( ドウロ川の流れ )
ポルトガルには2本の大河が流れている。いずれもスペインの台地を東から西へと横断して流れ、ポルトガルに入って、やがて大西洋にそそぐ。
その一つ、テージョ川の河口にできた町が、首都リスボン。
そのリスボンから北へ300キロ。スペイン語でドゥエロ (Duero) 川、ポルトガル語ではドウロ (Douro) 川の河口近くにできた町が、ポルトガル第2の都市ポルトである。
ポルトという名の由来は、古代ローマ時代の港町・ポルトゥス・カレに起源をもつという。
ローマ時代には、その一帯をコンダドゥス・ポルトカレンシスといったそうだ。これがポルトガルという国名の由来らしい。
1096年、イスラム勢と戦うカスティーリア・レオン連合王国 (スペイン) 国王は、フランスのブルゴーニュからやってきた騎士エンリケ・ド・ボルゴーニュの戦績をたたえ、ドウロ川の流域・コンダドゥス・ポルトカレンシスの地を与えて、伯爵とした。
その息子アフォンソ・エンリケス (アフォンソ1世)が、 ポルトガル王国を建国する。サンタレンの戦いに勝利して、テンプル騎士団にトマールの地を与え、続いて、リスボンを奪取した。
日本の多くの都市は、河口近くに開けた平野の中にある。
ポルトガルの地形は、河口が近づいても、なお、峡谷の姿をとどめる。
ゆえに、リスボンもそうだったが、ポルトも、ドウロ川の北岸から上へ上へと、峡谷の丘陵地に造られた町である。
ゆえに、ポルトもまた、リスボン以上に坂の町である。
★ ★ ★
10月2日
< ポルトのホテルのこと >
トマール駅8時発の各駅停車に乗り、Entroncamento駅で特急に乗り換えて、11時にポルト・カンパニャン駅に着いた。
駅に、私の名前を書いたボードを持つタクシーの運転手がいて、多分、ホテルのマダムが気を利かせたのだろうと思って、乗った。
リスボンで4泊したホテルも、ここポルトで2泊するホテルも、実は、「民泊」である。
民泊と言っても、日本のイメージとは違う。観光に便利な旧市街の一等地にありながら、部屋はホテルの部屋よりずっと広く、ソファセットなどの家具も置かれて、時に、キッチン、リビング、ベッドルームなど2部屋、3部屋があり、にもかかわらず、料金はホテル並み。だから、EU圏からの滞在型旅行者の間で、今やホテルより圧倒的に人気がある。
私にとっても、徒歩で観光して回れる旧市街の一等地にあり、さらに、窓を開ければ、その街の歴史を語る大聖堂のたたずまいとか、川の流れとかを、居ながらにして望むことができれば、最高に魅力的なホテルということになる。
しかし、欠点もある。入り口の暗証番号を教えてもらったら (現地でなく、時にはネットで) 、それでおしまい。ホテルのような24時間対応のフロントはない。スマホを盗られたと言って相談したり、日本に電話をかけたりすることもできない。つまり、リスクを負うことになる。
ホテルに着くと、ちょっと待たされて、マダムが来てくれ、ソファーのある広々とした部屋に案内された。
窓を開けると、目の前をドウロ川が流れ、居ながらにしてドン・ルイス1世橋も見えて、幸せな気分になった。
窓辺に、花瓶にさした1輪の薔薇でも置けば、マチスの絵に出てきそうな構図だ。
パリで、セーヌ川とエッフェル塔を望むことのできるホテルに泊まれば、1泊10万円だろう。
(ホテルの窓から)
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< ドン・ルイス1世橋を渡って対岸へ >
ポルトに着いたら、何はさておいても行ってみたかったところが、ドン・ルイス1世橋。目の前の鉄の橋である。
( ドン・ルイス1世橋 )
橋の手前の川岸は、カイス・ダ・リベイラと呼ばれる。さっきタクシーが着いたとき、タクシーが身動きできなくなるほど観光客で賑わっていた。カフェテラスが立ち並び、遊覧船も発着する。旧市街が丘の上へ上へと開けるドウロ川の右岸である。
対岸の新市街とを結ぶ鉄橋が、ドン・ルイス1世橋。
橋は2階建て構造で、パリのエッフェル塔を設計したギュスターブ・エッフェルの弟子が設計した。
下層階には、自動車道路と歩道があり、上層階にはメトロの線路と歩道がある。
多少、高所恐怖症気味ではあるが、あのドン・ルイス1世橋の上層階を歩いて、眼下に広がるドウロ川の流れとポルトの街並みの写真を撮りたい、というのが、私のポルト観光の第一の目的である。
