私は公益社団法人日本吟道学院認可修神会の会員です。
日本吟道学院では年に2回昇段審査があります。
本日は奥伝昇段課題吟「自然と人生 徳富蘆花」(吟者:指方龍順)を参考に公開します。
この様子をご覧になった方が、少しでも詩吟へ
参加してもらえるとうれしいな~と思って、ブログで発信しています。
奥伝昇段審査「自然と人生 徳富蘆花」
奥伝昇段審査課題吟「自然と人生 徳富蘆花」
自然と人生 徳富蘆花
家は十坪に過ぎず 庭は唯三坪 誰か云う 狭くして且陋なりと
家陋なりと雖も 膝を容る可く 庭狭きも碧空を仰ぐ可く
歩して永遠を思うに足る 神の月日は此処にも照れば
四季も来たり見舞ひ 風、雨、雪、霞 かわるがわる到りて興浅からず
寵児来たりて舞ひ 蝉来たりて鳴き 小鳥来たり遊び 蟋蟀また吟ず
静かに観ずれば 宇宙の富は 殆ど三坪の庭に 溢るるを覚ゆるなり
昨日から続きます。
私は会合に参加する度に「私に3分間詩吟をさせて下さい」と言って
了承が得られたらその場に相応しい吟を詠じることにしている。
吟道範典には吟譜と同時に音譜・アクセントが附記されているので、
一度声調を会得すれば、殆どの吟に対応できる様になり面白いのである。
だから詩吟は気嫌いせずに一段階段を上りさえすれば
その段差はわずか一段だけど遠くまで見通せるステージとなる。
「詩吟とは何ですか?」という質問に答えるつもりで書き連ねてきた本編も終りに近づいてきた。
「何の為に詩吟しているの?」という問いには、私は吟を通して「感動を与えたい」と考えているが、未だ実現していない。
私が詩吟に満足感を得ながらも、最初から何となく観客との隔たりを感じていた。
共感が得られていなかった。私は言葉がはっきりと聴き手(観客)に伝わっていないと思った。
素晴らしい感動ある詩を、吟を通じて伝え様としているのに、
言葉の難解さがあるのかもしれないが、伝えきれていないと思った。
それが隔たりである。
習いたてに始めた「川中島」は、「一句七言」で、「(2字・2字・3字)・・・構成され、節調子は、「(静・静・動)・・・」と続いている。
この吟情を想い、その風景の中にたたずんでいる気分になるまで詩文を覚えてしまうと、
気分がますます高まり、自分が謙信になって、信玄に刃を向けた気になるから是非体感して欲しい。
そのような感動を与えたいのである。
子供の頃夢中になったことを思い出す。
田舎の故郷で、近くの広場にかみしばい屋が拍子木を叩きながらやってきたことを思い出す。
かみしばい屋が恐ろしい場面で声を荒げると私たちは息をのんだ。
危機を脱すると私たちはほっと胸をなでおろした。
語り手と聞き手はその両者の呼吸で、伝え・受け止め同じ場の空気を共感していた。
そのような共感を詩吟に求めてきたわけである。
是非一緒に好きな詩文で共感しませんか。
皆様のご参加をお待ちしています。
この38回でこのシリーズはオシマイです。
約2ヶ月弱お付き合い頂きありがとうございました。
(指方龍順)これでオシマイ。おわり。
昨日から続きます。
私は『感動』については次の様に考えている。
「坂の上の雲」の中で考えたい。
広瀬武夫海軍少佐は日露戦争の際に旅順港出入口閉塞作戦を考えた。
敵艦を旅順港内に封じ込めて出入出来ない様にする為、
自らの艦を旅順港出入口の海底に沈めて閉塞する戦術を自ら立案し、
夜陰をついて杉野兵曹長らと行動を共にした。
広瀬少佐は旅順港で自爆自沈した後、
隊員らと救命ボートに乗り移り逃げ帰ろうとした時、
ボートに杉野兵曹長の姿が見えないのに気付き、
部下の止めるのも聞かず、沈み行く艦に戻り、「杉野!!杉野!!」と艦内を隈なく探し回った。
しかし、杉野兵曹長の姿は無く、止む無く艦上に出た所、
露軍のサーチライトに照らし出され、砲撃の目標となって、
集中砲火を浴び、壮烈な戦死を遂げたと記している。
その壮烈な有様を如実に映し出した「杉野!!杉野!! 汝何くに在る・・・」
で始まる鈴木豹軒作「広瀬武夫」という詩がある。
この詩を吟じる時、広瀬武夫が幹部として取った行動を肯定的に賛美するのか、
二度とあってはならない反戦の気持を持って否定的に愛惜の情を込めて吟じるのかでは聞く者の受け取り方は全く異なる。
私は常に自分の気持ちを出す様に心掛けている。
この同病会の席で吟じる時は、特にその様に想い、聴き手も同じ空気を吸ってくれている感覚を感じる。
お互い予期せぬ同じ境遇というたったそれだけのことが
気持ちの高揚と一様性を与えてくれているのだから、不思議なことである。
明日へ続きます。
昨日から続く。
『感情』を込めることにおいて少し追記したい。
私は小林一茶の俳句「すずめの子」を吟じることがある。
「すずめの子 そこのけそこのけ お馬が通る」と吟じていくと、
私がまだ幼児の頃、祖父母の山間の実家の広い庭で
放し飼いのニワトリを追いかけながら竹馬で遊んだ情景がいつも頭の中に蘇ってくる。
懐かしい限りである。祖父母も逝き、その庭は高速道路になり、すっかり様変わりであるが、
当時の情景は切り取られた一コマとして脳裏に残っている。
普段はその一コマは出てこないが、「すずめの子」を吟じる時だけ現れてくる。
誰にでもきっとその様な体験があるでしょう。
この様な気持ちになれることが、きっと『心にしみ入る吟詠』あるいは『時を越え、
今もなお心に蘇りくる吟詠』と呼ばれるもので、それが真に吟道精神そのもので『気』なのであろう。
『気』とは、吟じる詩文に関係なく、
全てに通じてその込められた迫力を持って喜怒哀楽を表現することであると解釈している。
私も『気』を心身で感じ、外部へ影響出来る様に自信持って言動をおこしたい。
明日に続きます。