陸上自衛隊習志野駐屯地の正門右側の標柱で、自衛隊広報官の許可を得て撮影した。
撮影条件は中の様子が写らないことであった。
この駐屯地に第1空挺団が駐屯しており、陸自最強と言われている部隊である。
そして駐屯地の一角に秋山好古の絶筆となった「軍馬慰霊之碑」が建立されている。
精鋭無比、陸上自衛隊習志野駐屯地に第1空挺団は最強と言われている部隊の表示は正面左の標柱に掲げてあった。
軍馬慰霊之碑の写真取材には申請書を提出した。
申請内容は、取材目的に添付として私の経歴と父親の軍歴を付記した。
申請書には、
1、 取材目的
2、 取材者&取材者の経歴
3、 付記として:私の親父の軍歴を添付した。
4、 昭和4年3月、秋山好古が校長をしていた北豫中学の卒業生であること。
旧関東軍、歩兵第80連隊第30大隊附、昭和19年3月15日、海上機動部隊が編成され、第2旅団機動第3大隊、第1中隊附、昭和20年4月28日、ニューギニアのサラワテイ島にて斥侯隊長として敵情報収集中、敵兵と遭遇戦闘中戦死と明記して提出した。
註として、斥侯隊員は無事全員生還、隊長であった親父のみが戦死と記した。
取材当日は、広報官の手厚い扱いを受け良き取材が出来た。
そして、広報担当官の案内で「軍馬慰霊之碑」の建立地に行き石碑を見た。
今まで見てきた石碑とは違った立派な大きな碑で騎兵学校跡に、そして学校長を務めた地に、親父が教わった恩師が揮毫した石碑を見て感無量であった。
この石碑の揮毫は、昭和5年10月5日の筆で秋山好古の絶筆となった「軍馬慰霊之碑」である。
1.碑 文 : 軍馬慰霊之碑忠魂碑
2.所 在 地: 千葉県船橋市薬円台3-20-1 陸上自衛隊習志野駐屯地・第一空挺団内
3.揮 毫 者: 陸軍大将 秋山好古
4.建 立 者: 記載無し
5.建立年月日: 昭和5年11月
6.石碑大きさ: 高さ 3m17㎝ 横幅 91cm
7.その他 : 石碑の建立場所は、当初の場所とは違い、駐屯地整備の関係で現在の場所に変更したと説明を受けた。
軍馬慰霊之碑の経緯
陸軍騎兵学校の前身である陸軍乗馬学校は、明治21年東京市麹町区元衛町に創立、同24年に東京府荏原郡目黒村上目黒(現在の目黒区大橋二丁目)に移転、明治31年陸軍騎兵実施学校となり大正5年12月千葉県千葉郡二宮町(現在地)に移転、翌6年9月陸軍騎兵学校と改称された。
習志野は、日本騎兵の中枢だったため軍馬慰霊碑が騎兵学校に建立された。
日本騎兵の父と言われた秋山好古は、第2代目騎兵学校長を務めその関係で、秋山好古に軍馬慰霊之碑の揮毫依頼があり昭和5年10月5日揮毫した。
同年11月4日、体調を崩し東京の陸軍軍医学校病院にて逝去、72歳であった。
建立されたのは、昭和5年11月で好古は逝去した後でこの軍馬慰霊之碑を見ることは出来なかった。
昭和11年11月1日秋山好古大将伝記刊行会発行の「秋山好古」の背文字は、その署名を写したものである。
各時代の秋山好古
秋山好古は、伊予松山藩徒目付の家系に安政7年1月7日、秋山久敬の3男として誕生、幼名は信三郎で元服し好古と改名した。正式には秋山信三郎好古で、弟に秋山眞之海軍中将がいる。
好古の命名は、父久敬が論語の、子(し)日(のたま)わく、述(の)べて作(つく)らず、信(しん)じて古(いにしえ)を好(この)む。竊(ひそ)に我(わ)が老彭(ろうほう)に比(ひ)す。により父久敬が命名した。
好古は、御歳16歳の時福沢諭吉の学問のすすめを読み、これからの日本は青少年の教育が必置であることを考え学校の教師になることを志した。
大阪師範学校(現大阪教育大学)に入学し、卒業後愛知県師範学校附属小学校(現在の愛知教育大学付属名古屋小学校)の教師として赴任した。
名古屋には、伊予松山藩出身の、山本忠彰名古屋鎮台法務官と、師範学校付属小学校主事(校長代理)の和久正辰がいた。
この二人の強い勧めで軍人になることになる。
学校の勤務が終わると毎晩のように呼び出され、教師もいいが此れからは軍人の世界、軍人になるように勧められ、その席に何時も酒が出た。それ以後酒をたしなむようになった。
そして学校を依願退職し、月給30円の愛知県訓導を免じ、新たに東京予備教員を命じられ月給8円を給せられ、これは陸軍士官学校の試験に応ずるための特別な取り扱いであった。(和久正辰校長代理が仕掛けた。)
東京には山本忠彰名古屋鎮台法務官が引率し、陸軍士官学校3期生として入学した秋山好古は軍人の世界に入った。
時正に激動の時、明治10年西南戦争が勃発した年だった。
画像は、和久正辰・・好古を軍人に仕立てた人。
伊予松山藩は親藩で、朝敵とされた土地柄で伊予松山藩最初の軍人である。
松山出身の、山本忠彰名古屋鎮台法務官、そして愛知県師範学校附属小学校主事(校長代理)の和久正辰、この二人の強い勧めで陸軍士官学校第3期生として入学、騎兵科を専攻したのは、担当官であった寺内正毅の(後の内閣総理大臣)勧めで騎兵を専攻した。
勧めた理由は、背が高く、足が長く馬上に適した体つきであったから!!