そう思って、旅行に出る前にあれこれネットで調べていたら、橋のさらにその向こうに見えるノッサ・セニョーラ・ピラール修道院 (中は公開していない) の前まで上がれば、もっと素晴らしい眺望が開けることを知った。
で、今日は、そこを目指す。あとで後悔しないように、行きたいところから行くのが、私の旅の流儀である。
川岸のカイス・ダ・リベイラから、橋の上を撮影した。今日は、白い雲が少しだけ青空に漂って、いい感じだ。
( 橋の上層階から下を見下ろす人たち )
( 上層階を渡る黄色のメトロ )
橋の下層階のたもとはすぐわかったが、上層階のたもとは、助走部分がある。旧市街の方へ坂道を上っていかねばならなかった。
下の写真は、上層階のメトロの線路と、その脇の歩道である。
線路と歩道の境はポールが並んでいるだけで、観光客で混雑する歩道を避けて、線路を歩く人たちもいる。列車は速度を落としてゆっくりやって来るから、列車が来れば十分余裕をもって歩道へよけることができる。
で、おまえは線路を歩いたかって?? もちろん。
ヨーロッパは大人の社会だから、一律に機械や規則に支配されない。例えば、車の全く来ない横断歩道の赤信号で律儀に待ち続ける歩行者や、まだ歩行者が渡り切っていないのに、青信号になったからと、怒って警笛を鳴らしながら発進する車。こういうのは機械に支配されて生きている未熟な人間だ。自立した人間の判断力を大切にして生きるのがヨーロッパだ。
( 橋の上層階のメトロの線路と歩道 )
鉄橋から眼下を眺望すれば、河口に向かって流れていくドウロ川 …。赤い屋根が上へと積み重なっていく街並み …。まるで絵葉書のようである。
リスボンを流れるテージョ川よりも川幅は狭く、河口までの距離も少し遠いようだ。
< ドン・ルイス1世橋の上から >
( 河口に向かって流れていくドウロ川 )
橋の上層階を渡り終え、そのたもとからさらに石畳の道をふうふう言いながら上っていくと、ノッサ・セニョーラ・ピラール修道院の前にたどり着いた。
そこからの眺めは、息をのむほど美しく、しばし、ぼっと見とれていた。
( ドン・ルイス1世橋の上を走るメトロ )
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< 対岸はヴィラ・ノヴァ・デ・ガイア >
ドウロ川の南岸はヴィラ・ノヴァ・デ・ガイアと呼ばれ、ポートワインのワインセラーが立ち並ぶ。
1軒のワインセラーで、女性の店員に適当なものを選んでもらった。庶民的な値段だ。
フランスのブルゴーニュからやって来たエンリケ・ド・ボルゴーニュが、その功績により、伯爵に任じられてこの地を治めるようになったとき、故郷のブルゴーニュのブドウを取り寄せて、植えた。
歳月を経て、ドウロ川の上流渓谷は、フランスのブルゴーニュ地方と同じように、ブドウの名産地になった。
そこで造られたワインは、数多くの小舟に乗せられ、川下のヴィラ・ノヴァ・デ・ガイアに運ばれた。
樽につめられたワインは地下に貯蔵されて、熟成され、甘いポートワインができあがる。
甘いが、普通のワインよりもアルコール度がかなり高いから、オンザロックにして、食前酒として飲むと美味い。
今は、ドウロ川の峡谷に道路が通り、ワインはトラックで運搬されるようになったから、その昔ドウロ川の渓谷をワインを運んで下った小舟たちも観光用の風物詩として、川岸に係留されている。
( ドウロ川の渓谷をワインを運んだ小舟 )
( 南岸から旧市街の方を望む )
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< ライトアップされたドン・ルイス1世橋 >
日が暮れた。ライトアップされたドン・ルイス1世橋と、その向こうの修道院が美しい。
( ライトアップされたドン・ルイス1世橋 )
観光客も丘の上の旧市街のホテルに引き上げ、ドウロ川の岸辺・カイス・ダ・リベイラは、さすがに昼間の賑わいはない。しかし、それでもそぞろ歩きをする人は絶えない。
( 夜のカイス・ダ・リベイラ )
わがホテルは、居ながらにして、ライトアップされた橋も、修道院も眺めることができる。
( ホテルの窓から )
明日は、バスに乗って河口まで行き、大西洋を見よう。それから世界遺産のポルト旧市街を散策する。
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