EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

宮本武之輔 顕彰銅像&記念石碑見聞

2013年03月08日 | 伊予松山歴史散策
 地元愛媛県松山市では知名度は低いが、新潟県では恩人として愛されている。平成25年1月1日、愛媛新聞が「民衆を愛した土木技師」として大々的に3日間続けて記事が掲載された。
 その記事を、新潟市江南区にある「北方文化博物館」に送った。
 知人の北方文化博物館佐藤統括室長さんは、新潟の人は知らない人は居ませんよ、・・とメールが届いた。

 3月6日北方文化博物館の神田評議員さんが是非宮本武之輔さんの顕彰碑と銅像を見聞したいとの事で来松した。
前もって松山市役所興居島支所長さんにご案内ご説明を依頼していたので6日午後1時45分の船で興居島由良町に渡り、支所長さんの説明を聞き、宮本武之輔さんの生家跡と墓所にもお連れ頂、お墓参りをさせて頂いた。

 午後2時20分の船で松山市高浜港に帰り、次の見聞の地である、梅津寺の秋山好古・眞之の銅像と伊藤博文縁の松を見て、そして「三津の渡し舟」明治時代の汽船乗り場跡、厳島神社にある秋山好古揮毫の石碑「表忠碑」を案内して神田氏の松山での第一日目の見聞行程は終わった。

参考事項:元読売東京巨人軍、投手 西本 聖も興居島の出身(平成13年よりオリックス・バファローズの投手コーチ兼バッテリーコーチを担当)


 松山市由良町にある宮本武之輔の顕彰銅像と記念石碑。
宮本武之輔は・・(明治25年~昭和16年)49歳の若さで亡くなった。
松山市興居島出身の土木技師で、上京し、勉学に励み東京帝国大学工学部を主席で卒業。
 土木技師として内務省に就職。新潟県信濃川大河津分水可動堰修復工事でその才能を発揮、その銅像が顕彰石碑の隣に建立された。銅像建立には、新潟からも多くの寄附が寄せられ、大河津分水を愛する資料館友の会からメッセージが寄せられたとある。・・「民衆のために生きた宮本の功績を新潟と愛媛で何時までも伝えて行きましょう」とある。


記念石碑の前で説明を受ける神田氏と秋山兄弟生誕地女性研究員たち。


見聞に来た記念に写真を一枚。この日は晴天で気温が14,9度あり絶好の見聞日和であった。


宮本武之輔のお墓で、東京にある墓所からの文骨として故郷宮本家の一角に墓が建てられた。


予定の行程も無事終わり、帰りの船に乗船。


 夏目漱石「坊ちゃん」に出てくる「別名ターナー島」で、同小説では「青島」で登場する。島の松ノ木が枯れ、高浜小学校の北岡先生が25年の歳月を掛けて自費で船を調達し松を植栽、毎日のように水を与え育て上げ立派な松になっている。
 24本あり平成17年国登録記念物に指定。
 松は根から有機酸を出し岩に食い込み岩から水分や養分を摂取しているから育つそうです。大学の偉い教授がもうこの島には松は育つまいと言われ市や県はあきらめていたが、北岡先生が「なにくそ魂」の精神を発揮し研究を重ね育て上げた。(北岡先生は理科の先生)
 所在地は、松山市高浜一丁目115番地、堤塘(ていとう)=土手として法務局に登記されている。
 所有者は、平成17年7月8日愛媛県から松山市に登記替えされた。
 成り立ちは、花崗閃緑岩の大小三つの岩が連なって出来ている。高さ18m 面積1200平方m(363坪)、島の周り約140m。地質がもろく、波浪や海流の影響を受け、年々細っている・・その内消滅するのではないかと心配している。


