ごじゃっぺ日記(旧、看悶日記)

京都生まれのにわか茨城県民による雑多な日記です。内容に一貫性はありませんが、どうかひとつ長~い目で見てください。

茨城の小城下町、桜川市真壁を散策する

2018-09-16 17:43:03 | 茨城だっぺ
筑波山の麓の小さな城下町、真壁に行ってきました。
自宅の古河からは1時間少々。11時過ぎに家を出てお昼過ぎに到着、まずは昼ごはん。

お蕎麦がメインではなく、肉入りおにぎりが人気のお店。
元々は、立ち食いそばのお店ですが…4畳半ほどの店内には6席ほどのテーブルがありました。

隣がタクシー屋さんであることから判るかもしれませんが、元々は駅前でした。
昭和62年まで土浦から筑波山麓をぐるっと回って岩瀬までを結んだ筑波鉄道、真壁駅がありました。

さて、本当の駅前と思われる場所に、菊の御紋の付いた小さなコンクリートの建造物が…
戦前はどこにもあったという奉安殿が現存、扉は開放され中が確認できました。
神棚に、明治・大正・昭和と3代の天皇・皇后両陛下のお写真、そして「朕惟うに…」で始まる教育勅語が祀られていました。
写真を撮ろうかと思いましたが、戦前なら不敬罪になりそうなので、まぶたに焼き付けて帰ってきました。

さて、ここ真壁。観光地としてはあまり知られていないですが、まるで「寅さん」がやってきそうな古い町です。

観光客どころか人気のない商店街…
ひな祭りが有名で、桃の節句までの約1か月間は観光客が多いそうですが、今はひっそり。

それでも何気ない建物がことごとく「登録有形文化財」。文化財が田舎町の生活に溶け込んでいるのです。
今は石材業で盛んな真壁ですが、江戸期は醸造業が盛んだったようです。

造り酒屋に立ち寄り、地酒を買って帰ってきました。

さて、真壁のお殿さまは誰だったのでしょう?
戦国期までは常陸の戦国大名佐竹氏配下の真壁氏の所領でした。
佐竹氏は関ヶ原の際に中立を貫いたため家康の不興を買い、配下の真壁氏もろとも秋田に改易されます。
そして江戸期早々、真壁に入ったのは浅野氏。
浅野氏は豊臣秀吉の正室おねの縁者で、当時の浅野長政は豊臣政権の中枢にいながら石田三成とは不仲。
関ヶ原の際は東軍に与したことで、恩賞として佐竹氏(真壁氏)が抜けた当地を与えられたとのこと。
その浅野氏も真壁にいた期間は短く、大坂の陣ののちは筑波山、加波山を挟んだ岩間に移り、
岩間藩領の真壁陣屋がおかれたようですが…長政の孫、長直の代で播州赤穂に転封。
そしてさらにその孫の長矩が、忠臣蔵の浅野内匠頭です。
赤穂浪士の中にも、この真壁を出自にもつ家臣が複数いたそうです。

最後に戯言、
日本三大美人といえば、秋田、京都、博多で、日本三大ブスと言えば、仙台、水戸(常陸)、名古屋だとか…
秋田と水戸が表裏一体。
常陸国水戸のお殿様佐竹氏が秋田に移る際に、常陸の領内の美人をことごとく秋田に同行させたので、
秋田は美人が多く、水戸にはブスばかりが残って美人が少ないのだそうな…