醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1441号   白井一道

2020-06-17 11:35:25 | 随筆・小説



  新型コロナウイルスの蔓延は弱者を直撃


 
 社会は少しづつでも良くなっていくのかと思っていたら、悪くなっていくことがある。一方で悪くなっていくどころか、豊かになっていく人々がいる一方で悪くなっていく人々がいる。最近の新聞報道から

生活保護申請の男が激高、市役所で机ひっくり返す女性職員は指骨折     6/16(火) 10:49配信
 熊本県警は15日、玉名市岱明町、食品販売員の男(44)を公務執行妨害と傷害の疑いで逮捕した。
 発表によると、男は10日午前11時頃、玉名市役所で、生活保護の申請に応対した女性職員(26)に対し、机をひっくり返してぶつけ、左手の小指を骨折する全治4週間の重傷を負わせた疑い。
 県警の調べに対し、「(職員の)説明が理解できず、カッとなった」と供述しているという。
 読売新聞オンライン

「受け子」が訪ねた82歳宅には…帰省中の警察官の孫、現行犯逮捕  2020/06/15 09:16
 群馬県警前橋署は12日、中国籍で横浜市鶴見区下野谷町、専門学校生(22)を詐欺未遂容疑で現行犯逮捕した。キャッシュカードをだまし取ろうと前橋市の無職女性(82)宅にカードの受け取りに訪れたが、帰省中の孫で渋川署勤務の男性署員(22)が特殊詐欺と見抜いて取り押さえた。
 発表によると、専門学校生は仲間と共謀して12日午後、女性宅に複数回電話し、銀行協会職員や警察官を装って「あなたのカードが悪用されている。新しくする」などとうそを言い、カードをだまし取ろうとした疑い。調べに対し、容疑を認めている。
 電話を受けた女性が同じ敷地にある実家に帰省していた男性署員に相談。午後1時45分頃、専門学校生が女性宅を訪れ、焦った様子で「カードを受け取りに来た」と話したため、その場で身柄を確保した。男性署員は地域課に所属しており、「日頃から高齢者に注意を促しているので、詐欺だと直感した」と話しているという。
読売新聞オンライン

コロナ失業で「所持金1000円」…生活保護の申請、各地で急増
2020/05/31 13:45
 政府による緊急事態宣言が発令された4月、生活保護を申請する人が各地で急増していたことが明らかになった。外出自粛や休業で経済活動が停滞し、生活苦に陥る人が相次いでいる現状が浮かび上がった。宣言は解除されたが、経済の復調には時間がかかるとみられ、今後さらに申請者が増える可能性もある。 (田中文香、戸田貴也)
■イベント激減で警備の仕事減
 「仕事も住む場所もなく、不安だった。生活保護を受けられて安心した」。東京都内の警備会社で働いていたもののイベントの中止が相次ぎ、困窮していた男性(49)は、胸をなで下ろした。
 男性は、新型コロナウイルスの影響で警備の仕事が激減。別の仕事を探そうと3月末に会社を辞めた。ネットカフェやカプセルホテルを渡り歩きながら職探しをしていたが、4月に緊急事態宣言が発令され、転職先として期待していた企業の面接も中止に。所持金も徐々に底をつき始めた。
 東京都豊島区内の公園で行われた民間団体の相談会に参加したのを機に、区の福祉窓口に生活保護を申請した。現在は都の支援事業に頼ってビジネスホテルで暮らし、来月にはアパートに移る予定だが、仕事のめどは立っていない。
読売新聞オンライン
厚生労働省は3日、今年3月の全国の生活保護の申請件数が2万1026件(速報値)
 申請件数は近年、雇用環境の改善を受けて減少傾向だったが、3月分は5年ぶりに増加に転じた。
 生活保護の受給世帯は、全国で163万5201世帯(前年同月比1136世帯減)。そのうち、65歳以上の高齢者世帯は5割を超える90万6025世帯(同1万2466世帯増)で、90万世帯を初めて突破し、過去最多を更新した。少子高齢化の影響により、近年は高齢者の申請が増え続けているという。
 一方、4月の生活保護の申請件数について、読売新聞が全国20の政令市と東京23区に取材したところ、計9680件(一部速報値)と前年同月比で31%増加していた。3月から4月にかけて、仕事を失ったホテル従業員やタクシー運転手の申請が増えた自治体もあり、全国ベースでも前年を大きく上回る可能性がある。
 読売新聞オンライン

醸楽庵だより   1440号   白井一道

2020-06-16 09:55:07 | 随筆・小説



   方丈記 11



 わが身、父方の祖母の家をつたへて、久しくかの所に住む。其後、縁かけて、身おとろへ、しのぶかたがたしげかりしかど、つひに 屋とヾむる事を得ず。三十あまりにして、更にわが心と、一の菴をむすぶ。是をありしすまひにならぶるに、十分が一也。居屋ばかりをかまへて、はかばかしく屋をつくるに及ばず。わづかに築地を築けりといへども、門を建つるたづきなし。竹を柱として車をやどせり。雪降り、風吹くごとに、あやふからずしもあらず。所、河原近ければ、水難も深く、白波のおそれもさわがし。
 すべて、あられぬ世を念じ過しつゝ、心をなやませる事、三十余年也。其間、をりをりのたがひめ、おのづからみじかき運をさとりぬ。すなはち、五十の春を迎へて、家を出で、世を背けり。もとより妻子なければ、捨てがたきよすがもなし。身に官禄あらず、何に付けてか執を留めん。むなしく大原山の雲にふして、又五かへりの春秋をなん経にける。

現代語訳

 私は父方の祖母の家を継ぎ、長い間そこに住んでいた。その後、縁が徐々に薄くなり、私の立場も弱まり、遂に家にいることが難しくなった。三十余りになり、よく考えて一つの庵を結ぶことにした。
 この庵を今までの住まいと比べてみると十分の一位小さい。居間ばかりの住まいで、それ以上大きな住まいを作ることができなかった。僅かに土塀を築いたとはいえ、門を作る予算がなかった。竹を柱にして車入れを作った。雪が降り、風が吹く度毎に心配しないことはなかった。場所が鴨川に近かったので浸水すると深く、白波が打ち寄せて騒がしい。何事も、こんな世でいいのかと思いつつ心を悩まして三十余年になる。その間の意に反する事々に自らの不運を悟った。すなわち五十の春を迎えて、家を出て遁世した。もとより妻子がいなかったので、捨てがたいしがらみもない。私には年金もなく、執着するものがない。ただこうして大原山の雲に寝包まって五回の春秋を経験したのである。

