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松山の偉人伝シリーズ その4: 仙 波 太 郎(改訂版) 

2025年03月11日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

仙波太郎 旧陸軍中将(福音寺町 武智 良定区長の了解を得て集会所に掲示されていた写真を接写した。それを昭和46年4月1日、私が陸上自衛隊松山駐屯地の資料館に寄贈した仙波太郎の写真である。)

 仙波太郎は、安政2年4月21日に、伊予国久米郡福音寺村(現・松山市福音寺町)に生まれ、幼名を惣太郎といった。
仙波家は、福音寺村の庄屋であったが、太郎の幼少時に家計の不如意から、家産は次第に減少していった。(私の曽祖父、仙波友十郎と幼友達で、届いた書簡を大切に保存、小型の屏風に仕立て大切に使っていたが、昭和21年12月21日午前4時19分頃発生した昭和南海地震時に破損し現在は現存しない。)

太郎は、家計を助けるために少年時代から三津浜で魚類を買って、松山の城下町で行商したり、冬場には久米郡小野村(現在の松山市北梅本町)の山に行って入会林で切り取った木の枝を刈り、これを町へ売り歩いたりしながら、僅かな賃金を得て家計を助けた。

父は病弱で病床に臥せってから、母と二人で苦労を重ねたが、この間母は、貧しいなかにも太郎を激励し、その薫陶に全力を傾け激しい労働のかたわら、僅かな時間を惜しんで南久米の三輪田米山塾で学び、直接米山の教えを受け、明治7年の秋(20歳)の時陸軍教導団に合格、病床にあった父は、太郎を激励、叔父の松田通博の学友である河東坤(碧梧桐の父)の援助を受けた。
その後陸軍士官学校に入学、明治11年12月卒業、同12年2月歩兵少尉、同16年に中尉となり、同16年4月創設された陸軍大学校第1期生として入学同期に秋山好古がいた。

1期生は推薦入学で19名が入学し、卒業できたのは10名であった。首席で卒業したのは、東条英教(英機の父)太郎は3番目の成績で、好古は7番目の成績であった。なお、陸軍大学校の入学は2期生から試験制度となった。 
 その後陸軍大学校教官を経て、ドイツに留学その時、射撃術を習得し帰国後射撃術の優秀な部隊に名誉旗を授与するようになったのは太郎がドイツで行なわれていた制度をわが国に採用させた結果である。・・中略・・陸軍士官学校教官を経て大佐に昇進第三師団(名古屋)の参謀長、この頃、陸軍の三太郎「宇都宮太郎・桂太郎、後の内閣総理大臣・仙波太郎」のひとりと呼ばれた。その後福岡第24連隊長となりそして第2旅団長を経て明治43年11月30日陸軍中将となった。そしてかねてから永住の地を岐阜県加納町に決めていた。
加納町は夫人の出身地で、退役後は夫人・矢野タマの出身地である岐阜県加納町に居住した。

大正9年5月岐阜県より衆議院議員に立候補し当選、わが国の社会教育に貢献、太郎は質実剛健で正義の士にあって真に軍人の典型的であり、しかも単なる軍人に終わった人でなく常に豊富な学識と社会的常識とを保持し、正確な判断をなし得た立派な社会人でもあった。・・秋山好古は、仙波太郎中将は良く働いたとの談話がある。
 仙波太郎と温泉郡久米村との関係は、大正7年に御下賜金を受けた時、これを直ちに岐阜県教育委員会と久米村青年団とに匿名で寄贈した。
また昭和2年に生誕地である福音寺の屋敷跡に村民のために「公正会堂」を建てて寄付し、村の社会教育のために尽力した。その跡地は現在集合住宅となっている。
 昭和4年2月19日、逝去 75歳。

 旧伊予松山元藩主久松家の当主、第16代久松定謨は、秋山好古よりも8歳、仙波太郎よりも12歳年下であった。(仙波太郎、安政2年・秋山好古、安政6年・久松定謨、慶応3年)
明治16年、久松定謨が17歳の時、佛蘭西のサン・シール陸軍士官学校に留学することになり、加藤恒忠に付き添われて入学した。

入学以降の補導役として久松家の家令役である、藤野漸によって白羽の矢が立ったのが、秋山好古と仙波太郎であった。
藤野漸は先ず、仙波太郎に久松定謨の補導役としてフランスに行ってくれるよう頼んだが、仙波太郎はこれを断った。仙波は、藩政時代久米郡福音の庄屋の長男として生まれた。
藩政時代多くの年貢を納め務めて来たのに、未だ久松家の世話をせねばならぬのかと断った。
もう一つの理由は、当時陸軍の用兵はドイツ式でフランスの用兵を学んでも役に立たず、その上身分の昇進が中断されるからであった。

