菜の花の中に「水仙」が咲いていた。
令和になって6年、春の気配を感ずる季節到来である。
今年は、年明け早々能登半島に激震が襲った。毎日能登半島の復興度合いをTVで見ているが作業の進捗が遅い。もっと大掛かりな作業は出来ないのか苛立たしさを感じる。
そんな事を思いながら、私の散歩道の川附川堤防には、日増しに菜の花が元気よく地表に現れ花を咲かせている。
帰宅し暦を見ると立春(2月4日)を迎えていた。
立春を過ぎた頃から少しずつ、太陽の高度が上がり、昼間の時間が長くなる。
光の春・音の春・気温の春、植物も動物も日本列島各地で動き始める。
光の春=気温が上昇して光に反応して冬眠から目覚める。
音の春=川のせせらぎの音、鳥の鳴き声、雪国では雪解けの音が聞こえる。
気温の春=春分をすぎる頃から「暑さ寒さも彼岸まで」のたとえの通りに、気温も上昇して一番いい季節に移
行していく。四季のはっきりしている日本は素晴らしい・・地震がなければであるが!!。
画像は、3年振りにカメラ持参で何時もの散歩道を歩きシャッターを押してみた。
私の散歩道の川附川堤防には、日増しに菜の花が元気よく地表に現れ花を咲かせ散歩をする人達を楽しませてくれる。皆さんスマホで写真を撮ている。
菜の花の写真を撮りながら「あなた達はすごい感覚の持ち主ですね!!」「地表が暖かくなると冬眠から目覚め、芽を吹き、葉っぱを形成し、花を咲かせる。そして人々の気持ちを浄化させてくれる。ありがとう、いい構図の写真が撮れないけれどごめんね・・と心の中で呟きながらシャッターを押した。
菜の花を見ながらサイクリングを楽しむ人も。
近くに病院があり、リハビリの先生とリハビリを兼ねて屋外で運動する人。
気持ちも晴れやかになる。
直ぐ側には伊丹十三記念館もある。
左奥の樹々は、天山です。
伊丹十三記念館の庭に咲いていた「雪柳・ユキヤナギ」
散歩道沿線の家の庭に沢山の「キンカン」があった。
別の家庭に「山茶花」が元気よく咲いていた。
我が家の山茶花は、昨年夏場に水を与えなかったので今年は一輪も咲いてない。木が弱っている。悪いことをした。
「菅原公御腰掛石」とその記念石碑。
菅原道真が今治市桜井の「綱敷天神」から、松山市久保田町の「履脱天神」に行く途中、暫しの休息をしたと言う菅道真腰掛けの石で、星岡古戦場跡の一角にある。
私が散歩をする付近は、歴史上に出てくる所が沢山あり、歴史好きの人達には絶好の散策地である。
以前、奈良県から天山の歴史散策に訪れた人に出くわし、ご案内をしたことがあった。
「天山」は、記紀に出て来る山で、奈良県橿原市の「天香久山」と愛媛県松山市天山町の「天山」、は姉妹の山で、両町の皆さんが交流を記念して建立された石碑が天山山頂にある。
また、天山は、加藤嘉明が松山城築城に際し1番候補地として徳川家康に許可申請をした山で、2番候補地が「勝山・現在の松山城」3番候補地が「御幸寺山、愛媛県護国神社の裏山」。当時家康は、2番候補地に築城許可が下りていたので「嘉明が築城したかった勝山を2番候補地にした・・との逸話がある。
天山山頂から望む「松山城」
散歩道の川は「川附川」といいますが、鳥がやってきて「水浴び」をしていました。
教科書に出てくる「蒙古襲来の時、博多湾で、河野の後築地」と呼ばれ、有名な河野通有の居城であった「縦淵城跡」も近くにあります。
縦淵城跡の説明板。
鎌倉幕府終焉の切っ掛けとなった「星岡古戦場跡」も近くにある。
星岡古戦場跡とは、鎌倉時代の末期幕府の力が弱まってきたころ、後醍醐天皇はもう一度、天皇が政治を行なう為に実権を取りもどそうと討幕を計画し王政復古の戦いである。
明治17年5月、陸軍中将仙波太郎が発起人となり建立した星岡古戦場山頂にある「星岡表忠之碑」、当時仙波太郎は陸軍中尉であった。
私が散歩をする付近を上空から見るとこのような図式になる。
加藤嘉明が松山城築城の時、1番候補地(天山)を徳川家康に申請したが、もしも天山に許可が下りていれば、我が家周辺は松山の城下町になっていた。
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