( ホーエンザルツブルグ城からの眺望 )
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今まで観た映画の私的トップ5を挙げるとすれば、
その1つは絶対に、「サウンド・オブ・ミュージック」。
1938年に、旧オーストリア=ハンガリー帝国は、ナチスドイツに併合される ( = 併合を受け入れた。なお、「併合」と「植民地」は違う。ドイツの「植民地」になったわけではない )が、物語はその直前の時代を背景に、トラップ一家と修道女だったマリアの愛が、ザルツブルグの中世的な街並みと、ザルツカンマーグートの美しい自然のなかに楽しく描かれる。
( ザルッブルグの大聖堂 )
ジュリー・アンドリュースが、ステキでしたね。
ただし、全世界で大ヒットした映画だが、物語の舞台となったオーストリアでは、人気がなかった。
それはそうだ。映画の最後で、反ナチスのトラップ大佐は、かっこよく、一家を率いてアルプス越えをし(アメリカに亡命して)、ハッピーエンド。
一方、オーストリア国民は、そのあと、ナチスドイツとともに、連合軍を相手に戦った。あげく、敗戦国となり、戦後の一時期はベルリンと同じように、米、英、仏、ソに占領統治され、暗い時代を生きのびた。生きて来た心の道のりが、トラップ大佐や、映画をつくったアメリカ人とは違う。
苦い歴史も、黙って自分なりに整理し、心に受け止め続けてこそ、国民というものだ。
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その敗戦直後のウィーンを舞台にした映画が、「第三の男」。
日本で公開されたのが1952年だから、映画としては、「サウンド・オブ・ミュージック」よりずっと古い。なにしろ白黒の映画だ。
白黒の映像美が素晴らしい。
物語はあえて分類すれば、ハードボイルド。原作者のグレアム・グリーンはそういう作家だ。実存主義哲学を文学化した作家の系列に分類・評価されたりする。
空襲によるガレキが、片づけられないままに残るウィーン。人々は貧しく、飢え、4か国によって分断統治されている。
夜は街灯も少なく、ガレキの残る広場は暗闇だ。周囲の石造りのアバルトマンの窓から、わずかに明かりが漏れる。磨り減った石畳の微妙な陰影。長く伸びたシルエット。ツィターによる「第三の男」の旋律とともに、人影が浮かび上がる。
寒々とした「カフェ・モーツアルト」のテーブルには、主人公がおとりとなって、かつての友であり、今は極悪犯ハリー・ライムを待っている。暗闇に潜むイギリス人将校と兵士。
名監督と言われたキャロル・リードの代表作の一つ。アントン・カラスの演奏する主題曲も大ヒットした。
何よりも評判を呼んだのは、大舞台俳優オーソン・ウェルズが、悪役(第三の男)として登場していることだ。おかげで、主人公を演じたジョセフ・コットンは、映画評論家からすっかり大根役者扱いされた。
確かに、オーソン・ウェルズに迫力と凄みがあった。特に、今も観光名所になっているプラーターの大観覧車の中で、友人である主人公を脅す場面。にもかかわらず、どこか愛嬌を感じさせる複雑な微笑みは、なかなかでした。
しかし、ヒロイン役のアリダ・ヴァリという女優も綺麗で、それに、オーソン・ウェルズを追いつめていくイギリス軍少佐(4か国統治下で、各国の軍がウィーン警察の任務を遂行している)のトレヴァー・ハワードが好きでした。
私にとってのウィーンは、何と言っても、「第三の男」のウィーン。
今のウィーンは、清潔でオシャレである。治安も良く、西欧でも最も安心して歩ける都市だ。「カフェ・モーツアルト」も、そばに王宮やオペラ座がある最高にリッチな界隈で、ガレキのウィーンは想像できない。
それでも、オーストリアツアーに参加し、ウィーンでの自由な1日に、初めて「カフェ・モーツアルト」に座って、コーヒーを飲んだときは、感動した。
「遥けきウィーン」である。
( 「CAFE Mozart」 )