 無一物(むいちもつ)ということ  白井一道
 無一物、むいちもつ。人間は、本来、何も持たない。
汚れも罪もなく病気も苦悩も無い。
何も無いはずなのに
何故か現実には誰かが誰かを恨んでいたり、
バチが当たると思っていたり、自分は罪深いと思ったり、
何も悪い事はしていないのに世の中は自分の味方をしないと考えていたりする。
そして、それを口に出して言い、
聞いた人がその通りだと思うと状況は益々、悪化してしまう。
想念も類は共を呼ぶから、悲観的に考え出したら、
悲観的に考える者同士で集まって、糸口が見出しにくくなるからだ。
そして、自分の周りだけ見て、それが世界だ。
人生だと、かんがえていたりする。
一度、死に直面した人は、人生観が変わるという。
生きていくのに最小限のものがあればいい。
余分な欲に苦しまなくなったという。
本当に最小限のものは、巡り巡って神様が準備してくれる。
空の小鳥も野の花も「明日の食べ物をどうしよう?」なんて悩まない。
いつも何か求め、一つ持つと、
次のもう一つを得ようとする人間のサガが消えたら、
きっと心の平和が来る。
きれいさっぱり、自分も貴方も根底は仏の心。
と信じちゃおう。
根底は、「アナタも私も全宇宙も神様の心。それ以外、何もない。」
と一度、考えてみませんか。
それに気付くまでの旅が人生だし、もっと理解したら人間卒業できるよね。
でも、信じきれないから、人間って「ああでもない、こうでもない」と
壮大なドラマを繰り広げて、泣いたり笑ったりしている。
貴方も私も星も石も同じ宇宙の一部で、波動や粒子の集まりです。
光とオンナジようなものです。
無一物中無尽蔵(むいちもつちゅうむじんぞう)
何も無い中に何もかも有る。『禅語の部屋』より

醸楽庵だより   1439号   白井一道

2020-06-14 12:16:38 | 随筆・小説

 アメリカ・ミネソタ州で黒人男性のジョージ・フロイドさんが警察官に首を押さえつけられ死亡した事件を受け、全米各地で抗議デモが起き、「Black Lives Matter」と訴える声が広がっている。
「黒人の命は大切だ、黒人の命を守れ」という訴えに、人種差別撤廃運動を率いたマーティン・ルーサー・キング牧師を思い出した人も多いことだろう。抗議活動の中にも、キング牧師の思想がたしかに生き続けていることが感じられる光景がある。
1963年8月28日、過酷な人種差別に抗議する人々が仕事と自由を求めて気勢を上げた「ワシントン大行進」。
その最後に行われたキング牧師の「私には夢がある」(I Have a Dream)演説を、今ふたたび私たちは読むべきではないだろうか。
 『私には夢がある』  キング牧師の演説全文 

