「古代飛鳥」の歴史を語るには、百済の国の地(歴史)を知らないといけないと思い、11月中旬に古代史スペシャルということで「百済歴史散策(扶余・公州・益山・端山)」の4日間、とてもマニアックな歴史ツアーに参加しました。「白村江の戦い」を中心にした歴史散策となりました。
前回は、古代の「百済の地を訪ねて(扶蘇山城・皐蘭寺・宮南池)」(1)の様子を、紹介しました。
今回は、古代の「百済の地を訪ねて(定林寺跡・王興寺跡・百済文化団地)」(2)の様子を、紹介したいと思います。
〇古代王国百済の仏教文化がもっとも花開いた泗沘(現在の扶余)時代(538年~660年)の中心に建設された「定林寺(チョンニムサ)」は、百済王室のもっとも重要な大寺院だったとされています。現在寺院そのものは残っていませんが、建物を南北一直線状に配置した典型的な百済様式の寺院で、金堂址、中門址、回廊址、講堂址などが確認・保存されています。 一番のみどころは中央にそびえる五層石塔。百済時代から1400年の歳月、雨風に打たれながらその姿を現代までとどめており、2015年にはユネスコ世界文化遺産にも指定された国宝です。百済を攻めた唐の将軍蘇定方は、この石塔初層の塔身に戦勝を記念して「大唐平百済国碑銘」と刻み、この銘文によって、百済滅亡の「そのとき」の歴史を今の私たちに語ることとなったのです。風化が進んでいましたが、僅かながら石塔の下段の端に僅かながら見ることが出来ました。百済滅亡の銘文と思うと、何か心が痛む思いでした!
百済滅亡後、高麗時代に再び繁栄した「定林寺」の本尊仏だったと考えられている石仏坐像(5.62m)。右手部分や左ひざなどの破損・摩滅がひどく詳しい技法や様式はわかっていませんが、狭い肩幅や胸の位置にある左手などから毘盧遮那(びるしゃな)仏であることはほぼ確実視されています。現在石仏坐像は、新しく建てられた講堂に安置されています。
敷地内には、「定林寺址博物館」もあります。泗沘時代の百済の仏教思想・文化について、「定林寺」に焦点を当てて展示されています。五層石塔の詳しい解説や、泗沘時代の定林寺を再現した模型など、興味深い内容に触れられます。明日香村飛鳥にある「飛鳥寺研修会館」敷地内において、五層石塔をみることができますよ!
〇「王興寺跡」は、明日香村にある日本最古の寺院とされる「飛鳥寺」のモデルが、百済の「王興寺」である可能性が高いと言われています。百済滅亡後、廃墟と化した王興寺は、百済第27代・威徳(ウィドク)王(在位554〜598)が、先立った王子の冥福を祈るために建てた寺院。国立扶余(プヨ=百済の古都)文化財研究所が、出土した金・銀・青銅の舎利容器(博物館で見学できます)を分析した結果、577年2月に創建されたことが判明しました。日本書記には、「飛鳥寺建立のため、577年11月、百済王(威徳王)が技術者を日本に送り、588年に仏舎利を送った」という記録が残っています。ひょうとして、この寺を造営した職人さん達の集団が倭国に招かれて「飛鳥寺」の造営に関わった可能性があると思うと、何か不思議なものを感じました! そう言えば、「飛鳥寺」は「法興寺」とも言います。「王興寺」との名と何か関係があるのでしょうか・・・残念ながら、現在は説明板があるだけで野原の状態でした。
〇韓国の中部、忠清南道(チュンチョンナムド)の「扶余」と言えば、韓国・三国時代の百済の最後の都が置かれたことでも有名です。そんな百済の歴史を感じられるテーマパークが、「百済文化団地」です。「正陽門」と書かれた大きな門が正面入口になります。園内は広大で百済時代の宮殿を再現した「泗沘宮(サビグン)」、五重の塔もある「陵寺(ヌンサ)」、「古墳公園」、展望台「済香楼(チェヒャンヌ)」、「生活文化村」、「慰礼城(ウィレソン)」の計6エリアに分かれており、テーマごとに百済時代が感じられるようになっています。韓国ドラマでも、使われたそうです。今までこのような、歴史を感じられるようなテーマパークは見たこともありませんでした。一つ一つがしっかりと造られており、百済の歴史を感じさせられる凄い施設で大変驚きました!次回は、古代の「百済の地を訪ねて(陵山里古墳群・陵山里寺跡・国立扶余博物館)」(3)を、紹介したいと思います。
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