その後、近衛師団長、教育総監を歴任、大正12年元帥に推薦されるもこれを辞退、大元帥(大正天皇)は驚いた。
未だかって元帥を辞退した者はいなかったからだ。
大元帥は元帥を辞退した秋山好古大将に、特旨として官位従二位を与え好古は、官位従二位を拝命し大正13年郷里の伊豫松山から強い要望に答え北豫中学校長(現、愛媛県立松山北高校)として昭和5年3月まで本来の教育者として勤務し、故郷の青少年の教育に尽くし同年3月北豫中学校長を辞任、11月4日東京・陸軍軍医学校で永眠(享年72歳)現在東京青山霊園に眠っている。
松山市の鷺谷墓地にある秋山好古の墓。
松山市の墓は、好古は軍人となっても教育者として故郷の青少年の育英に尽くされた功績に対して未来永劫を期して、東京の宗家の許可を得て、青山霊園から分骨をして松山にも墓を作った。(松山の人々は永遠に秋山好古校長先生の事は忘れません)の意味がある墓である。
東京青山霊園にある秋山家の墓所。
秋山好古は生前、墓は要らぬ、家も要らない、銅像など作るで出ないと言って逝去した。
家族は、肩書の入った仰々しい墓石(陸軍大将従二位勲一等功二級)は作らず秋山家の墓に家族と一緒に眠っている。
秋山好古の信条、「簡単、明瞭、質素、倹約、そして人は心穏やかで豊かであり、元気な間は働くべき、仕事はその気で探せば幾らでもある。」
座右の銘は「独立自尊」であった。
好古は、父の教え守り、勉強すれば貧しい人間にはならない、そして大きくなった暁には、私利私欲を捨て、世の為・人の為・故郷の為に役に立つ人間になりなさい。・・母の教え貫き72歳を全うした。
元帥を辞退したのも、母の教えの一つ「私利私欲を捨てて」が何時も脳裏に有ったのではないかと私は思うのである。!!
秋山家の墓誌。
秋山好古の墓所は、東京都青山霊園「西17通り右へ1種イ19号2側1番」にある。
北里柴三郎の右隣にある。
現在の墓石は、昭和62年6月に秋山宗家第10代秋山哲兒氏が作り替えた。
その時秋山眞之の墓は鎌倉霊園に移った。
東京都青山霊園案内図。
秋山好古の戒名。
(秋山宗家、第10代秋山哲兒氏提供)
戒名は、藩政時代であれば大名クラスとある人は言った。
大正13年3月、東京では大きな話題となり馬鹿呼ばわりする人も出た。
それは、元帥を辞退し、大将が田舎の私立の中学校の校長になるとは馬鹿な男よ!!だった。
しかし好古は、馬鹿呼ばわりを聞く耳持たず、単身で松山に帰って来た。
元帥を捨て、錦をも捨ててであった。
戒名は道元が興した曹洞宗大本山永平寺の院号が凄い。
永平寺禅の世界「より無我になり、欲や執着がなくなり、教えてあげるのではなく、教えさせていただく」の気持ち「どちらにも傾かぬ心、差別しない心」好古の心境は道元禅師の教えを会得し松山に帰ったのではないか。
好古は秋山家を相続、その時の地券である。
好古は、長男則久が早くして隠居した。次男は他家に養子に行ったため3男好古が家督相続した。
秋山家は代々長男の名前には久の字が付く。
秋山家始祖は秋山宗清、第3代将軍徳川家光の時今治藩、藤堂高吉(高虎の養子)家臣であった。
藤堂高吉は今治藩城代から、伊賀名張藩2万石の城主となり、始祖秋山宗清は高吉の家臣として伊賀名張行ったが、再び今治藩に帰り、その後伊予松山藩徒目付として明治維新を迎えるのである。
秋山宗清は何らかの理由で伊予松山藩藩士となったが詳細は分からない。
初代秋山家は、信久・久良・久軌・軌久・久微・久敬(好古の父)・則久・好古・信好・現当主第10代秋山哲兒氏である。
好古の代から久の文字がなくなった。
画像は陸上競技大会で優勝した時の記念写真である。
大正13年3月から昭和5年3月まで秋山好古は郷里の伊予松山で、北豫中学の校長を務め、教育の中に体育を取り入れ中等教育を推進した。