本日私が、アメリカ合衆国史上、もっとも偉大な自由のためのデモとして歴史に刻まれることになるこの集会に、みなさんとともに参加できることを嬉しく思う。
100年前、ある偉大なるアメリカ人がいた。我々は今日、その人物をかたどった像の前にいる(訳注・エイブラハム・リンカーン元大統領)。彼は奴隷解放宣言に署名した。この画期的な布告によって、情け容赦ない不公平の火の海にさらされてきた何百万もの黒人奴隷たちに素晴らしい希望の光がもたらされた。奴隷解放宣言は、囚われの身であった彼ら黒人奴隷の長い夜が終わり、喜びに満ちた夜明けとなった。
しかし100年後の今、我々は痛ましい現実に向き合わなければならない。それは、黒人が未だに自由ではないということだ。
100年後の今、黒人の生活は、不幸にも未だに人種隔離の手かせと人種差別の足かせによって縛り付けられている。
100年後、黒人は物質的な繁栄という広大な海原の真っただ中に浮かぶ貧困という孤島に暮らしている。
100年後、黒人は未だにアメリカの社会の片隅でみじめに暮らし、自分たちの国なのに国外追放者かの如く感じてしまう。
そこで我々が今日ここに集結したのは、この悲惨な状況を浮き彫りにするためである。
ある意味、我々が私たちの首都に来たのは、小切手を換金するためである。我々の共和国を建設した人たちが合衆国憲法と独立宣言に高尚な言葉を書き記した時、彼らは、あらゆるアメリカ国民が受け継ぐことになる約束手形に署名したのである。この約束手形には、ある誓約がある。それは、すべての人々が生命、自由、そして幸福の追求という、奪われることのない権利を保証される、ということだ。
今明らかに、アメリカは有色人種の市民に関してこの約束手形の履行を怠っている。アメリカはこの神聖な義務を履行するどころか、黒人に対して不渡りの小切手を渡した。しかもその小切手は「残高不足」の印をつけられて戻ってきたものである。
だが我々は、正義の銀行が破産しているとは信じない。この国の可能性という巨大金庫が残高不足であるとは信じない。そこで我々は、この小切手を現金化するためにやって来た――自由という財産を、そして正義という保証を、要求に応じて受け取れる小切手を現金化するためにやって来たのだ。我々はまた、アメリカに目下深刻な緊急事態であることを知らしめるために、この神聖な場所に来ている。今は、冷却期間を置く余裕を持ったり、漸進主義という薬を処方して沈静化させたりする時ではない。
今こそ、民主主義の約束を実現する時である。
今こそ、暗く荒れ果てた人種差別の谷間から這い上がり、日の当たる人種間の平等の道へと歩む時である。
今こそ、我々の国を、人種間の不平等という泥沼から、兄弟愛という強固な岩へと引き上げる時である。
今こそ、すべての神の子のために、正義を実現する時である。
国家が目下起きている緊急事態に対し見て見ぬふりをすれば、致命的なことになりかねない。黒人たちの真っ当な不満が渦巻くこのうだるように暑い夏は、自由と平等という爽やかな秋が来るまでは過ぎ去らない。1963年は、終わりではなく、始まりなのだ。黒人は憂さを晴らす必要があったからこれでもう満足するだろうと期待する人々は、国家が旧態依然の状況に戻ったとしたら、幻滅することになるだろう。黒人に公民権が与えられるまでは、アメリカには安息も平穏も訪れることはない。正義が出現する明るい日が来るまで、抵抗の嵐はこの国の根幹を揺るがし続けることになる。
しかし私は同胞たちに言わなければならないことがある。正義という殿堂に通じる熱を帯びた入り口に立つ同胞たちよ。正当な地位を獲得する過程で、我々は決して不法行為の罪を犯してはならない。
我々は、敵意と憎悪の杯を飲み干すことで、自由への渇きを癒やすのはやめよう。
我々は、尊厳と規律を保った高い次元で闘争を行わなくてはならない。
我々の創造性に富んだ抗議を、物理的な暴力へと貶めてはならない。
何度でも何度でも、我々は物理的な力に対して魂の力で立ち向かうという威厳ある高みへと登りつめなければならない。
驚くような新たな闘争心が黒人社会を包み込んでいる。しかしそれがすべての白人に対する不信につながってはならない。なぜなら、我々の白人の兄弟の多くが、今日彼らがここにいることからもわかるように、彼らの運命が我々の運命と結び付いていることを認識するようになったからである。そして、彼らの自由が我々の自由と密接に結びついていることを認識するようになったからである。
我々は、一人で歩くことはできない。
そして、歩くためには、前進し続けることを表明しなければならない。
我々は後戻りできない。
公民権運動に身を捧げる人々に対してこう尋ねる人たちがいる。「いつになればあなたたちは満足するのか」と。
我々は決して満足しない。黒人が、言葉に言い表せないような警察の恐ろしい虐待行為の犠牲者である限りは。
我々は決して満足しない。旅に疲れて重くなった体を休めるため、ハイウェイ沿いのモーテルや街のホテルに宿泊することができない限りは。
我々は満足しない。黒人の基本的な行動範囲が、小さなゲットーから大きなゲットーまでである限りは。
我々は決して満足しない。我々の子どもたちが、「白人専用」という表示によって、自我を奪われ、尊厳が損なわれる限りは。
我々は決して満足しない。ミシシッピ州の黒人が投票できず、ニューヨーク州の黒人が投票をしても意味がないと信じて疑わない限りは。
そう、決して、我々は満足しないのだ。
そして、我々は満足しない。「正義を洪水のように/恵みの業を大河のように/尽きることなく流れさせよ」(訳注・旧約聖書アモス書5章24節)。
私は、あなたがたの中に大変な試練と苦難から脱してきた人々が、今日ここにいることに対して気を留めずにはいられない。あなたがたの中に、刑務所の狭い独房から出てきたばかりの人もいる。そしてあなたがたの中に、自由を追求したがゆえに迫害の嵐に打ちのめされ、警察の虐待行為の逆風によろめいた場所からやって来た人たちもいる。あなたがたは、他にはない苦痛を受けた歴戦の勇者である。報われない苦しみは贖われるという信念を持って活動し続けよう。
帰ろう、ミシシッピへ。
帰ろう、アラバマへ。
帰ろう、サウスカロライナへ。
帰ろう、ジョージアへ。
帰ろう、ルイジアナへ。
帰ろう、北部の都市のスラム街やゲットーへ。
とにかくこの状況を変えられると、そして変わると信じて。
絶望の谷間でもがくのはやめよう。友よ、今日私は皆さんに言いたい。我々は今日も明日も困難に直面しているが、それでも私には夢がある。それは、アメリカンドリームに深く根ざした夢である。
私には夢がある。いつの日か、この国が立ち上がり、「すべての人間は生まれながらにして平等であることを、自明の真理と信じる」(訳注・アメリカ独立宣言)というこの国の信条を真の意味で実現させるという夢が。
私には夢がある。いつの日か、ジョージア州の赤土の丘で、かつての奴隷の子孫たちとかつての奴隷所有者の子孫たちが、兄弟の間柄として同じテーブルにつくという夢が。
私には夢がある。いつの日か、不公平と抑圧という灼熱の炎にさらされているミシシッピ州でさえ、自由と正義のオアシスへと生まれ変わるという夢が。
私には夢がある。いつの日か、私の4人の幼い子どもたちが、肌の色ではなく、人格の中身によって評価される国で暮らすという夢が。
今日、私には夢がある!
私には夢がある。いつの日か、卑劣な人種差別主義者たちがいて、「連邦政府の干渉排除」や「連邦権力の無効化」という言葉を弄する州知事のいるアラバマ州でさえも、いつの日かそのアラバマでさえも、黒人の少年少女が白人の少年少女と兄弟姉妹として手を取り合うようになるという夢が。
今日、私には夢がある!
私には夢がある。それは、いつの日か、「谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを/肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される」という夢が。(訳注・旧約聖書イザヤ書4-5)
これが我々の希望である。この信念をもって、私は南部へ帰る。
この信念があれば、我々は絶望の山の中から希望の石を切り出すことができる。
この信念があれば、我々はこの国の騒々しい不協和音を美しき兄弟愛のシンフォニーに変えることができる。
この信念があれば、我々はいつの日かともに働き、ともに祈り、ともに闘い、ともに罪を償い、ともに自由のために立ち上がることができるだろう。いつの日か自由になると確信して。
そしてその日こそが、その日こそが、神の子たち全員が新しい意味を込めて、このように歌うことができる。「わが祖国、それは汝のもの。素晴らしき自由の地よ、汝に私は歌う。わが祖先たちが骨を埋めた大地よ、巡礼者の誇りである大地よ。あらゆる山々から、自由よ、響きわたれ!」
そして、アメリカが偉大な国家となるためには、これを実現せねばならない。
だからこそ、自由の鐘を響かせよう、ニューハンプシャーの広大な丘の上から。
自由の鐘を響かせよう、ニューヨークの雄大な山脈から。
自由の鐘を響かせよう、ペンシルベニアのアレゲーニー山脈の高みから。
自由の鐘を響かせよう、雪に覆われたコロラドのロッキー山脈から。
自由の鐘を響かせよう、カリフォルニアのなだらかな丘陵から。
それだけではない。
自由の鐘を響かせよう、ジョージアのストーン・マウンテンから。
自由の鐘を響かせよう、テネシーのルックアウト・マウンテンから。
自由の鐘を響かせよう、ミシシッピのすべての丘とくぼみから。
すべての山々から、自由の鐘を響かせよう。
これが実現した時、自由の鐘を響かせた時、あらゆる村やあらゆる集落、あらゆる州とあらゆる都市から自由の鐘を響かせた時、我々は神の子全員が、そして黒人も白人も、ユダヤ教徒もユダヤ教徒以外の人も、プロテスタントもカトリックも、ともに手をとり合って古い黒人霊歌を歌うことのできる日が来るのを早めることができる。
「ついに自由になった! ついに自由になった! 全能の神に感謝しよう、我々はついに自由になったのだ!」
   「ハフポスト」より

