「それでも人生は続く」 放射能から逃れ友と引き裂かれた少女…福島と能登への思い #知り続ける
今回に限り個人的な所感と言い切ります。
すみません。
以前に書いた投稿でもインタビューだから聞けばそれで仕事だけど、それだけだと地域や他の被災者の為にならないと書きました。
これも何かそう言う感じが残るのです。
ドキュメンタリーは社会的な事実の断面であって、個人の思いや生き方を語らせる場ではありません。
事実を情報として出さないといけないのに個人の情感を軸に社会の動きを車窓からの景色のように映し出すのは良いのだろうか?
これが映画とかで作品ですと言うのなら、先ずもって良い作品ですねと理解されます。
しかしながら、体験していない人に個別の例を挙げればこんな感じですと言うのはやって良い事なのかも含めて答えは相当先の歴史家にでも任せるしかないのでしょう。
間違っているとは言わないのですが、決め兼ねるような事で商売するのに気が引けない時点で偏向せざるを得ないはずです。
悪い言い方をすれば特殊な環境を経験した人の例を挙げてそれを記事化するのが極めて特異な事例なのをどこまで説明出来るかなのに最初から立ち位置を決めたならそれは報道ではなくて単なるドラマです。
だから、作品としてなら良いのでしょう。
日本の報道と言うか、特殊な事例を取り上げた取材となると必ずと行って良いほど、一般論から離れて自己の世界観でストリーに浸ってしまいます。
悪い事にNHKだろうと一流新聞だろうとその傾向が強いのです。
科学的とか、社会学的とか、ドキュメンタリーにしてもその筋書きは一般論が及ぶ範囲までです。
一般論が及ばないような例外的な話を取材してそれを放送する時に感情的なシーンになったら結局それはドラマで報道のような厳密に言う偏向の無い物にはなりません。
むしろ、患者論やその暗い雰囲気がその筋書きの大半を占めてドキュメンタリーと言うより自叙伝的なストリーになってしまいそうです。
訴求したいなら、どうしても訴求する事柄についての冷静な判断させるような事実とか、記録とかないと単なる叙情詩的な物でしかないのです。
一言加えて言うとおそらく福島と能登半島の被災者の気持ちは違うのかと思うと言うか望郷の念の意味で複雑なのかと思うのですが。
特にクールにその対象地域でもないのに福島から他の地域へと避難された人もいましたよね。
そう言う例外も含めて原発への感覚が福島の場合強かったように思えてきます。
それの無い能登半島まで同じ括りなのかは個別の意見なのでしょうけど。
Yahoo!がチャレンジャーでこれまでも既成の報道機関以外からも記事を買って提供してきたのは認めて良いと思います。
しかしながら、悪いとは思いませんが相手の素性が分かっているのにどうしてこうも乗っかってしまうのかです。
想像していた物が出来ていたのをビデオで確認した時にやはりこうなるよねと言う予感通りのドキュメンタリーでなくて自分語り的な世界観でした。
他の取材陣にもチャンスが有れば、比較して叙情詩的な世界観にならない本当に記録的な取材・資料になると思うのですが。
簡単に言うと舞台の上の演技的な、もしくは作家さんの筋書き通りの芝居のような印象を減らさないとドキュメンタリーと言う名の感情記録になってしまいます。
これを海外の人に見せて吹き替えではなく、表情と字幕で見て貰って正確な話が通用するのかで評価した方がいいのでは?
おそらく古い日本人なら同情が先で正確な話よりもストリーに集中してしまいます。
それで正確な事が通じてドキュメンタリーだと認められるならそれでもいい程度には寛容です。
確実に何がダメなのかと言うと現実的には多くの人は福島の他の地域で暮らしていたしそれからしても例外なのです。
そこを理解しての視聴なら大丈夫かとのですけどその時の情報が無い中で原発事故の印象を固めてしまうと、津波で海岸線から離れた地域に避難した人も近い経験はしているのに何故か原発事故被災者の悲しさだけが浮き上がります。
だから最初に戻ってしまうのですけどドラマとしてなら点数は高くあげれても事実をレポートするドキュメンタリーとしては点数をあげ難いと言う話です。