ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

夏の思い出4/4 ── 村内の散策 (木流川など)

2024年12月25日 | 国内旅行…信州

 白馬村を歩いていると、こういう道祖神を見かけることがある。10センチぐらいのミニチュアがお土産でも売られている。以前は、なぜ信濃の国に京風のお姫様?? と、不思議に思っていた。

 姫川という川の名の由来となった伝説の姫神 … 「沼河比売(ヌナカハヒメ)」でした。お相手は大国主命でしょうか。

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<霧降る里の産土神(ウブスミノカミ)>

 姫川の向こう(右岸)の青鬼の集落から、もう一度、姫川と大糸線と国道を越えて、白馬岳の山麓の方へ戻った。白馬村の賑わいはこちら側である。

 岩岳スキー場のリフト乗り場のあたりの集落は切久保というらしい。その「霧降宮(キリフリノミヤ)切久保諏訪神社」に立ち寄って参拝した。 

 (霧降宮諏訪神社)

 境内は鬱蒼とした大樹に囲まれ、日差しが穏やかに差し込んでいて、昔から今に至るこの里の人々の営みがここに鎮座する神とともにあったことが感じられる。

 (霧降宮切久保諏訪神社)

 社は大樹に囲まれて境内の奥にある。二礼二拍して手を合わせた。

 社殿は小ぶりだが、かつてこの地方で名の通った宮大工の手になる仕事である。

 社名のとおり、遠い昔、諏訪大社から勧請された。創建当時、この辺り (白馬村から北隣の小谷村のあたり)は千国荘(チクニノショウ)と呼ばれ、六条院の所領であったと平安末の記録に残っているという。

 「六条院」と聞いてすぐ思い浮かぶのは、京の六条の辺りにあったとされる光源氏の大邸宅。だが、それは物語の中の話だ。先の記録によれば、六条院は白河天皇の第一皇女の媞子(テイシ)内親王のお邸だったらしい。幼くして伊勢の斎王となったが、任が解けて都に帰ってのち、美しく心優しい内親王は父帝にこよなく愛された。だが薄命で、その死を惜しんだ父帝はその邸を彼女が生きているかのごとくに維持し続けたという。

 それから年月を経て、平安末期になると、千国の荘の持ち主が誰なのかわからなくなりかけ、かつては六条院の所領であったことが記録に残された。

 そして遥かに長い歳月が流れ、千国荘の神社は切久保地区の鎮守として土地の人々に守られている。

 …… それにしても、この神社の名前は長い。「切久保地区の諏訪神社」はわかる。その前に冠せられた「霧降宮(キリフリノミヤ)」とは何だろう。

 わからぬが、白馬村には他にも、細野地区に「霜降宮細野諏訪神社」、姫川の右岸の青鬼の里のずっと南の嶺方地区に「雨降宮嶺方諏訪神社」があって、白馬村諏訪三社というらしい。霧降宮、霜降宮、雨降宮 …… 自然(神)のもつ「力」につながるような何かいわれがあるのかもしれない。とにもかくにも信濃国らしい鄙びた味がある。

 祭神は、諏訪神社であるから、建御名方(タケミナカタ)の神である。高天原系の神ではない。

 村内の各地区ごとに共同体の神が御座し神社がある。そこで生まれた人々にとっての産土神(ウブスミノカミ)である。

 以前、読売俳壇にこんな句が選ばれて掲載されており、心ひかれてメモしていた。

 祖父母父母みな産土の春の風 (東京都の佐藤勝美さん)

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<おびなたの湯>

 私が知っている白馬村に温泉はなかった。だから新しい施設だ。今回、初めて立ち寄り湯に入ってみた。正真正銘、ほんものの温泉だった

 立ち寄り湯は村内に何か所かあるようだが、この日は車だったから最も遠くて標高が高い所にある「おびなたの湯」へ向かった。

 (白馬村のおびなたの湯)

