平成17年8月13日、愛媛県2区から選出している衆議院議員、第3次小泉内閣で内閣府特命担当大臣であった村上誠一郎国会議員が秋山兄弟生誕地に来られた。
ご本人によれば、戦国時代に名を馳せた村上水軍の子孫で18代目だそうです。
衆議院議員、無所属の会の岡田克也氏は義弟で、国会では野次将軍と呼ばれるほど熱い方です。
秋山眞之の胸像に立たれた村上誠一郎議員。
秋山家も祖先は村上水軍の一族と言われており、秋山眞之が日本海海戦時に戦法の一つに用いた丁字戦法は村上水軍が使っていた戦略である。村上誠一郎家と秋山家は関係があるのかも?
秋山兄弟生誕地裏庭に建立されている大きな記念碑がある、その横にも村上議員は立たれた。
題額は「秋山両将遺邸之碑」と揮毫されている。
揮毫者は、陸軍大将・南 次郎である。
「秋山両将遺邸之碑」で、題額を揮毫したのが陸軍大将南次郎で、建立は、昭和12年7月秋山両将遺邸保存会が建立、碑文は井上要撰書である。
秋山両将遺邸之碑
1.碑 文 : 別途説明(碑文の要約等参照)
撰文、井上 要
2.所 在 地: 松山市歩行町二丁目3番地6、秋山兄弟生家裏
3.揮 毫 者: 題額、陸軍大将南次郎
撰文、井上 要
4.建 立 者: 記載無し
5.建立年月日: 昭和12年7月 秋山両将遺邸保存会
6.碑石大きさ: 高さ2m70㎝ 横幅1m50㎝ 厚さ30㎝
7.石碑の由来: 井上要他秋山兄弟と深い関わりのあった人たちが後世の人々にその功績を伝えるために建立した
8.題額を南次郎に揮毫依頼した経緯は不明
碑文
陸軍大将従二位勲一等功二級秋山好古君海軍中将従四位勲二等功二級秋山眞之君兄弟生誕ノ地タル松山城東中歩行町ノ邸宅ハ天保年間考久敬翁ノ構築ニ係リ環堵蕭然トシテ素朴ヲ極ム大将ノ晩年帰リテ北予中学校長ノ任ニ就クヤ旧屋中ニ起臥シ僅ニ墻壁ヲ修治セシノミ今ヤ両将既ニ館ヲ捐ツ遺邸ノ漸ク朽廃ニ帰セントスルヲ憂ヒ同志ノモノ其保存ヲ計ラントスルニ際シ久松伯爵及ヒ山下亀三郎新田長次郎氏等資ヲ投ジテ之ヲ助成シ旧邸ヲ購ヒ修補ヲ施シ且両将ノ遺品ヲ蒐集シテ永ク其徳風ヲ傳ヘントス而シテ其保護管理ハ挙テ松山同郷会ニ託シタリ同会ハ青年教養ノ為メ中将ノ創設セル所ニシテ大将モ亦曾テ舎長タリシヲ以テナリ是ニ於テ同会ハ更ニ其西隣ノ地ヲ求メテ会館ヲ移シ以テ旧邸管理ノ任ニ便スルコトヽセリ若シ夫レ両将ノ人格勲業ハ赫々トシテ人ノ耳目ニアリ復タ縷説ヲ要セザルナリ
昭和十二年七月 秋山両将遺邸保存会 井上要撰幷書
碑文の要約
秋山好古、秋山眞之両将軍の旧邸は、天保年間、父久敬翁がこの地に建立したと伝えられる。
兄弟はこの質素な家に生まれ育ち、好古将軍は退役後ここに住み北豫中学校の校長として子弟の教育に尽した。
秋山兄弟はすでに亡くなられたので、兄弟とゆかりの深い伯爵久松定謨、山下亀三郎、新田長次郎らが資金を集め西隣地も購入し、その管理を常盤同郷会に委嘱した。
両将軍の功績は、あらためて記す必要のない程偉大であり、誰もが知るところである。
昭和12年7月 秋山両将遺邸保存会 井上 要
秋山両将遺邸之碑に記載してある人物紹介
1. 陸軍大将南次郎
明治7年年8月10日~昭和30年12月5日、81才没、大分県豊後高田市生れ、陸相、朝鮮総督、貴族院議員、A級戦犯となる
2. 陸軍大将秋山好古
安政6年1月7日~昭和5年11月4日、71才没、松山藩士秋山久敬3男、北予中学校校長は大正13年4月~昭和5年3月、墓所は青山霊園(松山市鷺谷共同墓地は分骨)
3. 海軍中将秋山眞之
慶応4年3月20日~大正7年2月4日、49才没、松山藩士秋山久敬5男、明治20年松山同郷会を結成、明治23年海軍兵学校を首席で卒業、明治38年連合艦隊首席参謀、墓所は鎌倉霊園
4. 伯爵・久松定謨(さだこと)
慶応3年9月9日~大正18年2月19日、75才没、松山藩最後の藩主(定昭)の嗣子、陸軍少将、 東京に学生寮「常盤舎」を設立、大正10年松山城の麓に萬翠荘を建築、模範農園を設置、伊予松山城存続に尽力 久松家第17代当主
5. 山下亀三郎
慶応3年4月9日~昭和19年12月13日、77才没、元宇和郡河内村出身、明治15年上京し明治法律学校に学ぶ、実業家、山下汽船創設者、参議、山下実科高等女学校(現吉田高校)、第二山下実科高等女学校(現三瓶高校)を設立
6. 新田長次郎
安政4年5月29日~昭和11年7月17日、79才没、元温泉郡山西村出身、実業家、明治18年製革業を創業、明治35年緑綬褒章を受章、明治44年大阪市難波に私立有隣尋常小学校(現、大阪市立栄小学校)を設立、大正12年私立松山高等商業学校(現、松山大学)を設立、温山と号す
