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六世紀後半に 『ピラミッド状』 の 墳丘墓 蘇我稲目の墓?

2014-08-14 20:58:31 | 社会
2014年8月14日(木)

 きのうから、TVニュースなどで報道されていたが、きょうの西日本新聞に掲載。







 奈良県 明日香村で以前より地元では知られていた古墳が調査により
『ピラミッド状』 の 墳丘墓であったらしいことが解ったと云う。

 大きさは、ピラミッドには遥かに及ばない 「40m四方」 ほどではあるが、
考古学的には大発見だとのこと。

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 都塚古墳「古代飛鳥の歴史解く発見」 石舞台もピラミッド状?
 (産経新聞)- 2014年8月14日(木)07:57
 

 13日、国内で例のない階段ピラミッド状の巨大方墳と判明した奈良県明日香村の都塚(みやこづか)古墳。被葬者は、古代朝廷の実力者・蘇我馬子(そがのうまこ)の父、稲目(いなめ)である可能性が高い。稲目は歴史上では馬子ほどメジャーではないが、天皇家との姻戚関係を確立、蘇我氏の隆盛の基盤をつくった人物だ。今回の調査によって、馬子の墓とされ、上部構造が不明だった石舞台古墳(7世紀前半)についても、同じ形だった可能性が出てきた。



                   ◇

 飛鳥時代初期(6世紀後半)の都塚古墳は、馬子の墓との説が強い石舞台古墳の南東約400メートルに位置。近くからは蘇我氏の邸宅跡とされる大型建物跡も見つかっており、周辺は蘇我氏の拠点とされる。日本書紀によれば、6世紀当時は、稲目(570年没)が実力者として活躍し、その後馬子、蝦夷(えみし)、入鹿(いるか)と3代続く権勢の基礎を築いた。

 関西大などは、蘇我氏の有力者の墓と推定。泉森皎(こう)・元橿原考古学研究所副所長(考古学)は「馬子以前の6世紀後半に蘇我氏の根拠地といえる場所に、大規模な墓をつくることができるのは稲目しかいない。古代飛鳥の歴史を解明する上で、大きな意味を持つ発見だ」と話している。

 日本書紀によると、稲目は宣化元(536)年、天皇を補佐する大臣に就任。欽明天皇に再任され、吉備(現在の岡山県)に天皇の直轄領の屯倉(みやけ)を選定するなど、欽明政治を支えた。

 その中で、稲目は堅塩媛(きたしひめ)と小姉君(おあねのきみ)の2人の娘を欽明の妃に送り込む。2人が生んだ子供(皇子と皇女)は計18人で、その中から用明(ようめい)、崇峻(すしゅん)、推古(すいこ)の3天皇が誕生。天皇家との姻戚関係はその後馬子-蝦夷-入鹿と、計4代続く古代朝廷での蘇我氏の権力を揺るぎないものにした。

 飛鳥の歴史に詳しい猪熊兼勝・京都橘大名誉教授(考古学)も、被葬者は稲目とみる。猪熊名誉教授は「階段ピラミッドの形で最初に思い浮かぶのが古代朝鮮・高句麗の将軍塚古墳。朝鮮半島からの情報を参考に古墳を築いた可能性があり、石舞台古墳も階段状の方墳だったことが推定される」と語る。 



階段状の「ピラミッド型」方墳…奈良・都塚古墳
 (読売新聞) - 2014年8月13日(水)20:36


奈良・都塚古墳:ピラミッド形「階段状」巨大方墳 6世紀後半、蘇我稲目の墓か
 (毎日新聞)- 2014年08月14日 東京朝刊
 

 奈良県明日香村の都塚(みやこづか)古墳(6世紀後半ごろ)が、墳丘を5段以上の階段状に築いたピラミッド形の大型方墳と分かり、村教委と関西大考古学研究室が13日、発表した。国内の同時期の方墳で階段状墳丘が確認されたのは初めて。一辺の長さが40メートルを超え、直後に築かれた方墳の大王(天皇)陵に迫る規模であることも分かった。トップクラスの権力者が前方後円墳に代わる新形式として取り入れたとみられ、蘇我氏の権勢の礎を築いた稲目(いなめ)(?~570年)らが被葬者の候補に挙がっている。古墳時代から飛鳥時代への過渡期の権力構造を知る手掛かりになりそうだ。



 都塚古墳があるのは、稲目の子、馬子(?~626年)が被葬者として有力視される石舞台古墳(7世紀前半、一辺約50メートルの方墳)の南東約400メートル。尾根の先端の傾斜地に築かれている。

 1967年に関西大考古学研究室が調査し、巨石を使った横穴式石室の中に凝灰岩製の家形石棺が安置されていたことが分かったが、墳丘の形や規模は不明だった。今回、墳丘と周囲の計7カ所を発掘調査したところ、最下部が、のり面を河原石で固めたテラス(基壇)になっており、その上に石積みの階段を重ねて墳丘を築いていたことが分かった。

 階段の石積みは石室と方向を合わせて築かれ、テラスになった最下段の1段と上部の4段分を確認。各段の水平面の幅は最下段が6メートル以上で、上部が約1メートル。上部の階段の高さは約60~約30センチ。最下段と上部の間の未調査部分に更に数段あるとみられ、全体では8段前後に復元できる。

 墳丘の規模は、東西41メートル、南北42メートル。高さは山に面した東側が4・5メートル以上、谷に面した西側が7メートル以上になる。墳丘の北側で石の護岸の周濠(しゅうごう)(幅1~1・5メートル)を確認した。

 同時代の敏達(びだつ)天皇(585年死去)が葬られたのは前方後円墳、次の用明、崇峻(すしゅん)、推古の3天皇が葬られたのは方墳とされ、大王陵が前方後円墳から方墳に切り替わる直前の築造とみられる。これらの大王陵や石舞台古墳はいずれも2~3段で、階段状の方墳は5世紀まで朝鮮半島北部の高句麗で築かれたが、国内では例がない。

 一帯は吉野方面への街道が通る要衝で、馬子の邸宅跡とされる島庄遺跡や飛鳥の中心部を北西に望む。【矢追健介】

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 ■ことば

 ◇都塚古墳

 奈良県明日香村の飛鳥の宮跡から南南東約1・2キロの阪田・祝戸地区にある。江戸中期の国学者、本居宣長の紀行文「菅笠日記」には、用明天皇を葬ったという伝承とともに「みやこ塚」と紹介されている。明治、大正時代には、巨石を使った横穴式石室の中に朱を塗布した巨大な家形石棺があることが報告され、早くから注目されていたが、史跡には指定されていない。 



【古墳】日本初「ピラミッド型」と判明
 (ABC NEWS 関西ニュース)- 2014年8月13日(水)19:13



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