ある時期、県立に移管の話があったが、好古は私立でやっていくほうがいいとの一言で県立移管は中止になった。
その後北豫中学に行き勉学したいとの希望する者が増し、施設を増築した。
現在の松山北高等学校の第2体育館は、好古校長時代に建築されたものである。
元帥を固辞し、錦を捨てて田舎の伊予松山の北豫中学校長として6年3ヵ月、郷里松山に対する最後のご奉公であった。
昭和5年7月10日、松山を発ち少年時代の親友、新田長次郎が居る大阪に立ち寄り一泊し、翌日東京渋谷の長男信好の自宅に着いた。
同年8月赤坂区丹後町に移転、同年10月15日、陸軍医学病院入院、同年11月4日、72歳で逝去した。
大正13年3月北豫中学校長に就任した年の卒業証書。
秋山好古は大正13年元帥に推薦されるもこれを辞退し、子供と奥さんを東京に残し単身で松山の実家に帰り好古校長は、毎日生徒よりも早く登校して、今日もしっかりと勉学しようよと直接生徒に声をかけ、教員が欠勤、遅刻すると授業ができなくなることを避け自ら教団に立ち授業をした。その後教員の欠勤、遅刻も無くなったとある。
好古校長は、出張以外は大正13年3月から昭和5年3月迄の6年間、一人で生活をし、一日の休暇も取らず校長職を貫いた。
愛知県師範学校附属小学校時代から酒を嗜み、それが原因で晩年糖尿病になり、北豫中学校長の晩年合併症で左足の動脈が閉塞し始めた。
好古は、昭和4年校長を退職しようと考え、東京から奥さんの多美さんを呼び寄せ実家(現在の秋山兄弟生誕地)の整理とお世話になった人たちに夫婦で挨拶をして東京に帰る様準備、辞表を北豫中学校井上要理事長に提出するも受理されなかった。
受理されたのは昭和5年3月であった。
画像は、昭和4年、最後になるだろうとの思いで奥さんと北条の鹿島に出かけて時の写真である。前列左が秋山校長・子供を挟んで左が奥さんの多美さん。
昭和4年7月15日撮影。
画像の書籍が
昭和11年11月1日、東京市麹町区丸ノ内二丁目18番地、秋山好古大将伝記刊行会、代表桜井眞清から発行された「秋山好古」である。
この秋山好古の背文字は、陸上自衛隊習志野駐屯地に建立された「軍馬慰霊之碑」に書かれている「秋山好古」を写したものである。
秋山好古大将伝記刊行会、代表桜井眞清から発行された「秋山好古」は「軍馬慰霊之碑」に書かれている「秋山好古」の署名写したものである。
秋山兄弟生誕地で奉仕活動している研究員たちが陸上自衛隊習志野駐屯地に建立された「軍馬慰霊之碑」を見学に行った時のものである。
陸上自衛隊習志野駐屯地に建立された「軍馬慰霊之碑」の前に空挺館があり中を広報官の案内で見学した。
空挺館の前身は、騎兵連隊御馬見所で目黒にあったが大正5年に現在地に移転された。
大東亜戦争終戦後、GHQに接収され内装が一部変更されたと説明を受けた。
空挺館(旧御馬見所)の説明版。
明治44年に明治天皇が陸軍騎兵実施学校へ行幸する際、専用の御馬見所として創建されたのが空挺館の起源であると書かれている。
空挺館(旧御馬見所)の2階の部屋で、明治天皇はこの個所から騎兵学校の卒業式後行われる記念練成の演目すべてを観閲されたと言われている。
空挺館(旧御馬見所)の2階の部屋に置かれている皇族が利用された貴賓椅子が展示され、説明版もあった。
空挺館(旧御馬見所)に掲示してある、陸軍騎兵学校歴代校長の写真。
秋山好古は第2代目校長として写真があった。
前項、秋山好古揮毫石碑を訪ねて7静岡市の石碑で紹介した、秋山好古が一番信頼をした副官「豊邉新作」は陸軍騎兵学校歴代校長の中に第5代目校長として写真があった。
秋山好古の父久敬は、明治23年12月19日、松山で逝去、68歳であった。
その後好古は母、貞を松山から習志野薬円台に招く。
画像は、秋山好古が、母貞と生活していた官舎があった跡で、現在は画像の様になっている。