 明治21 にドイツ・ミュンヘン州クラウス社から輸入した第1号機関車で梅津寺公園に静態保存されている。
 坊っちゃん列車とは伊予鉄道で活躍した蒸気機関車のことで夏目漱石の小説「坊っちゃん」で、その登場人物達が多くこの蒸気機関車を利用したことから「坊っちゃん列車」の愛称で人々に親しまれていた。
 伊予鉄道は、日本最古の軽便小鉄道でその主役として活躍したのがドイツ・ミュンヘン州クラウス社製から輸入した蒸気機関車(愛称・坊っちゃん列車)でした。 坊っちゃん列車は明治21年10月28日の運行開始以来67年にわたり、活躍したが、列車の電化に伴い蒸気で走っていた坊っちゃん列車は路線上から姿を消した。


 明治42年伊藤博文公が松山にお越しになった時に寄附を得て、松の種を蒔き育てた松の一つで、この由来を後世に伝えるために石碑を建立した。


由来を後世に伝えるために建立した石碑。


梅津寺見晴山にある秋山好古立像を見聞される、新潟市北方博物館評議員神田氏。好古は遥か遠く奉天の方向を向き立っている。


 好古立像から約300m北に眞之の立像がある。
 秋山好古・眞之の銅像、伊藤博文公由来の説明は高浜地区ボランテイアガイドの川内元子さんが案内してくれた。
 秋山眞之立銅像の台座に智謀如湧と戦艦三笠が銅版で組み込まれその下に「智謀如湧」がやはり銅版仕上げで入れ込んである。
「智謀如湧」の揮毫者は、東郷平八郎である。眞之立銅像は昭和18年先の大戦で金属供出で撤去されたが、戦艦三笠と智謀如湧は当時のままである。


 この渡しは市道高浜2号線の一部として、松山港内港地区の三津と港山の間約80メートルを結ぶ市直営の渡船で、年中無休、無料で年間約5万人の利用者に親しまれています。
【運行時間】午前7時から午後7時 随時運航、年中無休(荒天などにより、運休する場合があります。)
【料金】 無料
【交通機関】伊予鉄港山駅から徒歩2分、伊予鉄三津駅から徒歩15分
三津の渡し舟、(船名の由来について)
「三津の渡し」を別名、三津の人々は「洲崎(すさき)の渡し」と言い、港山の人々は「古深里(こぶかり)の渡し」と言っています。そこで、現在、2隻の船名を「すさき丸」と「こぶかり丸」として運航しています。
NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」放映以来県外から観光に見えられる方が多く今や人気の渡し舟である。


 明治時代三津浜の海岸は遠浅で大型客船は接岸できず艀で本船に乗船や貨物を運んでいた場所に、現在は画像の記念標柱が立てられている。好古、眞之、子規たちもここから乗船し上京していた。
 現在は遠浅の海岸は埋め立てられ住宅地と変貌している。


 秋山好古揮毫「表忠碑」。
1.碑   文 :  表忠魂
2.所 在 地:  松山市神田町1番7号 厳島神社
3.揮 毫 者:  陸軍大将 秋山好古
4.建 立 者:  裏面に世話人8名の記載有り判読困難
5.建立年月日: 記載無し :合祀及び対象者:三津浜地区・264柱
6.碑石大きさ: 高さ 4m 63㎝ 横幅 2m 50㎝ 厚み 53㎝
7、石碑の由来:裏面に日清・日露戦争で戦病死された氏名が記載されている。

 好古は、日清・日露戦争で従軍し亡くなった部下の事を思い陸軍大将になっても極力華美な生活は控え元帥に推薦の事も断わった。
 郷里の私立北予中学の校長を引き受け青少年育成に尽くした。
 この石碑は、平成20年10月3日、NHK四国スペシャル「拝啓秋山校長殿」で紹介された。
 表忠魂とは、従軍し戦病死された方々の英霊を御祀りする時に建立する石碑は慰霊碑・忠魂碑と揮毫するが、生還された兵士の戦役の意味も篭めて建立する時は表忠碑として建立する。

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