ごじゃっぺ日記(旧、看悶日記)

京都生まれのにわか茨城県民による雑多な日記です。内容に一貫性はありませんが、どうかひとつ長~い目で見てください。

廃線跡めぐり、東武熊谷線(予告)

2011-08-31 20:04:05 | 鉄道
ブログネタというより予告編なのですが…

昭和18年に開業し昭和58年に廃止になるまで、熊谷~妻沼(約10km)に東武鉄道熊谷線が走っていました。
今でも結構、未完成部分も含めて路線の遺構と思われるものが残っています。
これから、これらの遺構をめぐってブログにアップして行こうかなと思っています。

国土地理院地図検索システムとペイントを駆使して、路線図を再現しました。

地図上部から、「青」「緑」「橙」「赤」と4色に分けています。
青:館林からつながる東武小泉線(現存)。青と緑の境目が現在の終着駅西小泉。
  なので、緑~橙~赤とつながる部分が、本シリーズでいうところの「熊谷線」に相当します。
緑:西小泉から利根川沿いの河原(仙石河原)まで、砂利運搬を目的に昭和51年まで存在したと言われる貨物線。
橙:仙石河原~妻沼には途中、利根川があり長大な橋梁建設が求められたが、この区間は未完のうちに廃線を迎えた(未成線)。
赤:熊谷~妻沼。昭和58年まで旅客営業された熊谷線の営業区間。

さて結局廃止になる熊谷線、なぜ建設されたのでしょう。
ヒントは、昭和18年という開業年と、地図の緑区間の西側に広がる緑色の区画。
地図では三洋電機と書かれていますが、戦前、戦時中は中島飛行機の軍用機工場でした。
我が町と隣接する太田市にかけて、中島飛行機の大工場が存在したのです。
戦争中はこの大軍需工場への物資や工員輸送が急務で最寄りの国鉄(省線)駅熊谷と西小泉を連絡する鉄道建設が求められたのです。
平坦区間で、建設が容易だった妻沼まで開業したものの、戦況の悪化による資材不足により利根川架橋が進まぬうちに終戦。
建設目的そのものが失われ、その後も建設を求める動きはあったものの、開業区間の営業不振により配線となったようです。

週末を利用してこれらの路線の遺構を訪ね、レポートしようとう企画です。さてどうなることか。
初回は今週末の予定ですが…台風の予報なので延期かも orz

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