 大雪渓の下、猿倉荘へ向かう山道の脇に、ぽつんと佇んでいた。そばを松川の渓流が流れている。

 内湯はなく、いきなり露天風呂だった。こういうのがいい。野趣に富んでいる。湯加減もちょうどいい。

 日はやや傾いて、青空が広い。

 湯舟の片側に大岩がどんと聳えている。湯はその大岩の面を伝ってさらさらと流れ落ちている。この大岩が女湯との境界になっているようだ。自然の仕切りだから、ちょっと覗けそうな(覗かれそうな)気もすが、無理なようだ。沢登り用の道具と技術が必要である。

 泉質は強アルカリ性単純泉。PHが日本の温泉の中でも格別に高い。お肌つるつるの湯だ。

 飲泉所もある。飲泉できる温泉は、塩素殺菌したり、循環させたりしていない、ほんものの温泉だ。

 おびなたの湯で汗を流し、気分もすっきりして、レンタカーを返しに行き、ホテルへ戻った。

 ホテルの窓からの眺望は、白馬連峰の上部に雲がかかって、昨日のような白雪を頂いた姿を見ることはできなかった。それでも、大和国の山々とは趣が違う。いつもと違う景色を眺めるのはいいものだ。

  (白馬連峰)

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<木流川の散策>

 次の日。一日中、本を読んで過ごしてもよかった。そのつもりで本も持ってきている。だが、遥々と列車を乗り継いで信濃国まで来たのだから、少しは信州の自然の中を歩き、日頃の運動不足も解消したい。

 そう思って、3日目は木流川の散策路を歩くことにした。

 ただし、信州とは言え夏の暑さはバカにできない。昨日、青鬼の集落を歩いたとき、標高が少々高くとも、炎天下は大阪や奈良と変わらないと思い知らされた。今日も体中から汗をかくことになる。熱中症になるぬよう用心しなければいけない。

 「木流(キナガシ)川」は、読んで字の如く木材を流す川。白馬山麓から切り出した木材を下流に運ぶため、江戸時代に作られた人工の流れだ。

 材木がほとんど輸入されるようになって、日本の林業はすたれた。木流川も長く放置されていた。

 近年になって、地元の人たちが、藪を刈って小径を作り、流れに木橋を架け、ベンチや案内板も置いて、せせらぎに沿う森の小径を再生させた。

 ペットボトルと、カメラと、タオルを入れただけのリュックを背負い、ホテルのフロントの棚に置いてあったごく大雑把な地図を頼りに出発した。

 昼の太陽に照らされ、少々迷い、家にコンパスを忘れてきたことを後悔し、全身から汗をかいて、トウモロコシ畑の道端に矢印を見つけた。

 畑の向こうのあの森の中に違いない。森の地形が低くなっているから、そこに流れがある。

 詳しい案内板も設置してあった。

 高くそびえる樹林の中をせせらぎが縫うように流れている。下っていく先は姫川だろう。

 森の中は森閑として、行き交う人もない。

 せせらぎに架かる木の橋があった。

 小さな池のそばにベンチがあったので、ひと休みする。

 暑い盛りだが、森の中は草いきれもなく、時折、水辺に咲く鬼百合や野の花にも出会った。

 春ならば、小鳥の声ももっと聞こえてきて、高山植物や野の花がもっと咲いているのだろう。

 それにしても、ほとんど木陰の下を歩き、鬱蒼とした樹木の力は大きく、空気が爽やかで心地よかった。

 散策コースの途中から入ったから、多分、半分くらいの距離しか歩かなかった。

      ★

<みみずくの湯>

 ホテルへの帰路、ホテル近くの「みみずくの湯」に立ち寄る。

  (みみずくの湯)

 PH11という強アルカリ性の温泉。加水、加温、循環なし。100%の源泉かけ流しの湯だ

 昨日の「おびなたの湯」ほどの野趣はないが、木と岩の内湯があり、湯の中を歩いてその向こうの露天風呂へ行くことができる。

 露天風呂からは、すっきりと晴れていれば白馬三山がよく見えるそうだ。早春の頃が良いとか。

 「おびなたの湯」に「みみずくの湯」。ほんものの温泉に入ることができるだけでも、白馬村を訪ねる値打ちがあるというものだ

 いやいや、若い頃なら、「温泉だけでも値打ちがある」 とは思わなかったな。まあ、年相応である。

 ホテルの部屋から見る白馬連山の景色は、昨日よりは良いが、一昨日ほどではなかった。アルプスを見たいなら早春の頃が良いらしい。

  (白馬連峰)

 スキーに凝っていた頃の経験では、1月、2月は毎日、吹雪いて、雪がどんどん降り積もる。新雪を滑りたいという人はこの時期がいい。やがて雪が降りやみ、晴天の日が続くようになる。白雪に輝く山並みが美しい。3月の上、中旬の頃かな??