次に、藤野は秋山好古に頼んだ。

信さん(当時秋山好古の事を信さんと呼んでいた。幼名が信三郎であったから)は藩士の出で、久松家から家禄を賜りしした家系、恩をきせるわけではないが是非とも願いを聞き届けてほしいとたっての頼みであった。
秋山もフランスの用兵を学んでも役にたたず、ましてや私費留学扱い昇進もストップするので断ったが、藤野は、好古の父秋山久敬にも頼み込んだ。好古は仕方なく引き受け、明治20年7月20日付で本職、陸軍騎兵大尉を免じ、軍務総局長・桂 太郎から私費留学の訓令が発せられた。(御令息好古君には我陸軍大学校をも卒業せられ、前途洋々たる処、久松定謨の補導役として是非とも渡佛御報導置候也)秋山好古は、陸軍大学校1期生として卒業、階級は大尉で東京鎮台参謀の要職に在った。好古は、仏蘭西に行く事を承諾、明治20年7月23日、横浜港から陸軍局の訓令により私費留学の名目で、仏蘭西に行くことになり同年9月5日仏蘭西に到着した。階級は大尉で東京鎮台参謀の要職に在ったがその要職も解かれた。

生活費は、久松家から年間1000円の支給であった。
秋山好古は、朝敵出身者で有るがために昇進が遅れていた。しかし努力して大尉まで昇進したが久松定謨の補導役として身を捧げる事とした。しかし思わぬことでフランスに行った事が後日有利に展開するのである。それは、下記の通りである。

フランスの騎兵用兵が日本人の身体にマッチする事が渡佛して初めて分かった。
当時陸軍の用兵は、ドイツ式であった。
山縣有朋中将が欧州視察の際、フランスに居た秋山好古を訪ねてくれた。騎兵の用兵だけは是非ともフランスの用兵を採用して欲しい旨詳しく説明した。山縣有朋は、好古に対していまここで即答は出来ぬが、東京に帰り要人たちと相計らい連絡すると約束した。後日、明治23年2月10日付で、陸軍総務局長、桂太郎から、正式に官費留学の許可となり、学資金は1ヵ年1、600円が支給された。スットプしていた昇進も解除され、日本陸軍騎兵用兵はフランス用兵を採用し改めて好古は、日本騎兵隊を育てる事になった。日露戦争時世界最強のコサック騎兵団と戦い善戦したのもフランス用兵のお陰であった。

仙波太郎の経歴

安政2年6月5日       伊予国久米郡福音寺村の庄屋仙波家の長子として誕生
慶応 元年         三輪田米山に漢学を学ぶ
明治 7年         陸軍教導団に入る
明治 8年         陸軍士官学校入学
明治11年12月      陸軍士官学校卒業・2期生
明治12年 2月      陸軍少尉・歩兵第8連隊(大阪)付
明治16年 4月10日   陸軍大学校入学・一期生(歩兵中尉)
明治17年 5月      古戦場、星岡山に「星岡表忠之碑」建立を発起
明治18年12月24日   陸軍大学校一期生・優等で卒業
明治20年 4月      久松定謨の補導役としてフランス行きを断る
明治23年 2月      ドイツ留学
明治30年         乃木希典中将子息の教育監督
大正 4年 2月15日   第1師団長(この時秋山好古、近衛師団長、久松定謨、第
              1連隊長として衛戍地である東京を守護した)
大正 9年 4月      退役、岐阜3区から衆議院議員に出馬当選
昭和 4年 2月19日   岐阜県加納町にて死去 享年74歳 正三位勲一等功三級
昭和49年 4月25日   仙波太郎生誕地に「仙波太郎生誕の地」の記念碑建立

参考事項1:衛戍地である東京を、朝敵とされた旧伊予松山藩出身者の、秋山好古・仙波太郎・久松定謨の3名が守護した。予測していなかった事で驚いた。

ここで三名のことについて少し触れてみる。
先ず、
大正4年2月15日付 発令
秋山好古が近衛師団長として任命された。近衛師団は、天皇と宮城(皇居)を警備する師団で、一般の師団とは異なり、部隊は最新鋭、最古参の儀仗部隊で、秋山好古はそのトップに就いた。

大正4年2月15日付 発令
仙波太郎が第一師団長として任命、当時6師団中で近衛師団部隊に次いでの精鋭隊員の師団として首都東京を護った。

大正4年5月11日付 発令
久松定謨は、近衛兵第一連隊長として、天皇と宮城を護り抜いた。

伊予松山藩は朝敵とされ15万両の制裁金の上納、旧藩主、久松定謨の爵位は本来なれば侯爵であるはずが、朝敵であったがために伯爵止まり。しかし大正4年、摂政宮時代である東京を朝敵とされた伊予松山の、久松定謨・秋山好古・仙波太郎の3名が護ったのである。
この3名は、明治維新の時、朝敵の汚名を被ったがこれでようやく汚名を返上出来たと久松家で祝杯を上げ喜んだそうだ。しかし、秋山好古・仙波太郎共に親藩、朝敵の出身者が故に身分の昇進が遅れていた。

画像は、左から、秋山好古(近衛師団長)・久松定謨(近衛第1連隊長)・仙波太郎(歩兵第1師団長)

