回数は少ないのですが、網走市内の文化施設を巡るバスが運行されています。
オーロラ号を下船して「オホーツク流氷館」へ行くつもりでしたが、バスの時間と道順を考えて、先に「博物館網走監獄」に行くことになりました。
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バスを降りて、網走川にかかる鏡橋を渡ると、一面の雪景色、
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チケットを買って、中に入ります。
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雪の中に立つ建物は教誨堂です。
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博物館の中に入ると、中央見張りを中心に、
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5棟の舎房が放射状に広がる五翼放射状平屋舎房、明治45年に建てられ、昭和59年まで使われていたそうです。
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向かい合う房と逆に斜めに格子が組まれた斜め格子やくの字格子で互いの中が見えないように作られています。
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明治23年、過酷な中央道路開削作業のため、人口631人の網走に囚人1,200名と看守173名が送り込まれました。
5.4m幅の道路を通常の4倍のスピードで完成させることを求められ、巧妙な組織管理の下、長時間労働、夏場の長雨と栄養失調による水腫病(脚気)の大量発生、原始林を切り拓く危険な作業の連続、冬の厳しい寒さなどが彼らの命を脅かし、平均で工事区間700mに1人の割合で犠牲者を出すという悲惨な結果を生みました。
228km
網走から旭川中央道路全距離。そのうち網走外役所の担当は北見峠までの163km。
約8ヶ月
網走外役所が担当した163km開削の完成までの期間。
1,115人
網走から北見峠までの開削工事に出役した囚人の人数。網走外役所に送られた囚人のうちほとんどがこの過酷な工事に携わった。
211人
網走から北見峠までの開削工事で死亡した囚人の人数。
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時折吹雪きましたが、各施設を廻ることができました。
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気温はマイナス3度、それほど寒くはなく、バスの時間をみて、次の「オホーツク流氷館」に向かいました。
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博物館のパンフレットより
網走刑務所は日本一有名な刑務所です。人々が抱いているイメージは凶悪犯の集まる最果ての刑務所、それは網走番外地の映画の大ヒットによるものです。
しかし、130年前、樺戸集治監をはじめ、北海道開拓のために多くの囚人が送られ、その開拓労働の犠牲が網走監獄を日本一有名な刑務所にしたという事実を知る人は少ないのです。
博物館網走監獄は北海道行刑という明治の黎明期に忽然と現れ、その役目を終え、消え去った行刑の歴史と彼らが暮らした証である行刑建築物を文化財として保存公開し、体感歴史館とともに語り継いでいくことを理念とする博物館です。