 信州の里の早春はいつなのだろう??

 梅、桃、桜、リンゴの花などが一度に花開くのは4月の下旬から5月の初旬。木々もやわらかく芽を吹いて、その頃は既に春たけなわだ。

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 4日目の朝、ホテルのバスで白馬駅まで送ってもらい、大糸線に乗って帰路についた。

 松本で特急列車に乗る。

 名古屋で新幹線に乗り換えた。

 名古屋で特急列車の車両からホームへ降り立ったとき、いきなり猛烈なむし暑さの中に入ったと感じた。熱気が重くよどんでいる。これはすごい。そうか。これが名古屋や、大阪や、奈良の暑さなのだ。

 信州も暑いと思い、実際、汗まみれになって歩いたが、やはり信州は信州だった。昼間の太陽の下、大阪や奈良で、あのようなウォーキングはできない。

 まだ当分続くであろう奈良の残暑に耐える覚悟をした。

 (この項はこれで終わりとします)。

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<閑話 ─ ロス「光る君へ」 ─ >

 この1年、大河ドラマ「光る君へ」に胸がときめきました。そういう方は多かったのではないでしょうか。

 始まる前、王朝の時代をドラマ化するのはムリ、と思っていましたが、さすがNHKでした。戦国時代や幕末では、あのように美しいラブシーンの映像化はムリですね。

 何よりも大石静さんの脚本が見事でした。まちがいなく大石さんの代表作になるでしょう。出演された俳優さんたちも、みなさん、素晴らしかった。今、一番「ロス」感の中にいるのは、主演の二人ではないでしょうか。がんばりました

 話が飛躍しますが、実は私、道長の「字」が好きなのです。

 道長の日記である「御堂関白記」は国宝です。現存する世界最古の直筆日記と言われ、ユネスコ記憶遺産にも登録されています。

(「御堂関白記」のクリアファイル)

 以前、京都で催された陽明文庫の展覧会で初めて「御堂関白記」を見たとき、この字は好きだな、と思いました。日ごろ書道に関心はなく、それまで誰かの書に心ひかれたのは、… 遠い昔ですが、高校の書道の時間に習った王義之ぐらいかな。でも、王義之の字は端正に過ぎて、今はそれほどでも。

 道長の字は書道のお手本にするような字ではないと思います。お手本にするなら藤原行成なのでしょう。

 道長の、ちょっとクセのある、闊達で、のびやかな、しかも気品もある字にひかれました。息子たちに残すにはこれはちょっとまずいなと思ったのか、墨で塗りつぶした箇所もありました。その日の枠がいっぱいになって、続きを前の空いた空間に小さな字で書いたりもしています。もちろん、何日も書かない日もあり、そういう自由闊達なところが好きです。

 「御堂関白記」と呼ばれていますが、ご存知のとおり道長は関白になったことはありません。引退前の最後の1年だけ摂政になりました。天皇が幼かったからです。でも、すぐ政界から引退してしまいました。基本的に彼は摂政にも関白にもなろうとしませんでした。その点、兄や父やそれ以前の藤原一族と道長とはスタンスが違うと思います。家柄や身分、地位を鼻にかけ、横柄に振る舞うようなタイプではない。