醸楽庵だより   1439号   白井一道

2020-06-14 12:16:38 | 随筆・小説


 アメリカ・ミネソタ州で黒人男性のジョージ・フロイドさんが警察官に首を押さえつけられ死亡した事件を受け、全米各地で抗議デモが起き、「Black Lives Matter」と訴える声が広がっている。
「黒人の命は大切だ、黒人の命を守れ」という訴えに、人種差別撤廃運動を率いたマーティン・ルーサー・キング牧師を思い出した人も多いことだろう。抗議活動の中にも、キング牧師の思想がたしかに生き続けていることが感じられる光景がある。
1963年8月28日、過酷な人種差別に抗議する人々が仕事と自由を求めて気勢を上げた「ワシントン大行進」。
その最後に行われたキング牧師の「私には夢がある」(I Have a Dream)演説を、今ふたたび私たちは読むべきではないだろうか。
 『私には夢がある』  キング牧師の演説全文 

本日私が、アメリカ合衆国史上、もっとも偉大な自由のためのデモとして歴史に刻まれることになるこの集会に、みなさんとともに参加できることを嬉しく思う。
100年前、ある偉大なるアメリカ人がいた。我々は今日、その人物をかたどった像の前にいる(訳注・エイブラハム・リンカーン元大統領)。彼は奴隷解放宣言に署名した。この画期的な布告によって、情け容赦ない不公平の火の海にさらされてきた何百万もの黒人奴隷たちに素晴らしい希望の光がもたらされた。奴隷解放宣言は、囚われの身であった彼ら黒人奴隷の長い夜が終わり、喜びに満ちた夜明けとなった。
しかし100年後の今、我々は痛ましい現実に向き合わなければならない。それは、黒人が未だに自由ではないということだ。
100年後の今、黒人の生活は、不幸にも未だに人種隔離の手かせと人種差別の足かせによって縛り付けられている。
100年後、黒人は物質的な繁栄という広大な海原の真っただ中に浮かぶ貧困という孤島に暮らしている。
100年後、黒人は未だにアメリカの社会の片隅でみじめに暮らし、自分たちの国なのに国外追放者かの如く感じてしまう。
そこで我々が今日ここに集結したのは、この悲惨な状況を浮き彫りにするためである。
ある意味、我々が私たちの首都に来たのは、小切手を換金するためである。我々の共和国を建設した人たちが合衆国憲法と独立宣言に高尚な言葉を書き記した時、彼らは、あらゆるアメリカ国民が受け継ぐことになる約束手形に署名したのである。この約束手形には、ある誓約がある。それは、すべての人々が生命、自由、そして幸福の追求という、奪われることのない権利を保証される、ということだ。
今明らかに、アメリカは有色人種の市民に関してこの約束手形の履行を怠っている。アメリカはこの神聖な義務を履行するどころか、黒人に対して不渡りの小切手を渡した。しかもその小切手は「残高不足」の印をつけられて戻ってきたものである。
だが我々は、正義の銀行が破産しているとは信じない。この国の可能性という巨大金庫が残高不足であるとは信じない。そこで我々は、この小切手を現金化するためにやって来た――自由という財産を、そして正義という保証を、要求に応じて受け取れる小切手を現金化するためにやって来たのだ。我々はまた、アメリカに目下深刻な緊急事態であることを知らしめるために、この神聖な場所に来ている。今は、冷却期間を置く余裕を持ったり、漸進主義という薬を処方して沈静化させたりする時ではない。
今こそ、民主主義の約束を実現する時である。
今こそ、暗く荒れ果てた人種差別の谷間から這い上がり、日の当たる人種間の平等の道へと歩む時である。
今こそ、我々の国を、人種間の不平等という泥沼から、兄弟愛という強固な岩へと引き上げる時である。
今こそ、すべての神の子のために、正義を実現する時である。
国家が目下起きている緊急事態に対し見て見ぬふりをすれば、致命的なことになりかねない。黒人たちの真っ当な不満が渦巻くこのうだるように暑い夏は、自由と平等という爽やかな秋が来るまでは過ぎ去らない。1963年は、終わりではなく、始まりなのだ。黒人は憂さを晴らす必要があったからこれでもう満足するだろうと期待する人々は、国家が旧態依然の状況に戻ったとしたら、幻滅することになるだろう。黒人に公民権が与えられるまでは、アメリカには安息も平穏も訪れることはない。正義が出現する明るい日が来るまで、抵抗の嵐はこの国の根幹を揺るがし続けることになる。
しかし私は同胞たちに言わなければならないことがある。正義という殿堂に通じる熱を帯びた入り口に立つ同胞たちよ。正当な地位を獲得する過程で、我々は決して不法行為の罪を犯してはならない。
我々は、敵意と憎悪の杯を飲み干すことで、自由への渇きを癒やすのはやめよう。
我々は、尊厳と規律を保った高い次元で闘争を行わなくてはならない。
我々の創造性に富んだ抗議を、物理的な暴力へと貶めてはならない。
何度でも何度でも、我々は物理的な力に対して魂の力で立ち向かうという威厳ある高みへと登りつめなければならない。
驚くような新たな闘争心が黒人社会を包み込んでいる。しかしそれがすべての白人に対する不信につながってはならない。なぜなら、我々の白人の兄弟の多くが、今日彼らがここにいることからもわかるように、彼らの運命が我々の運命と結び付いていることを認識するようになったからである。そして、彼らの自由が我々の自由と密接に結びついていることを認識するようになったからである。
我々は、一人で歩くことはできない。
そして、歩くためには、前進し続けることを表明しなければならない。