7. 井上要
慶応元年5月5日~昭和18年3月18日、77才没、元喜多郡菅田村出身、実業家、有友兵衛の長男として生る、明治16年井上コンの養嗣子となる、明治18年独学して代言人試験に合格、明治21年東京専門学校(早稲田大学)に留学、明治39年元伊予鉄道社長、明治23年県会議員、同年12月同議長明治35年衆議院議員、明治36年11月愛媛進歩党を結成、大正2年伊予水力電気会社社長を兼務して大正5年伊予鉄道会社と合併、昭和2年松山商工会議所会頭、昭和8年69才で伊予鉄道電気会社会長と松山商工会議所会頭を辞職、退職金を県立図書館建設資金に寄贈、伊予教育義会会長、北予中学校理事、松山高等商業学校理事、道後グランドを造成、伊予史談会を援助、高浜不去庵で悠々自適の生活、徳富蘇峰の撰になる頌徳碑は梅津寺公園にある。秋山好古を北豫中学校校長に就任以来した
以 上
南 次郎は、(明治7年8月10日生まれ、昭和30年12月5日没、81歳) 最終階級は陸軍大将。大分県速見郡日出町の出で、南次郎が最も慕ったのが、秋山好古大将で、日露戦争の時秋山好古は騎兵第1旅団長で、その傘下に南次郎連隊長の第13連隊があり、最も実践向きの猛者揃いであった。
先の大戦、大東亜戦争後A級戦犯として東京裁判にかけられ,終身刑の判決を受けた。東京巣鴨拘置所獄中時に大病を患いGHQの特別な計らいで出所が許可され自宅療養が許され鎌倉の自宅で逝去、81歳であった。
また、千葉県習志野市にある東邦大学構内に南次郎揮毫の立派な石碑が建立されている。東邦大学は騎兵第13連隊の跡地である。
南次郎の墓。・・平成26年6月21日撮影
南次郎の本籍は、日出町にあり、暘谷学校(現在の日出小学校)を卒業、家は旧藩政時代のご用人の家系であった。
大分県速見郡日出町神田(以前は日出塔の平と言っていた)、神田団地の傍に南次郎の墓がある。
陸軍大学校58期生、終戦時少佐、嗣子は鎌倉在住。秋山好古は陸大第1期生である。
千葉県習志野市、東邦大学構内にある南次郎が揮毫した石碑で、六角柱の立派な碑である。
平成21年8月24日東邦大学許可を得て撮影。
東邦大学は騎兵第13連隊があった場所である。
なお、習志野市には、騎兵第13・14・15・16連隊・騎砲連隊、その北に陸軍衛戍病院があった。現在13連隊跡に、東邦大学、14連隊跡に、日本大学生産工学部、15連隊跡に、東邦大学付属東邦中・高等学校、16連隊跡、は空き地、騎砲連隊跡は順天堂大学(現在は印西市に移転)その跡はマンション群となり、陸軍衛戍病院跡は済生会習志野病院となっている。東邦大学構内には、13連隊当時の建物が一棟現存しており、大学では永久保存する事が決定している。現在は、当大学の柔道部・空手部の武道場として使用している。
習志野市にある東邦大学構内には、13連隊当時の建物が一棟現存しており、大学では永久保存する事が決定している。現在は、当大学の柔道部・空手部の武道場として使用している。
平成21年に地域の街おこしの一環として、周辺に残る陸軍由来の歴史的事物の調査を開始したところ、上記の経緯をもとに本建築物が本格的な調査の対象として浮かび上がった。
そこで、東邦大学付属東邦高校の考古学研究会が中心となり、建物周辺の発掘調査を主とする周辺確認調査を行い、事実を確認した。同大学は、文化財の価値ありとして永久保存管理する事を決定した。
習志野市騎兵連隊史跡保存会もこの事に協力していく方針だそうです。
- 築年月/明治33年12月
- 構 造/木造、切妻造平入、波板鉄板葺、小屋組は木造トラス
- 大きさ/梁間5 間×桁行10 間
- 建物用途/騎兵第十三連隊、十四連隊共用の用材庫
習志野市、東邦大学(旧騎兵第13連隊)構内に旧騎兵連隊当時の兵舎の内部で現在は、同大学の空手部・柔道部の道場として使用している。
平成25年10月31日、東邦大学の許可を得て撮影。
秋山好古騎兵第1旅団長時代の騎兵連隊。
秋山好古騎馬像の前で、左から、平松昇常盤同郷会理事長、村上誠一郎議員、宇都宮良治常盤同郷会常務理事。
秋山眞之胸像の前で、左から、宇都宮良治常盤同郷会常務理事、村上誠一郎議員、平松昇常盤同郷会理事長。
秋山兄弟生誕地を視察され帰られる、元内閣府特命担当大臣であった村上誠一郎国会議員。
村上誠一郎国会議員の目線の先には、秋山好古騎馬像がありそれを見られる村上誠一郎議員。