此の度、(平成27年4月11日)神奈川県平塚市広川在住の添田吉則さん敬子さん夫妻から「日清戦争における戦没兵士遺族の行動と心情」と題した研究報論文が送られて来ました。
この論文は、平塚市博物館研究報告「自然と文化」第38号(2015年3月)に投稿された文献です。
内容は、日本国家史上初、最大の出来事でありました日清戦争が勃発し、戦役され戦死されましたました騎兵1等卒添田賢次郎さんに関する事柄です。
賢次郎は、神奈川県大住郡金目村廣川(現、平塚市広川)に明治6年(1873)添田保吉の長男として誕生しています。
明治26年12月20日、騎兵第1師団第1連隊第1大隊第2中隊に入隊し、その後騎兵1等卒に進み馬術・銃鎗の技を修め本体に属し戦地に赴き斥候の任務に服し蓋平の戦いに於いて勇ましく戦い、二道溝栄口に敵を迎え撃つも激戦の末名誉な戦死をされました。
添田賢次郎さんの子孫である添田吉則さん敬子さん夫妻が添田家に残された資料、その他関係の史実をもとに作成された貴重な論文です。
添田賢次郎の家は、大きな農家の長男として誕生、学業も優秀で家督を継承するはずの嫡男を戦役で亡くされた父親の悲しみは計り知れないものであったと思います。
父、保吉は賢次郎の招魂碑を明治31年10月に広川神社境内に関係者の許可を得て建立され、碑文を秋山好古が揮毫しました。
騎兵1等卒添田賢次郎に関わりのある石碑が、東京都世田谷区池尻四丁目に「征清之役戦死者哀悼碑」があります。
この石碑は、明治29年6月30日、秋山好古が日清之役で名誉な戦死をされた騎兵隊士の哀悼碑で、裏面に戦死された15名の氏名を刻印し後世に伝えるために、好古自らが建立した石碑です。
15名の中の一人に騎兵1等卒添田賢次郎の名前があります。
私は、現在も秋山好古揮毫石碑の調査をしておりますが、世田谷区池尻四丁目の石碑は、平成18年10月6日、世田谷区役所の許可を得て写真撮影取材を行いました。
平塚市の添田賢次郎招魂碑「義烈」は平成24年4月18日、添田敬子さんが招魂碑「義烈」を拓本に採り遠路遥々神奈川県平塚市から、秋山邸に持参され判明しました。そして同年5月23日、平塚市の招魂碑を写真取材いたしました。
この時、秋山好古が征清之役で名誉な戦死をされた騎兵隊士の哀悼碑が世田谷区池尻四丁に建立されている事を伝え、後日裏面15名の中に騎兵1等卒添田賢次郎の名前があるか照会があり、添田賢次郎の名前を確認し連絡、此れが切っ掛けとなって、添田夫妻の今回の調査が始まり文献作成となりました。
秋山好古が明治29年6月30日、征清之役で名誉な戦死をされた騎兵隊士の哀悼碑として建立し、裏面にその15名の氏名を刻印し後世に伝えるために、好古自らが建立した石碑ですが、その後120年の歳月を経て好古の思いが添田家に伝わりました。
高が石碑然されど石碑だと熟思いました。
平成27年3月、平塚市博物館研究報告「自然と文化」第38号(2015年3月)に投稿された「日清戦争における戦没兵士遺族の行動と心情」と題した研究論文です。
添田賢次郎招魂碑「義烈」の拓本。
平成24年4月18日、添田敬子さんが招魂碑「義烈」を拓本に採り遠路遥々神奈川県平塚市から秋山兄弟生誕地に持参されました。
添田賢次郎招魂碑「義烈」。
賢次郎の父添田保吉が明治31年10月に広川神社境内に関係者の許可を得て建立され、碑文を秋山好古が揮毫しました。
平成24年5月23日撮影。
添田賢次郎招魂碑の碑文、揮毫は秋山好古。
秋山好古この時、陸軍騎兵大佐で、綺麗な字で丁寧に揮毫しております。
添田賢次郎招魂碑の義烈の碑文。
平成24年4月18日、添田敬子さんが招魂碑「義烈」を拓本に採り遠路遥々神奈川県平塚市から秋山兄弟生誕地に持参されました時の記念写真。
平成24年5月23日、平塚市の招魂碑を写真取材いたしました時の記念写真。
東京都世田谷区池尻四丁目にある「征清之役戦死者哀悼碑」。
平成18年10月6日、世田谷区役所の許可を得て写真撮影取材を行いました。許可は、文字に墨を入れて浮き出すために、撮影後は墨を水でふき取り現状復帰、職員立会のもとが撮影条件でした。石碑の管理は世田谷区役所です。
東京都世田谷区池尻四丁目に「征清之役戦死者哀悼碑」の裏面で見にくいですが、騎兵1等卒添田賢次郎の名前があります。秋山好古の直筆です。
この石碑が原点で今回の添田夫妻の調査が始まりました。
高が石碑然されど石碑です。