我々は後戻りできない。
公民権運動に身を捧げる人々に対してこう尋ねる人たちがいる。「いつになればあなたたちは満足するのか」と。
我々は決して満足しない。黒人が、言葉に言い表せないような警察の恐ろしい虐待行為の犠牲者である限りは。
我々は決して満足しない。旅に疲れて重くなった体を休めるため、ハイウェイ沿いのモーテルや街のホテルに宿泊することができない限りは。
我々は満足しない。黒人の基本的な行動範囲が、小さなゲットーから大きなゲットーまでである限りは。
我々は決して満足しない。我々の子どもたちが、「白人専用」という表示によって、自我を奪われ、尊厳が損なわれる限りは。
我々は決して満足しない。ミシシッピ州の黒人が投票できず、ニューヨーク州の黒人が投票をしても意味がないと信じて疑わない限りは。
そう、決して、我々は満足しないのだ。
そして、我々は満足しない。「正義を洪水のように/恵みの業を大河のように/尽きることなく流れさせよ」(訳注・旧約聖書アモス書5章24節)。
私は、あなたがたの中に大変な試練と苦難から脱してきた人々が、今日ここにいることに対して気を留めずにはいられない。あなたがたの中に、刑務所の狭い独房から出てきたばかりの人もいる。そしてあなたがたの中に、自由を追求したがゆえに迫害の嵐に打ちのめされ、警察の虐待行為の逆風によろめいた場所からやって来た人たちもいる。あなたがたは、他にはない苦痛を受けた歴戦の勇者である。報われない苦しみは贖われるという信念を持って活動し続けよう。
帰ろう、ミシシッピへ。
帰ろう、アラバマへ。
帰ろう、サウスカロライナへ。
帰ろう、ジョージアへ。
帰ろう、ルイジアナへ。
帰ろう、北部の都市のスラム街やゲットーへ。
とにかくこの状況を変えられると、そして変わると信じて。
絶望の谷間でもがくのはやめよう。友よ、今日私は皆さんに言いたい。我々は今日も明日も困難に直面しているが、それでも私には夢がある。それは、アメリカンドリームに深く根ざした夢である。
私には夢がある。いつの日か、この国が立ち上がり、「すべての人間は生まれながらにして平等であることを、自明の真理と信じる」(訳注・アメリカ独立宣言)というこの国の信条を真の意味で実現させるという夢が。
私には夢がある。いつの日か、ジョージア州の赤土の丘で、かつての奴隷の子孫たちとかつての奴隷所有者の子孫たちが、兄弟の間柄として同じテーブルにつくという夢が。
私には夢がある。いつの日か、不公平と抑圧という灼熱の炎にさらされているミシシッピ州でさえ、自由と正義のオアシスへと生まれ変わるという夢が。
私には夢がある。いつの日か、私の4人の幼い子どもたちが、肌の色ではなく、人格の中身によって評価される国で暮らすという夢が。
今日、私には夢がある!
私には夢がある。いつの日か、卑劣な人種差別主義者たちがいて、「連邦政府の干渉排除」や「連邦権力の無効化」という言葉を弄する州知事のいるアラバマ州でさえも、いつの日かそのアラバマでさえも、黒人の少年少女が白人の少年少女と兄弟姉妹として手を取り合うようになるという夢が。
今日、私には夢がある!
私には夢がある。それは、いつの日か、「谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを/肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される」という夢が。(訳注・旧約聖書イザヤ書4-5)
これが我々の希望である。この信念をもって、私は南部へ帰る。
この信念があれば、我々は絶望の山の中から希望の石を切り出すことができる。
この信念があれば、我々はこの国の騒々しい不協和音を美しき兄弟愛のシンフォニーに変えることができる。
この信念があれば、我々はいつの日かともに働き、ともに祈り、ともに闘い、ともに罪を償い、ともに自由のために立ち上がることができるだろう。いつの日か自由になると確信して。
そしてその日こそが、その日こそが、神の子たち全員が新しい意味を込めて、このように歌うことができる。「わが祖国、それは汝のもの。素晴らしき自由の地よ、汝に私は歌う。わが祖先たちが骨を埋めた大地よ、巡礼者の誇りである大地よ。あらゆる山々から、自由よ、響きわたれ!」
そして、アメリカが偉大な国家となるためには、これを実現せねばならない。
だからこそ、自由の鐘を響かせよう、ニューハンプシャーの広大な丘の上から。
自由の鐘を響かせよう、ニューヨークの雄大な山脈から。
自由の鐘を響かせよう、ペンシルベニアのアレゲーニー山脈の高みから。
自由の鐘を響かせよう、雪に覆われたコロラドのロッキー山脈から。
自由の鐘を響かせよう、カリフォルニアのなだらかな丘陵から。
それだけではない。
自由の鐘を響かせよう、ジョージアのストーン・マウンテンから。
自由の鐘を響かせよう、テネシーのルックアウト・マウンテンから。
自由の鐘を響かせよう、ミシシッピのすべての丘とくぼみから。
すべての山々から、自由の鐘を響かせよう。
これが実現した時、自由の鐘を響かせた時、あらゆる村やあらゆる集落、あらゆる州とあらゆる都市から自由の鐘を響かせた時、我々は神の子全員が、そして黒人も白人も、ユダヤ教徒もユダヤ教徒以外の人も、プロテスタントもカトリックも、ともに手をとり合って古い黒人霊歌を歌うことのできる日が来るのを早めることができる。
「ついに自由になった! ついに自由になった! 全能の神に感謝しよう、我々はついに自由になったのだ!」
   「ハフポスト」より

