ左遷されたかについて、時平或いは藤原氏の謀略説には疑問が出されている)。そして、903年、道真はその地で没した。
909年、左大臣の藤原時平が39歳の若さで病死。
その後から、時平の死は、讒訴された道真の怨霊のせいだという噂が、どこからか広がった。(→もちろん、現代の歴史学は怨霊のせいにはしない。病死である。時平家をつぶすために意図的に流されたという説もある)。
923年、醍醐天皇の東宮・保明親王が薨去し、これも道真の怨霊のせいではないかと人々は恐れた。(→もちろん、怨霊のせいではない)。そのため、朝廷は、死せる菅原道真を右大臣に復して、彼の名誉を回復した。
だが、930年、宮中の清涼殿に雷鳴とともに落雷があり、死傷者も出た。人々は道真の怒れる怨霊のせいだとし、それを気に病んでか、醍醐天皇までも薨去した。(→もちろん、落雷は自然現象であって、怨霊のせいではない)。
947年、朝廷は菅原道真を北野天満宮に神として祀った。また、その後、正一位太政大臣の位を贈って、道真の神格化を一層進めた。天の神、天神の誕生である。
私たちの世代は、「894年、菅原道真、遣唐使廃止。その結果、国風文化が興る」とならった。しかし、現代の歴史学では、遣唐大使に任じられていた道真が、唐に内乱が勃発したことを知り、遣唐使の「延期」を奏上しただけだとする。その後、唐は滅亡し(907年)、遣唐使はなし崩し的に廃止された。そもそも、遣唐使を廃止したから国風文化が興ったという因果関係も疑問視されている。
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<変遷する神様>
太古の昔から、日本人は自然の中に神々を感じ、祀ってきた。川には水の神様、田を守り、豊作を願う神様、海には海人の神様、航海の目印になる岬や無人島にも神は祀られた。
台風をもたらす風の神や水害を起こす雷の神も、これを鎮めるために全国津々浦々に祀られていた。
そこへ、都から「天神」という人格神的な、皇室も恐れる神の話が伝わってきた。
そこで、今まで風の神や雷の神を祀っていた神社は、祭神を天神に変えて北野天満宮の傘下に入っていった。「このことが天神信仰を全国化させた」(武光誠『知っておきたい日本の神様』)のである。
初め、天神は祟る神、怒る神、雷の神として全国に広がった。天災を起こす神であり、また、鎮めて五穀豊穣を願う神であった。
ところが、江戸時代になり平和が続くと、学問が盛んになる。すると、菅原道真が学者の家系であったことが思い出され、学問の神様として尊崇されるようになっていった。
特に湯島天満宮は湯島聖堂のお膝元。多くの学者や文人、学問を志す若者が参拝するようになった。
江戸時代は商業も盛んになった。都市部では近くの天神社に商人・町人の参拝者が増えていき、次第に商売の神様になっていった。天神祭りで有名な大坂の天満宮などは、町人たちの手で発展した神社である。
そして、今、学問の神様は、学問成就よりも前に、受験の神様となった。湯島天神の参拝者は子どもから受験生の親まで、全体に平均年齢が若いように思う。修学旅行生も参拝に来るそうだ。
もともと温厚な人柄の菅原道真は、祟(タタ)る神、怒る神、雷の神とされていたとき、ずいぶん迷惑であり、不本意であったろうと思う。
今は学問の神様となり、受験の神様になって、喜んでいらっしゃるに違いない。
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<湯島天満宮に参拝する>
(湯島天神の門前)
『街道をゆく』によると、江戸時代、門前には岡場所があったそうだ。
鳥居は銅製で、江戸時代前期の造り。
(銅の鳥居と拝殿)
「この神社は幕府から社領をもらわず、そのかわり"富くじの興行をゆるされ、経費をそれでまかなっていた」。
「岡場所といい、富くじといい、いわば江戸の大衆性が反映して、社殿につややかさを加えているのかもしれない」。
(右が拝殿、左奥が本殿)
今回、何十年ぶりに参拝していちばん驚いたのは、合格祈願の絵馬の数の多さである。
(おびただしい合格祈願の絵馬)
全国のどこの神社でも、たとえば我が家の近くの龍田大社でも、秋口からだんだんと合格祈願の絵馬が増えていくが、これほどの圧倒的な数は見たことがない。高校、大学の合格祈願だけでなく、中学校や小学校の合格祈願もある。
神様、どうか寄り添ってあげてください。
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<旧岩崎邸のこと>
湯島天神のすぐ北に旧岩崎邸がある。
(旧岩崎邸)
本郷台の東縁で、東京大学のすぐ南に隣接する。
建てたのは、岩崎弥太郎の嫡男の久弥(1865~1955)。
戦後、米占領軍に接収され、その後、財産税の物納により国の財産になった。
「設計は、神田のニコライ堂を設計した英国人ジョサイア・コンドルである」。木造2階建ての上にドームが載っている。「浮薄でなくてぜんたいに華やいでいるあたり、コンドルにとって会心の作だったにちがいない」。
「"和館"とよばれている書院造りの建物もあり、… 明治の記念建造物であるにふさわしい」。
なお、この地には幕末まで榊原家の江戸藩邸があった。大河ドラマ『どうする家康』に登場する徳川四天王の一人、榊原康政の子孫である。