弘前城天守。
現存12天守は、近世安土桃山時代から江戸時代に創建された建造物で、信長が創建した岐阜城、安土城に付いては天主と呼ばれ、秀吉以降は天守と呼ばれている。
最近女性の観光が盛んになり、山ガール・御朱印ガールと言った言葉をよく聞くこの頃で、城好きな女性たちを「城ガール」と言った言葉を耳にする様になった。松山城でも女性の見学者が多く、中には日本100名城巡りのスタンプ帳持参で来られている。城ガール「行ってよかった日本の城」トップ20の中に伊予松山城もランクされています。
平成18年2月、日本城郭協会から、日本100名城が指定発表され、翌19年に100名城スタンプラリーが設定開始され多くの城好きの人々が全国の城郭に直接足を運び、自分の目で確かめ往時を偲んでいる。また現在全国に、現存天守を初め、木造復元天守、外観復元天守、復興天守、模擬天守、天守風建築物が114棟がる。100名城指定外にも優れた城があり外国人の観光者も城巡りを楽しんでいる。
昨日(9月3日)、埼玉県さいたま市から女性二人、御朱印ガール&城ガールが観光旅行に来られ、伊佐爾波神社と道後湯築神社をご案内し御朱印を受けていた。
私は、現在85の城郭を巡っていますが、その回顧として先ずは現存12天守を北から巡ってみます。
平成20年5月8日・9日、に伺いました。
弘前市観光協会さんに申請しガイドさんをお願いしました。協会さんは四国伊予松山からお越しになられるので一番詳しいガイドを紹介しますと言って頂きました。右の方がそのガイドさんで詳細な案内をして頂きました。その節は大変お世話になりました。お元気でご活躍の事と存じます。
弘前城はさくらの名所で有名ですが、私は敢えてさくら祭りを避けて祭りが終わった後に伺いました。
弘前城天守は、慶長15年5層の天守を、津軽信枚が築城、城は岩木川の河岸段丘を利用した平城であったが、寛永4年(1627)落雷により焼失、文化7年(1810)幕府の許可を得て辰巳櫓を御三階櫓に改築、一時期は奥州の旗頭として東北15藩を支配下においたそのシンボルの天守である。石高は10万石であった。
天守の形式は、独立式層塔型3層3階である。
弘前天守正面で私が伺った時は中学生が修学旅行に来ていました。
ソメイヨシノ桜の花は散っていましたが、普賢象(ふげんぞう)桜が満開でした。
私が伺った時は天守台の石垣が孕み、天守が傾いていました。ガイドさんは、天守を天守台から曳き石垣の修復をする予定ですと説明を受けた。明治時代にも石垣の修復をしたが、曳いた天守を天守台に返す事が出来なく、盛岡連隊の陸軍工兵にお願いして元の位置に返したそうです。
現在天守台の修復最中で、石垣解体修理工事の完了は平成38年頃になる見込みだそうです。
弘前城天守内部に入ってみましょう。現存12天守の内11天守は、土足禁止ですが、弘前城は土足が許可されています。画像の様に床、階段全てビニールシートが敷かれています。
このビニールシートは、一つシーズンで擦り切れてしまうそうです。
天守最上階で、ガイドさんがゴルフボールを取り出し床に置くと、堀の方角にボールは転がりました。それは天守台の石垣が孕みその分天守が傾いている証拠ですと言われた。石垣の修復工事をする予定ですと説明を受けた。
天守最上階には弘前城の模型がありました。
天守最上階で見た落書きの多い事にビックリしました。
重要文化財の建造物にこんなに落書きを見るのは初めてでした。伊予松山城には落書きは無いです。
案内して頂いたガイドさんも、本当に嘆かわしい事ですと言われた。
城門の扉にも落書きがありました。
天守の瓦です。弘前城の瓦は、銅板で包んでいました。それは、弘前は冬季気温が下がり普通の瓦だと凍結して割れてしまうので、凍結防止のための工夫だそうです。
福井県丸岡市の丸岡城天守の瓦も凍結して割れるので、石瓦でした。
弘前城から見た岩木山、青森県最高峰の山で、1625mあります。未だ雪がありました。
天守台とその周辺の石垣修復工事が始まり、天守を天守台から曳く作業です。
現在は工作機材が発達しているので明治時代に行われた作業より楽に出来ると思います。
弘前城には、日本最古のソメイヨシノ桜が生息していました。
ソメイヨシノ桜は人工的に作られた桜で、寿命が長くとも80年と言われていますが、弘前城の桜は、明治15年に植栽された日本一の長寿のソメイヨシノ桜で説明版には、幹周:5,37m 樹高:10mと書かれていました。未だ元気でいれば今年135年になります。
弘前城の南入口です。
弘前城は二日掛けて散策しました。一日目は一人で、二日目はガイドさんの案内を受けての探訪でした。経路は、松山から空路羽田経由青森空港、帰りは新幹線で陸路で帰りました。