醸楽庵だより   1438号   白井一道

2020-06-13 09:31:20 | 随筆・小説


   方丈記 10


 すべて、世中のありにくゝ、わが身とすみかとの、はかなくあだなるさま、又、かくのごとし。いはむや、所により、身のほどにしたがひつゝ、心をなやます事は、あげて不可計(かぞふべからず)。若(も)しおのれが身数ならずして、権門のかたはらにをるものは、深くよろこぶ事あれども、大きにたのしむにあたはず。なげき切なるときも、声をあげて泣くことなし。進退やすからず。たちゐにつけて、恐れをのゝくさま、たとへば、雀の鷹の巣に近づけるがごとし。若(も)し貧しくて富める家のとなりにをるものは、朝夕すぼき姿を恥ぢて、へつらひつゝ出で入る。妻子・僮僕(とうぼく)のうらやめるさまを見るにも、福家の人のないがしろなるけしきを聞くにも、念々に動きて、時としてやすからず。若(も)しせばき地にをれば、近く炎上ある時、その災をのがるゝ事なし。若(も)し辺地にあれば、往反わづらひ多く、盗賊の難はなはだし。又、いきほいある物は貪欲ふかく、独身なる物は人にかろめらる。財あればおそれ多く、貧ければうらみ切也。人を頼めば、身他の有なり。人をはぐくめば、心恩愛につかはる。世にしたがへば、身、くるし。したがはねば、狂せるに似たり。いづれの所をしめて、いかなるわざをしてか、しばしも此の身を宿し、たまゆらも心を休むべき。


現代語訳

 すべて世の中は生き難く、我が身と棲家のなんとはかなく脆いこと、またこのざまだ。もちろん、所により、身のほどにしたがい、心を悩ますことを残らず数えてはならない。もし我が身が数にも入らない者にして、権力者の傍らにいる者は深く喜ぶこともあろうが、それほど楽しむに足るものではない。嘆き切なる思いをする時も、声をあげて泣くことはない。進退が厳しい。立ち居振る舞いにつき、恐れおののく様子は、例えば、雀が鷹の巣に近づくようなものだ。もし貧しく富める家の隣にいる者は朝夕みすぼらしい姿を恥じ、へつらいつつ出入りする。妻子や召使が羨む姿を見るにつけ、裕福な家の人に軽んぜられる様子を聞くにつけ、心がいろいろ動き、時として落ち着かないことがある。もし狭い土地におるなら近くで火事があったとき、その災いから逃れることはない。もし僻地におるなら行き帰りに災いが多く、盗賊に合う難儀が甚だしいだろう。また、勢いのある者は貪欲で、独身の者はひとから軽んぜられる。財産のある者は恐れが多く、貧しければ人を羨むこと切なる。他人を頼みにすると我が身が自分ではなくなってしまう。他人を大事にすると他人に束縛されてしまう。世間に従うと我が身が窮屈だ。世間に逆らうと変人のようになる。何れのところにかどうにかして我が身を宿し、片時の休みを得よう。



 苦の世界ということ  白井一道
 
 この世に生きることは苦である。このように仏教では言われている。確かに生きることは苦そのもののように感じる。四苦八苦という言葉がある。仏教の言葉のようだ。生・老・病・死、これを四苦と言っている。この世に生まれてくるから死がある。生れて来るから成長し、老いていく。老いていくから死がやってくる。この世に生まれてくるから苦しみがある。この世に生まれてくることを否定し、死後の世界に理想的な世界を夢見るのが仏教のようだ。死後の世界にしか理想的な世界を思い浮かべることができない現実がある。この現実を否定的に受け入れ、死後の世界に思いを託す。現実への絶望が死後の世界への希望になる。
 現実への絶望が未来への希望を語る。ここに仏教の魅力がある。仏教に限らずすべての宗教は現実への絶望と未来への希望を語る。人間はどのような絶望的な状況にあっても希望がなければ生きられない。この現実の絶望的状況は今から二千年前も、八百年前の鴨長明が生きた時代も現代も基本的に変わることはない。いつの時代も人間の生きている現実は絶望的な状況である。
 コルベ神父がアッシュビッツ強制収容所の中で身代わりになって飢え死できたのはキリスト教を信じ、未来に生きる希望を持ち得たからではないかと私は考えている。決して人間は絶望そのものを受け入れることはできない。絶望の後には必ず希望があると信ずることなしには死ぬことができない。

醸楽庵だより   1437号   白井一道

2020-06-12 12:04:35 | 随筆・小説



   安倍内閣はコロナウイルス対策費、10兆円の予備費を好き勝手に使おうとしている。この予備費を仲間内で使おうとしている。この事に対して立憲デモクラシーの会(学者・弁護士)が見解を表明している。


安倍内閣の政権運営と第二次補正予算に関する見解(2020年6月)立憲デモクラシーの会


 第201回通常国会における安倍内閣の国会への対応の仕方に関しては、法の支配と民主主義の理念に照らして、様々な問題があった。検察官の定年延長に関し、閣議決定で東京高等検察庁検事長の定年延長を決定したことに対しては、我々はすでに疑問を明らかにした。
 その後、この決定を追認するかのように検事総長等の幹部検察官に関する個別的な役職定年延長を可能にする検察庁法改正案を国家公務員法改正案と抱き合わせで一括して国会に提出し、世論の強い批判を浴びて、これを事実上撤回した。管下の検察官に対する指揮監督権を有する検察幹部の役職定年延長を内閣が恣意的、かつ選択的に判断延長できるようにするこの改正案に対し、公訴権をほぼ一手に行使する準司法機関たる検察の独立性を危うくする恐れがあるとの批判が国民的に広がったのも当然であった。
 通常国会の会期末が迫る中、内閣は新型コロナウィルス対策のための第2次補正予算案を提出した。その総額は約32兆円で、その中に10兆円の予備費が計上されている。憲法87条は、「予見し難い予算の不足に充てるため、国会の議決に基づいて予備費を設け、内閣の責任でこれを支出することができる」と規定している。本来、予備費とは災害復旧などの予見しがたい課題に対応するための制度であり、財政民主主義の下では例外的な制度である。
 令和2年度当初予算の予備費は5千億円であり、10兆円という金額は補正予算の1回ないし2回分に相当する。野党の批判を受けて、予算審議に当たりそのうちの5兆円についてはおよその使途を明確にすることとされた。
 しかし、それで問題が消えるわけではない。この補正予算は新型コロナウィルス関連の課題に対処するためと使途は明らかであるにもかかわらず、あえて「予見し難い」との虚偽の理由に基づいて多額の予備費を計上し、国会に提案して議決を求めることは、過去の予備費計上の例に照らし、憲法の要請する国会議決主義の根本を揺るがすものといえる。
 また、持続化給付金や観光振興の補助金の執行をめぐって、事業を受注した法人が他の企業に再委託し、積算根拠不明の手数料を取っているという問題も明らかになった。現在の行政体制においては、巨額の予算を迅速に執行するために、適正手続きや透明性が阻害される恐れが強い。それゆえ、巨額の予備費を計上し、内閣、行政各部に過大な裁量を与えることは、納税者の主権をないがしろにするものと言わざるを得ない。
 さらに、巨額の予備費を計上すれば、今後新型コロナウィルスに関する政策が必要となっても補正予算を組む必要はなく、それゆえ、国会の審議を経る必要もない。極言すれば、この秋に臨時国会を召集する必要もなくなる。万一そのような事態になれば、議会制民主主義は抜け殻のごときものになる。
 国民主権、財政民主主義の観点から、予算の内容は事前に公表すること、補正予算の執行に関して閉会中審査、臨時国会の召集など、国会による審議、追及の機会を最大限確保することを求める。 

