[ 文明の十字路となった島 ]
イタリア半島の「つま先」の、その先に横たわる島。
その大きさは、四国と岡山県を合わせた程度だという。それでも、地中海では最大の島だ。
古代から開け、その3千年の歴史を通じて、様々な民族と文明がこの島にやってきた。それらはあるときは激しくぶつかり合い、あるときは豊かに融け合った。まさに「文明の十字路」の島である。
(紅山雪夫『シチリア・南イタリアとマルタ』から)
この5月中旬、全8日間でこの島を訪ねた。気候が良く、空は晴れ、海はのどかで、楽しかった。以下は、その記録である。
まずは、この島の歴史の概略を記す。
[ ギリシャ人が植民市を建設 ]
先住民も先住渡来人もいたが、紀元前の8世紀ごろからギリシャ人が盛んにやってきて、東海岸や南海岸に植民市を建設した。ギリシャ人は海洋民であり、交易の民である。
( 丘の上のギリシャ人の神殿 )
( 海に臨むギリシャ神殿の廃墟 )
地図を見ると、「つま先」の「先」の、さらに「その先」には、海を隔てて、とは言え、まあ目と鼻の先に、北アフリカのチュニジア共和国がある。チュニジア … そこには、かつてカルタゴという地中海の覇権を握る海運・海軍国があった。フェニキア人の建設した強大な都市国家である。
ギリシャ人に先行して地中海に乗り出していたフェニキア人は、後発のギリシャ人に対してことごとく敵対する。
シチリアに根を張ろうとしたギリシャ系植民都市も、当時最強の都市国家カルタゴとしばしば戦い、滅ぼされることになる。
[ パクス・ロマーナの穀倉となる ]
時代は下って、第三の勢力が登場する。 イタリア半島で成長・発展した新興国ローマが、シチリア島の権益をめぐって、地中海の覇権国カルタゴと激突したのだ …。
第一次ポエニ戦役(BC264~241)、第二次ポエニ戦役(BC218~201)、第三次ポエニ戦役(BC149~146)。 この戦いを通じて、カルタゴは滅び、地中海は「ローマの海」になった。
倭の国がまだ静かに眠っていた紀元前の時代、もちろんフランスやドイツやイギリスもまだ未開の状態にあったのだが、地中海においては、既にこうした文明の衝突が、何世紀にも渡って激しく繰り返されていた。人類の歴史の遥けさに、ただただため息が出るばかりである。
ともかく、シチリア島はローマの傘下に入り、パクス・ロマーナの下、ローマの穀倉地帯として、その後600年の平和を享受する。
( 緑美しい5月のシチリア )
[ ビザンチン帝国下のシチリア ]
AD476年、西ローマ帝国滅亡。
シチリア島も、ゲルマンの一族であるヴァンダル族、続いて東ゴード族に占領され、荒らされた。
AD535年、ビザンチン帝国(東ローマ帝国)のユスティニアヌス帝が、ゲルマンの無法からイタリア半島とシチリア島を奪還。以後300年間、シチリア島はビザンチンの支配下に入る。… ただ、大土地所有制や不在地主制、そして、繰り返される北アフリカからの海賊(サラセン人)の襲来によって、かつては地中海の穀倉と言われたシチリアの農業は荒廃していった。
[ イスラム文化がやってきた ]
AD827年、北アフリカからイスラム勢(サラセン人)がシチリア島の西海岸に侵入し、次第にビザンチン勢力を排除していった。
そして、925年、シラクサが陥落し、全シチリアがイスラムの支配下に入った。彼らは首都をパレルモに置く。
イスラム勢は、効率的な行政と税制、農地や灌漑施設の改善、柑橘類の栽培、絹織物の生産、交易の興隆、ヨーロッパの水準を超える医学、薬学、化学などの学問・知識の導入、信仰の自由などによって、シチリアに活気と大地の恵みを取り戻させた。
[ 果実実るノルマン・シチリア王国 ]
AD1130年、ノルマン・シチリア王国が誕生した。またまたシチリアに新しい文明がやってきたのだ。
ノルマン人は、フランスのノルマンジー地方からやってきた男たち。先祖はバイキングである。 100年も前にフランス北部に定着し、フランス王はその首領をノルマンジー公として取り立てた (強くて、追い出せなかった)。彼らはフランスの貴族・騎士となり、フランス語を覚え、フランス宮廷文化を身に付けた。
が、100年も経つと、またまた血が騒ぎ出し、その一部はノルマンジーからドーバー海峡を渡ってあっという間にイギリスを征服した。強い!! 現在のイギリスの王(女王)や貴族は、元フランスのノルマン人、遡れば北方バイキングということになる。英語、英語と、英語の先生は威張るけど、現在の英語の3分の1はこの時に入ったフランス語。まだ不完全で、未成熟で、非論理的な言語なのだ。
そして、もう一部(うだつのあがらない騎士階級の次男や三男たちなど)は、自分の領土を求めてジブラルタル海峡を通過し、地中海に入って、南イタリアとシチリア島を征服した。少数のノルマンの騎士たちが先頭に立ち、地元の豪族・人民を従えて、多数のイスラム軍を次々撃破したのだ。
もっとも、彼らは人口的にはごく少数。ゆえに、自分たちの文化であるゲルマン文化+フランス・ラテン文化(カトリック) だけでなく、イスラム勢力がやってくる以前にシチリアを支配していたビザンチン文化(ギリシャ正教)も、さらには自分たちのすぐ前にこの地を支配していたイスラム文化・イスラム教も、その全てを尊重し、完全な信仰の自由を認めたのである。
ゆえに、国内で使われる言語、いや公用語だけでも数か国語という、多文化・多文明のノルマン・シチリア文化の華が開いた。
( ノルマン・シチリア王国の王宮 )
[ 後進地帯へ ]
その後、シチリアは、オートヴィル家、ホーエンシュタウフェン家から、非ノルマン系のアンジュー家、アラゴン家、スペインブルボン家へと王統が変遷し、両シチリア王国、ナポリ王国と国名も変わっていった。特にスペイン・ブルボン家による統治の時代になると、小作制や不在地主制によって農村は荒廃し、商業も振るわず、シチリアは後進地帯に転落していく。
1861年、ガリバルディとこれに呼応したシチリアの農民、民衆軍によって外国勢力は排除され、イタリアの国家統一を実現する原動力となったが、シチリアの経済は沈んだままで、あのマフィアが跋扈する時代へとなっていく。
( イオニア海の夜明け )
※ この項は、またまた紅山雪夫氏の著書を参考に記述しました。紅山雪夫 『 シチリア・南イタリアとマルタ 』 (トラベルジャーナル) です。 (続く)
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