(杉浦孝治さんの絵画展から)
<閑話 … 「季節の風を感じて~杉浦孝始 絵画展」に行く>
先日、新幹線に乗って豊橋へ、「~季節の風を感じて~杉浦孝始絵画展(第24回)」に行ってきました。
杉浦孝始さんは静岡県にお住いの画家です。
Face bookで、偶然に、白雪を冠したアルプスの山なみとその下に広がる安曇野を描いた絵を見て、その大きな図柄や精緻な描写に感動し、この方の絵を直接に見たいとかねてから思っていました。今回、思い切って、豊橋の会場まで。
会場では杉浦さんとお話しする機会を得ましたが、絵から受ける感じのとおり、穏やかで朴訥なお人柄の奥にロマンを感じました。
(レストラン「ボン・ファン」の会場)
会場は豊橋で有名なフレンチレストラン。この店のオーナーから声を掛けられ、レストランのパーティー用の一室を提供いただいたそうです。このように杉浦ファンはあちこちにいるのでしょう。シックな会場に安曇野や、故郷の浜名湖や新城市の風景画が掛けられていました。
帰りの新幹線の時間が気になって一番軽いランチをいただきましたが、「ボン・ファン」のランチは本当に美味しかった。近ければ何度でも行きたいぐらい。
(「涼風白馬村」)
今回出展されていた16点の中で、私の一番のお気に入りは冒頭の絵です。
杉浦さんの絵は安曇野をはじめとする風景画です。しかし、コロナになってから、信州にも行けなくなったと仰っていました。
この絵は、アジサイやバラなどの季節の静物の中に、モジリアーニの絵が配されていて、レストランのシックな雰囲気によく似合っていると思いました。これから、こういう絵もどんどん描いていただきたいと、これは1ファンの勝手なお願いです。
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さて、読売俳壇、歌壇から、前回の続きです。今年の春から夏に讀賣紙上に掲載された作品からです。
<夏の句>
〇 風薫る 穂高の町の 美術館 (向井市/福嶋猛さん)
信州の風薫る季節は空気に透明感があります。
これは碌山美術館ですね。
ずいぶん昔のことですが、私が初めて碌山美術館を訪ねた頃、大糸線はまだSL(蒸気機関車)で、客車2両の後ろに貨物車をつないでのどかにコトコトと走っていました。
夏の終わり、小さな穂高駅に降りると、安曇野は早くも稲穂が頭を垂れて、その向こうに碌山美術館の尖塔が見えました。
(秋の安曇野)
1958年に開館したこの小さな美術館は、夭折した安曇野出身の彫刻家・荻原守衛(碌山)の作品や資料を展示しています。美術館の建設に際しては、長野県下の全小中学生を含む約30万人の若者たちが、5円、10円という金額から募金を出し合ったそうです。文字どおり郷土の美術館です。
チャーチ風の建物は蔦で覆われ、樹木が陰を落とす美術館の前の空き地では、蝉のように真っ黒に日焼けした子供たちが遊んでいました。
(碌山美術館)
荻原守衛(碌山)は明治12(1879)年の生まれ。島崎藤村より7歳年下です。穂高の村の農家の三男に生まれましたが、郷土の相馬家に嫁いできた相馬(旧姓は星)良子(黒光)に啓発され、やがて東京に出て美術の勉強を始めます。
相馬良子(黒光)は明治女学校で島崎藤村先生らの教えを受けた、ハイカラな考えをもつ女性でした。
上京した守衛は、数え年23歳から足掛け8年、アメリカとフランスの美術学校に学び、帰国後、新宿の角筈にアトリエをもって彫刻の制作活動を始めました。新宿には相馬良子(黒光)が「中村屋」というパン屋を出して成功し、彼女の周りには文学や芸術を志す青年らが出入りしてサロンのようになっていました。明治43(1910)年、守衛はその中村屋にいたとき、突然喀血し、良子らの介護の甲斐なく、2日後に永眠しました。数え年で32歳の若さでした。
「デスペア」「戸張孤雁像」「爺」「女」など、日本のロダンと言われる彼の作品は碌山美術館で見ることができます。
昭和50年代になると、日本人もお金持ちになって大観光ブームも起き、大型観光バスが田んぼの中のこの小さな美術館にも立ち寄るようになりました。小さな穂高の駅の周辺も開発されて、家や店が立ち並びました。
今は、再び、忘れられたような静かな美術館になっています。
伝説の海の民である安曇氏の穂高神社も近くにあります。
できたらマイカーではなく、大糸線の各駅停車に揺られて訪ねれば、いっそう趣が感じられます。
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〇 実家売れ 梔子(クチナシ)の花 助手席に(山形県/沼沢さとみさん)
矢島渚男先生評)「地方の農家だったのだろうか。移住が風潮にもなってようやく買う人が現れて処分した。実家のクチナシの花を乗せて都市の家へ帰る」。
そのまま空き家として残していたら、固定資産税やら維持費やらで毎年出費がかさみます。「実家売れ」と、ようやく売れたことに少しほっとしています。
しかし、心にぽっかりと穴があいたような淋しさもあります。売れたのは「実家」なのですから。
いい人の手に渡り、大切に住み為してくれたら救われるのですが、更地にされたりしたら悲しい。その家の太い柱や梁には、自分の思い出だけでなく、親の一生や、もしかしたら祖父母らの一生もあったのだから。