醸楽庵だより   1436号   白井一道

2020-06-11 11:47:34 | 随筆・小説



  感染症と世界の歴史



 病気は社会を反映している。人々から忌み嫌われた古代・中世社会を代表する病というと、それはハンセン氏病であろう。この病は古代から現代社会に至るまで嫌われ続けて来た最も代表的な感染症である。
 ハンセン氏病は「らい菌」に感染する事で起こる病気である。感染すると手足などの抹消神経が麻痺し、皮膚にさまざまな病的な変化が起こる。早期に適切な治療を行わないと、手足などの抹消神経に障害が起き、汗が出なくなり、痛い、熱い、冷たいといった感覚がなくなることがある。また、体の一部が変形するといった後遺症が残る。かつては「らい病」と呼ばれていたが、明治6年(1873年)に「らい菌」を発見したノルウェーの医師・ハンセン氏の名前をとって、現在は「ハンセン病」と呼ばれている。現代にあっても熊本県の温泉ホテルがハンセン病の元患者の宿泊を拒否した事件がニュースで取り上げられたのは平成15年(2003年)のことである。
 北条民雄の小説『いのちの初夜』にハンセン氏病を発病した苦悩が表現されている。癩病と診断されることが、即ち生きながらの死亡宣告のような意味を持っていた。自身も癩病患者であった作者の体験的な作品「いのちの初夜」は、癩病院への入所という絶望の中から不死鳥のような命の叫びを表現している。昭和11年雑誌「文学界」2月号に発表された本作品は大反響を呼びおこした。
 映画『小島の春』に表現されている癩病というスティグマを貼られた病者に対する慈愛の精神を体現するのは、洋の東西を問わず聖女たる女性で あり、その中で治療と慈愛が女性の性役割に関連づけられ、ハンセン病対策が、民間による慈善事業から国家による統治手段として位置づけられるようになった時、女性の領域と位置づけられてきた慈愛の精神と実践もまた、国家制度に組み込まれてゆくことになる。赴任した彼女の仕事は、長島愛生 園での収容者の診療の他に、その3年前に改定された癩予防法のプロトコルに従い、「祖国浄化」「収容政策は関係者の間ではこのように表現されていた」と理想に燃えて、中国四国地方の村々を定期的に巡回検診し多く病者を発見することであった。
 近代社会を代表する病は肺結核であろう。肺結核は産業革命期を代表する病である。
  18世紀、イギリスの農村工業地帯と言われる地域でインドの綿花を輸入して綿糸を紡ぐ製糸工業が起きて来る。インドから輸入していた綿布がイギリスで人気を博し、綿布のシャツが流行した。中世都市として有名であったロンドンなどの都市ではなく、ランカシャー地方の農村地域にあったマンチェスターで製糸業が起きて来る。農村地域には新興工業が起きて来るに当たって中世都市に比べて制約が少なかったからである。また農村地域には第二次エンクロージャーと言われる土地の囲い込みの結果、農村を追い出された農民たちが生活の糧を求めて紡績マニュファクチャーに集まってきた。18世紀にリチャード・アークライトが水力紡績機を発明すると今までの工場制手工業であったマニュファクチャーが工場制機械工業に変わっていった。山間部の川の流れに沿って設置された水力紡績機を中心に工場が建設されていった。これがイギリスの産業革命の始まりである。
 木綿糸を紡ぐ紡績工場には土地を失った農民たちが仕事を求めて集まった。有り余る労働者の群れが仕事を求めてマンチェスターの紡績工場に集まった。
不衛生な環境下での過酷な長時間労働や慢性的な栄養失調、よどんだ空気が結核の流行になった。太陽のない街、スラム街が膨れ上がっていった。労働者の出現である。こうした労働者の出現は同時に死の病、肺結核の流行と同時である。
 産業革命が進展し産業資本が確立していくことが資本主義経済の確立である。産業革命は人々に豊かな生活を実現すると同時に他方には肺結核という死の病も産み落した。一方に豊かな生活を実現すると同時に他方には死の病に苦しむ労働者の一群を産み落した。
 産業革命が近代社会を築き、資本主義社会を築くと同時に産業革命は工場という生活環境の悪い状況が肺結核という死の病を産み落した。
 19世紀後半になって、コッホが結核菌を発見、20世紀になるとカルメットとゲランが結核に有効なワクチン「BCG」を開発、ワクスマンらが抗生物質(ストレプトマイシン)を創製したことによって、「結核=死」ではなく、完治可能な病気となった。