大正4年久松家の法要時に撮った集合写真を切り抜いたもので、この時代久松定謨の横に座れる人物は秋山好古と仙波太郎しかいなかった。

                「星岡表忠之碑」

松山市星岡町にある星岡山山頂に「星岡表忠之碑」が建立されている。揮毫は、二品伏見宮貞愛親王で石碑は、明治16年に中尉となった仙波太郎が故郷の星岡山に土居通増・得能通綱らの奮闘の生涯を永遠に伝えるために松田通博・吉田格堂・鈴木安職らの有志と謀って土居・得能氏の古戦場に「星岡表忠之碑」を建設した。
「星岡表忠之碑」右側に、建立発起人 陸軍中尉 仙波太郎・松田通博・吉田格堂・鈴木安職、鴻田佐太郎の各位の氏名が刻まれている。

            「仙波太郎生誕の地」記念碑建立

「仙波太郎生誕の地」記念碑建立除幕式に参列した関係者。
記念碑・仙波太郎生誕の地の揮毫は、温泉郡久米村大字高井出身(現在・松山市高井町)の元郵政大臣、桧垣徳太郎氏である。

記念碑は、昭和49年4月25日、松山市福音寺町にある福音寺公民館に「仙波太郎生誕の地記念碑」が建立され除幕式が行われた。公民館の敷地は、仙波太郎が生誕した屋敷跡で、此処に「公正会堂」と命名され、福音寺町に寄付され福音寺町の社会教育推進活動拠点として使われた。

参考事項1:仙波太郎と深い親交にあった木原さんが書かれた仙波太郎の手記の一部を別記する。

仙波太郎は、松山に帰っても家がなかったので宿は木屋町一丁目の木原家で、帰った時は大抵1ヶ月位は滞在し家族同様にして過ごした。・・中略・・軍を離れたはじめの頃は満州や支那にもよく行っており帰りに松山で疲れた身体を休めていた。そして揮毫をよくするので父はその墨をするのに汗だくであった。鍾馗と達磨が得意で5分間くらいで書き上げるので驚きの目で見ていた。中略・・秋山好古が松山に帰れてからはよく訪ねて来られ「ワシ」「オマエ」の仲で昔話を楽しんでおられた。松山高等学校のストライキが起こりかけた時も丁度仙波が来ていて、北豫中学校長であった秋山好古と香坂県知事の三人で木屋町の我が家で密談をしておられ、ストライキは不発に終わった。

「これが仙波の帰松最後の事件であったかもしれない」・・と書かれている。

昭和3年か4年頃、仙波から今年も又そのうちに帰るからその前に福音寺に持ってゆくお地蔵さんを送るから受け取っておいてくれと連絡があり、着いたのは小さなお地蔵さんであったが首が落ちていたので母が何か悪い予感がすると心配したが、予感通リそれが最後の帰郷計画になってしまった。お地蔵さんは久米の福音寺に送ったが今は何処にあるのか時々考えることがある。尚どうしたわけか知りませんが千舟町の白石写真館で撮った仙波太郎の写真が手元にありますので司馬遼太郎の記事を機に写真と共に古いとりとめのない思い出をまとめた次第です。しかし何分にも古い事ですので思い違いがありましたらお許し下さい。・・

以上の様な

木原さんの手記があった。

松山平野で、記事の中に出て来る星岡山と土亀山の位地を確認のため掲載した。

土居・得能氏の古戦場の「星岡表忠之碑」があるのは、星岡山で、仙波太郎の墓所は、土亀山にある。天山は、奈良県の天香久山と姉妹の山として有名である。

また加藤嘉明が松山城築城のとき徳川家康に築城候補地第1番に候補地に選んだ山である。築城候補地第2番候補地に選んだ山が勝山(現在の松山城)築城候補地第3番候補地に選んだ山は、御幸寺山であった。家康は築城許可地は申請の2番目の地に許可が下りていたので嘉明は勝山に築城したかったので2番候補地として申請した。

松山市教育委員会設置の「星岡古戦場」説明板。

 松山市福音寺町「土亀山」にある仙波太郎中将の墓。

土亀山に付いて、正岡子規の俳句があり句碑が建立されている。

「凩にはひつくばるや土亀山」明治25年 終わりの冬、に詠んだ句である。

仙波太郎は、夫人の郷 岐阜市加納町で死去した。福音寺の墓は分骨である。生前墓は、大きな墓石にするなと言われたので先祖の墓石とほぼ同じ大きさである。

軍人の墓石は、肩書入りの大きな墓石であるが、秋山好古も墓石は家族と一緒「秋山家」の墓で眠っている。仙波も、秋山もよく似たものだ。

昭和49年、仙波太郎の長男、仙波正、孫の仙波昭が建立した「仙波家墓所」の石碑。

             仙波太郎中将の先祖代々のお墓

仙波太郎の一族は松山には居ないので、時より岐阜市から墓参りに来ている。そして秋山兄弟生誕地に寄って帰るそうである。

昭和46年4月1日、私が陸上自衛隊松山駐屯地の資料館に寄贈した仙波太郎の写真である。

画像は、私が福音寺公民館に掲示してあった仙波太郎の写真を複写し、パネルに仕上げて、陸上自衛隊松山駐屯地に寄贈、駐屯地の資料館に展示してある。

(平成17年6月1日確認のため撮影:広報担当自衛官の許可を得て)

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