建てた人は、子や孫やその次の世代のことに思いを馳せながら、精魂を傾けたことでしょう。
哀しいことですが、日本は継承していくことがむずかしい社会になってしまいました。
車の中、ほのかに薫る白いクチナシの花が印象的です。
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〇 余所(ヨソ)行きも 少なくなりぬ 更衣(コロモガエ) (川崎市/多田敬さん)
宇多喜代子先生評)「かつては余所行きに着替えて出て行くことも多かったが、最近はそれも少なくなった。いささかの淋しさを感じさせる更衣」。
「更衣(コロモガエ)」は夏の季語。「春の衣服を夏のものに替えること。昔は陰暦4月朔日(注 : 月の最初の日)を更衣の日と定め、その日に袷に替えたものだが、明治以後は一般に随時替えるようになった」(歳時記から)。
「余所行き」という言葉には、「晴れの日」の装いという語感もあります。
私も年とともに公の場に出て行くことがなくなり、それはそれで気楽なのですが、そうなると外出するとき誰かの目を気にするようなことも少なくなります。すると、もう「余所行き」と言うよりも、単なる外出着ですね。
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〇 夏帽子 ひとつだけ乗せ 終電車 (宝塚市/武田優子さん)
ちょっとユーモラスで、印象に残る句です。
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〇 森の夏 フランスパンと すれ違う (加須市/萩原康吉さん)
宇多喜代子先生評)「すれ違ったのはフランスパンを持った人なのだが、その人を省略してパンの方のみを書き留めた句」。
「森」「夏」「フランスパン」から、軽井沢などの別荘地をイメージしました。ちょっとファンタジックな感じもあって、オシャレな句です。
私は堀辰雄や詩人の立原道造が好きで、まだ静かだった頃の軽井沢や信濃追分を貸し自転車で文学散歩したことがあります。
やわらかに薄緑色に芽吹いたカラマツの林と、その間からのぞく浅間山のどっしりした火山の姿が印象的でした。
(軽井沢の有島武郎記念館で)
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〇 ヨットゆく 島にぶつかり そうな風 (逗子市/鈴木喜久代さん)
自分がヨットを操っているのでしょうか。爽快感があります。
最初、岬などから見た遠景のヨットかなと思いました。目の遠近感の錯覚で、このような景を見ることがあります。
しかし、風が強調されていますから、やはり自分はヨットの中なのでしょう。
下の写真はこの句とは関係ないのですが、好きな1枚なので。
(エーゲ海のロードス島の夕暮れ)
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〇 母といる ごとき法事の 寺涼み (郡山市/寺田英雄さん)
法事のため、お母様と一緒によく訪ねたお寺なのでしょうか。境内を囲む木陰の風は涼しく、生前の母の存在を感じています。
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ここまでは俳句ばかりになってしまいました。少しだけ短歌を。
<短歌から>
〇 南部ふうりん 窓に聴きをり ひとり旅 せし七十路(ナナソジ)の みちのくの風 (枚方市/鍵山奈津江さん)
七十路のみちのく一人旅。今は、わが家で、旅の記念の南部ふうりんの音を聴いています。
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〇 夏の朝、飯の焚け具合 知らせ来る ぼっちキャンプの 古希の友より (日野市/那須真治さん)
「七十路」と言い、「古希」と言いますが、今の日本で70歳は高齢とか老人とは言えなくなりました。70歳の多くはまだまだ元気で、旅に出たり、キャンプをしたりもします。旅行社のツアーなど、この年齢もターゲットにしています。
でも、70歳は、仕事をリタイアして少し年月もたち、かつての知人との交流も少なくなっています。また、子らはとっくに独立していて、孤独なのです。
まだまだ元気だが、孤独で淋しい。少子高齢化社会には、そういう中高齢者の心もあります。
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〇 じいちゃんの 歯の抜けたるを じっと見て よき歯生えよと 祈る子のあり (青梅市/梅田啓子さん)
「祈る子のあり」に、孫の存在のうれしさ、いとおしさが表れています。
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〇 孫娘は われに眼鏡を かけさせて 「この本読んで」と 隣に座る (藤沢市/瑞山徳子さん)
栗木京子先生が「体温の伝わってくる歌である」と評しておられます。幼い孫の体温が伝わってくるのはうれしいですね。