私は最近難病の海老原宏美(1977年神奈川県出身)さん著書「わたしが障害者でなくなる日」(2019年旬報社発行)に出会った。私が中途障害者になって10年超経過していた。本を開いた途端、衝撃を受けた。誤解無きことを祈りながら、一言で述べると、彼女の主張は、「私は難病なの。でもね、病気と障害は違うのよ。障害はネ、あなたのせいなのヨ」の通りである。
そこで、私が障害者と呼ばれることになった時には、どんな気持ちだったか?当時投稿した原稿を引っ張り出した。私は原稿の中で、「①障害者になったのは自分の不摂生である」、「②障害者は健常時に戻るべく努力しなければならない」というスタンスで一貫していた。その状況で海老原さんの主張に刺激を受けそれ以降「障害理解」について勉強している。
ここでは、10年前に私が考えていたことをエッセーから抜き出して3回に分けて公開します。今回は3分割のその3(最終)です。
エッセー「脳卒中後遺症の受容と回復」(3分割のその3)
ライフワークにしていたボランテアの異業種交流コンサルタントや趣味の詩吟同好会には従来通り参加した。ほぼ毎週定期的に出席することで行動リズムが出来上がり、少しずつ社会参加している実感も得ることが出来た。健常時何の制限も無い活動から真逆の別世界に落ち込んだ訳であるが、私は障害者になって思うことは健常時のままだったら既存の枠を出て自分から別世界に対し「相手の悩みを聞き気持ちを和らげてあげる」ことは多分無かったと思う。身体のどこか一つ不自由があるだけで他人への優しさ・思いやりがこれ程変わるものかということを肌身に感じ、私自身が逆に助けられていることで受容・回復につながっていると思う。
「みんな違ってみんな良い」という金子みすゞのメッセージ「私と小鳥とすずと」を詩吟大会で独吟し、詠い終った際に感無量の中で自然とお礼の言葉が出た。健常時のイメージを常に持ち続けることによって「中小企業再生へのお手伝い」のテーマの実現もレールに乗せることが出来そうである。発症から2年半の一行日記を読み返すと、私は月日の経過と共に少しずつではあるが回復している。6ケ月の壁は必ず越えられると思って行動してきた。今後もそのつもりである。自分への戒めは「健常時のイメージを描き両手両足で行動する」、「積極的に社会参加し全てを共有する」そして「後遺症に負けそうになると自分を鼓舞する」である。
このシリーズはこの3回目で終わります。
この原稿は約10年前の発症して1,2年後の気持ちです。海老原さんの本を読んで、彼女の主張を受け入れながら、障害理解を勉強している現在、まっさらな状態で「障害の受容と回復」でエッセーを書くとどんな作品になるだろうか?
ご感想をこのブログにお待ちします。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます