画像の石碑は、昭和5年3月、伊予松山の、北豫中校長を辞任し東京に帰り揮毫した「軍馬慰霊之碑」で、昭和5年11、現在の陸上自衛隊習志野駐屯地に建立された。
坂の上の雲画像で辿る軍郷の街習志野市大久保、最後は陸上自衛隊習志野駐屯地にある、秋山好古絶筆となった石碑、御馬見所「現・空挺館」その内部を見てみる。
最後になったが習志野の地名の由来を見てみる事に・・
千葉県の北部に位置する習志野は面積約21平方キロメートル、人口約17万人の自治体で、船橋市、千葉市、八千代市に隣接し、南は東京湾に面している。市立習志野高校が甲子園で活躍し過去に全国制覇を二度達成し、今では全国でも習志野と言う地名が良く知られるようになった。
ところでこの習志野は誰が何時名付けたのか、習志野命名の由来は複数あるが、有名な説がある。
明治新政府は、明治6年徴兵令を発布、同年4月29日、16歳で即位し22歳となった明治天皇のご臨席を仰ぎ当時大和田原と呼ばれていた現在の習志野で陸軍近衛兵天覧大演習が実施された。この演習は当時の長州、薩摩、土佐の近衛部隊四個大隊2800人を紅白に分けて総軍演習で陸軍大将・西郷隆盛が天皇の案内役として陪席し行われた。その壮観な部隊の訓練を観閲された明治天皇は演習終了後今までにないきびきびとした秩序ある素晴らしい演習であった。本日の指揮官は誰ですかと西郷隆盛に伺うと指揮官は、篠原国幹指揮官であります。すると明治天皇は、今後篠原に見習えと述べられた事から「習へ篠原」習志野と言う地名が誕生した。船橋市薬円台にある船橋市資料館前に「明治天皇駐蹕之の碑」として残っている。(秋山好古と習志野から引用)
昭和11年11月1日秋山好古大将伝記刊行会が発行した「秋山好古」の書籍で背文字は、昭和5年10月5日、「軍馬慰霊之碑」を揮毫した時の署名「秋山好古」を写したものである。
画像の石碑は、昭和5年3月、松山市の、北豫中校長を辞任し東京に帰り揮毫した「軍馬慰霊之碑」で、好古が入院直前、昭和5年10月5日の筆で此れが秋山好古の絶筆である。昭和11年11月1日秋山好古大将伝記刊行会発行「秋山好古」の背文字は、その署名を写したものである。
昭和5年11、現在の陸上自衛隊習志野駐屯地に建立された。
習志野市学園大久保商店街の資料館で習志野騎兵史跡保存会会長さんの講和を聞き研修資料を頂き現地に伺った。
秋山兄弟生誕地で奉仕として活動している研究員が特別研修として伺った習志野陸上自衛隊駐屯地を習志野騎兵史跡保存会の皆さんと、陸上自衛隊の広報官の方々が隊内を案内して頂いた時の画像です。
隊内に在る記念碑「日本騎兵之碑」
記念碑の説明板
御馬見所「現・空挺館」
戦後進駐して来た米国陸軍に接収され、司令官の宿舎として使用されその形跡が現在も残っていた。
御馬見所「現・空挺館」の説明板
御馬見所「現・空挺館」のバルコニー内部、この部屋から明治天皇は演習等々を観閲された。
バルコニー内あった椅子の説明板
御馬見所「現・空挺館」内に秋山好古が、長男信吉と家族に送った手紙。
好古は筆不精と言われていたから貴重なものとして展示してある。
御馬見所「現・空挺館」2階に在る歴代の騎兵学校長の写真、第2代目校長として好古の写真が掲示してあった。
習志野陸上駐屯地見学の後、習志野騎兵史跡保存会の皆さんに案内していただいた所で、秋山好古が騎兵第1旅団長時代に居住していた場所で、現在は画像のようになっている。この後、東京の青山霊園に眠る秋山好古の掃苔をして松山に帰った。今回研修で指導して頂いた関係者の皆様のご厚意に感謝いたします。
秋山兄弟生誕地を訪れて頂く方々に研修で知り得た知識を元にして適切なご案内が出来ております。
改めて感謝いたします。
帰りに東京の青山霊園にある秋山好古のお墓をお参りして研修の最後とした。
秋山好古は生前、家は要らぬ、墓も要らぬ、銅像等も創らない事と言い残し亡くなった。大将になっても借家住まい、お墓も秋山家のお墓に家族で一緒に眠っている。
好古の信条「簡単明朗質素倹約」であった。大正13年から昭和5年3月まで北豫中学校校長時代、東京に奥さんと子供さんを残し、一人で松山で生活した。
好古は、教師として社会に出発し軍人としての生活は長かったが最後は幼少時の志として生きて来た。
最後もう一度教壇に立って往生していと思っていたところが郷里の松山から北豫中学校校長の要請があり故郷の青少年の教育の発展に尽くした。
母親、貞の教え「大きくなったら、世の為・人の為・故郷の為に尽くせる人となるように」の教えをその通り生きた72年であった。
そして馬を大切にしたそうです。