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< 遥けきウィーン・付録 >
敗戦後、フランスに留学した若き日の加藤周一は、夏、イタリア旅行をし、フィレンツェで出会った旅の娘と恋をした。文通が続き、冬、彼女に逢うために、パリから彼女の故郷であるウィーンへ行く列車に乗る。
もちろん、SLの時代である。列車はフランスの大地を走り、遥々とスイスを経て、四カ国統治下のウィーンへ向かう。
加藤周一『続 羊の歌』」(岩波新書)の「冬の旅」から。
「 窓外の風景は、スイスの山々の壮観とは微妙にちがうものになりはじめていた。急な山肌が線路に迫り、雪に蔽われた針葉樹の森や、小川や、橋や、点在する農家が、たちまちあらわれては、たちまち後方に飛び去ってゆく。登山家の山でも、観光客の山でもない、遠い鄙びた山村の面影。私はその風景に魅せられて、眼を閉じることができず、硝子窓に顔をよせていた 」。
「 英国の占領地域をしばらく走るかと思ううちに、突然列車がとまった。そこには停車場もなく、町もなかった。車掌が回って来て、窓の日除けをおろした。『 両側に自動小銃をもった兵士が並ぶのだ 』と向かいの男が、半ば連れの女に、半ば私に向かって説明するようにいって、しばらくすると、二人の赤軍の兵士が車室に入ってきた。私が赤軍の兵士に出会ったのは、そのときがはじめてである」。
「 私が旅券をさし出すと、その頁をくって見ていたが、まえの男女に返したようにすぐには返さない。その間、誰も一言もいわずにながい時が経ち、さらにながい時がたった。旅券に不備のあるはずがない、と私は自分にいいきかせていたが、兵士は突然、旅券から眼をあげると、ロシア語で何かいいはじめた。『 国籍を訊いている 』と向かいの男がフランス語で説明した。『 日本人 』と私はフランス語でいったが、通じない。現地の言葉がドイツ語であったことを想い出し、つづけてドイツ語で同じことをくり返したが、旅券を手にした兵士と、その傍に黙って立っていた兵士と、その二人の顔には、全く何の反応もあらわれなかった。フランス人が『 日本人 』とロシア語でいい、兵士はまた旅券の頁をくりはじめた。私はいくらか不安を感じ、しかしそれ以上に事の馬鹿馬鹿しさに苛立ってもきた。旅券は百科事典ではない。そう沢山のことが書いてあるわけではなかろう、と私は思った。3分で解らなければ、3時間かけても解らぬだろう。5分経ち、10分経ち、ついにその兵士は、黙って旅券を私に返し、そのまま車室を出て行った。私はほっとしたが、汗をかいていた」。
「 列車はヴィーンに近づいていた。そこではひとりの娘のほかに、私は誰も知らない。その国の言葉は私の耳に疎く、風習は予測するのに手がかりがなかった。雪につつまれた野の涯に、やがて一つの都会があらわれるであろうということさえも信じ難いほどであった。異郷、(depaysement)、幾山川、(au bout du monde) …… 私は日本語とフランス語を混ぜて、それらの言葉の全体が示唆する一種の心理的状態をみずから形容しようとしていた」。
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( ウィーンのシュテファン寺院付近 )
雪の野に、列車は突然停車させられる。
車室の日除けが下ろされ、外では、赤軍兵士が自動小銃をもって列車を囲む。
そのようにして始まる検査。戦勝国のフランス人はともかく、日本人は、ポツダム宣言受諾直後にソビエット軍の侵攻を受けた。条約を破って一方的に侵攻してきたのはソビエットだが、それでも敵国の民だ。
それに、すでに冷戦は始まっていた。
遥けきウィーンである。異郷、幾山川‥‥。
私のウィーンは、若い日に読んだ加藤周一のウィーンだと、今、思う。
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