 左大臣として公卿会議を開催し、皆の考えを聴くことを大切にしました。それは自分一個の能力では考えの及ばぬこともあり、限界があると自覚していたからでしょう。しかし、必要と思えば会議で年長者に対しても論争したでしょう。良い結論に至るためには、時に論争することも必要です。公卿会議には、平安時代を通じても最高の知性と言ってよい藤原公任、行成、実資らがいました。道長の周りには自然と人が集まり、彼を支えたのです。そこが伊周などとの大きな差だと思います。道長が伊周を追い落としたようにいう人もいますが、伊周は自分で自滅したのです。器でないのに、トップに立つのが当たり前と思ったところが、人々に受け入れられなかったのでしょう。

 誤解なきよう。だからといって、私は道長が偉い人だとか、善人であるとか、そう思っているわけではありません。人は誰でも、善悪あわせもっています。ただ、歴史教科書をはじめとして、これまで道長は一面的にダークなイメージで印象付けられてきたように思います。

 ドラマの中、道長の「望月の歌」の意味について四卿が語り合うシーンがありました。藤原斉信が「昨夜の歌だが、あれは何だったのだ??」と聞きます。それに対して源俊賢が、現代の教科書風に、わが権勢を謳歌されたのだと答えます。すると藤原公任が「今宵はまことに良い夜であるなあ、くらいの軽い気持ちではないか。道長はみなの前で奢った歌を披露するような男ではない」と言い、藤原行成も公任に賛成します。すると藤原斉信が「そうかなあ …」とつぶやいて考え込みます。

 私はかねてから公任の説に賛成なのですが、「そうかなあ」と考え込む藤原斉信にも共感します。さらに、源俊賢も、決して道長を非難しているわけではなく、人間って、そういう位置に立ったらそう思うものでしょうと、現実主義者の目で人間を見ているように思います。だから、私は俊賢の説を否定しません。

 「望月の歌」の現代風・教科書風の解釈には、戦後の「権力は本質的に悪である」という反権力史観、また、それと表裏の関係にあるのですが、戦前の「天皇親政こそ正義」という皇国史観、この両方が根底に混ざり合っているように私には思えます。私は歴史というものは、特定の価値観や主義主張を出発点にして語られるべきではないと思っています。

 もしそのあと、公任が自分たちの会話の内容を道長に話し、「実際のとこ、どういう心境であの歌を詠んだの??」と聞けば、道長はどう答えたでしょう??

 道長は公任と向かい合って嘘をつく男ではありません。そういう小さな男なら、公任ほどの人物が付いていくことはなかったでしょう。

 いろいろ考えられます。

 例えばですが、「うーん。(しばらく考え込んで) … 正直、 自分でもよくわからん。自らの心の奥を顧みるに、源俊賢の言うような気持ちもあったと言うべきだろう」と答えるかもしれません。

 人はわからぬものだし、善悪二元論で語れる存在ではありません。人は時に自分の心さえわからない。だから、どんな歴史のヒーローでも、心の中に後悔の一つや二つや三つはを抱えていると思います。

 塩野七海さんは、「歴史事実は一つでも、その事実に対する認識は複数あって当然で、歴史認識までが一本化されようものなら、その方が歴史に対する態度としては誤りであり、しかも危険である」と言っています。

 歴史家の仕事は、できるだけ確かな「事実」を発掘し提供すること。

 「事実」の解釈や、さらにそこに登場する「人間」の理解となると、それはもう実証科学の世界の外に出て、文学の世界に入って行かざるを得ないと私は考えます。

 道長の「字」を見たとき、私は道長の「人間」をちらっと垣間見た気がしたのだと思います。

      ★ 

 さて、「光る君へ」の最後のシーンは、「(道長様 …) 嵐がくるわ …」というまひろの言葉で終わりました。

 道長の死の翌年、房総半島で「平忠常の乱」があり、3年後に何とか平定されました。

 そしてその20年後、今度は東北で「前九年の役、後三年の役」という長い戦乱が起こり、その乱の中で活躍した武士の名が後世まで語り継がれるようになります。

 この秋、東北(岩手県の平泉と盛岡)に行ってきました。来年はその旅のことを書きたいと思っています。(ただし、相変わらず面白くないのでご容赦を)。

 さて、もうすぐ年の暮れです。皆様、1年間、お疲れさまでございました。

 どうか良い年をお迎えください🌕。

 

 

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