醸楽庵だより   1435号   白井一道

2020-06-10 12:33:07 | 随筆・小説


  方丈記 9



原文
 又、同じころかとよ。おびたゝしく大地震(おおなゐ)振ること侍き。そのさまよのつねならず。山はくづれて河を埋み、海は傾きて陸地(ろくぢ)をひたせり。土さけて水わきいで、巌(いわほ)われて谷にまろびいる。渚漕ぐ船は波にたゞよひ、道行く馬はあしの立ちどをまどはす。都のほとりには、在々所々、堂舎塔廟(だうじやたふめう)、一つとして全(また)からず。或はくづれ、或はたふれぬ。塵灰(ちりはい)たちのぼりて、盛りなる煙の如し。地の動き、家のやぶるゝ音、雷(いかづち)にことならず。家の内にをれば、忽にひしげなんとす。走り出づれば、地割れ裂く。羽なければ、空をも飛ぶべからず。竜(りよう)ならばや、雲にも乗らむ。恐れのなかに恐るべかりけるは、只地震なりけりとこそ覚え侍しか。かくおびたゞしくふる事は、しばしにして止みにしかども、そのなごり、しばしは絶えず。よのつね、驚くほどの地震、二三十度ふらぬ日はなし。十日・廿日すぎにしかば、やうやう間遠になりて、或は四五度、二三度、若は一日まぜ、二三日に一度など、おほかた、そのなごり三月ばかりや侍りけむ。
四大種のなかに、水・火・風はつねに害をなせど、大地にいたりては、ことなる変をなさず。昔、斉衡(さいかう)のころとか、大地震ふりて、東大寺の御首(みくし)落ちなど、いみじき事どもはべりけれど、なほこの度には如かずとぞ。すなはちは、人みなあぢきなき事をのべて、いさゝか心の濁りもうすらぐと見えしかど、月日かさなり、年経にしのちは、ことばにかけて言い出づる人だになし。

現代語訳
 又、同じころのことだった。けた外れの大地震があった。それは通常のものではない。山は崩れて河を埋め、海は波高く陸地を襲う。土地は裂けて水が湧き、大きな岩が割れて谷に転がる。渚を漕ぐ船は波間に漂い、道行く馬は足の置き場に惑っている。都のまわりにあるいたるところの堂塔は一つとして満足なものはない。或いは崩れ、或いは倒れている。塵灰が立ち上り、それはまさにむくむく立ち上る煙のようだ。大地が動き、家が壊れる音、雷と異なることがない。家の中にいるとすぐにも押し潰されるようだ。走り出ようとすると大地が割れる。鳥のような羽もないので空を飛ぶこともできない。竜であったらきっと雲にでも乗ることであろう。恐ろしいものの中の恐ろしいものこそが地震だと思ったことだ。このように激しかったのは少しの間で終わったが、その余震はしばらく続いた。世の常、驚くほどの地震は二、三十回、来ない日はなかった。十日、二十日過ぎるとようやく間遠くなって、或いは四、五度、二、三度、もしくは一日おいて、二、三日に一度、などになり、おおかたその名残は三月ばかりになりやんだ。
 四大種の中で水・火・風は常に被害を及ぼすが大地においてはこのような被害を出すことはなかった。昔、文徳天皇のころだったとか、大地震が起こり、東大寺の大仏の首が落ちるなど、大事があったけれども、今回ほどではなかったという。大地震の直後は皆、どうにもならない被害について語ったが少し心の澱が取れると月日が経つにつれ言葉に出す人はいなくなった。

 忘れてならない東日本大震災  白井一道
 「忘れてはならない記憶を石に刻む」という津波記憶石がある。そこには次のような文章が刻まれている。
「千年後の命を守るために」
ここは津波が到達した地点です
もし大きな地震が起きたら、この石碑より上へ逃げてください
逃げない人がいても、ここまで無理やりにでも連れ出してください
家に戻ろうとしている人がいれば絶対に引き留めてください
女川中学校卒業生
宮城県牡鹿郡女川町にこの石碑は建てられました。宮城県牡鹿郡女川町、この町は太平洋沿岸に位置する町。東日本大震災の地震による津波で甚大な被害を受けました。
この悲しみを二度と繰り返さないために。
津波に奪われてしまった命を無駄にしないために。この東日本大震災で得た経験を次の世代に伝えるために、この石碑は建てられました。4,411棟あった家のうち、3,934棟が被害を受けました。

醸楽庵だより   1434号   白井一道

2020-06-09 11:29:35 | 随筆・小説



  世界史に見るパンデミック『ペスト』


 
 世界史に大きな影響を与えた感染症というと「ペスト」ということになろう。中世ヨーロッパ世界を変えるほどの大きな影響を与えたパンデミックがペストであった。ペストに感染すると、2日から7日で発熱し、皮膚に黒紫色の斑点や腫瘍ができるところから「黒死病」(Black Death)と呼ばれた。「黒死病」は、中国の雲南省地方に侵攻したモンゴル軍がペスト菌を媒介するノミと感染したネズミを中世ヨーロッパにもたらし、大流行したものであるとカナダ出身の歴史家ウィリアム・ハーディー・マクニールは主張している。また科学史家の村上陽一郎氏は中東起源説を主張している。
 ペストは、1320年頃から1330年頃にかけては中国で大流行し、ヨーロッパへ上陸する前後にはエジプトを中心にした成立したイスラム王朝マムルーク朝下において猛威をふるった。ペストが14世紀ヨーロッパ世界に拡大したのは、モンゴル帝国の成立が東西交易を盛んにしたことが背景になっている。当時、ヴェネツィア、ジェノヴァ、ピサなどの北イタリア諸都市は、南ドイツの銀、毛織物、スラヴ人奴隷などとアジアの香辛料、絹織物、宝石などの交易をとおして巨万の富を得ていた。こうしたイスラム世界と中世後期ヨーロッパ世界との交易の中心地は、インド洋、紅海、地中海を結ぶエジプトのアレクサンドリアであり、当時はイスラム王朝マムルーク朝が支配していた。
 1347年10月、ペストは、中央アジアからクリミア半島を経由してシチリア島に上陸し、またたく間に内陸部へと拡大した。コンスタンティノープルから出港した12隻のガレー船の船団がシチリアの港町メッシーナに到着したのが発端だという。ヨーロッパに運ばれた毛皮についていたノミに寄生し、そのノミによってクマネズミが感染し、船の積み荷などとともに、海路に沿ってペスト菌が広がったと推定されている。ペストはまず、当時の交易路に沿ってジェノヴァやピサ、ヴェネツィア、サルディーニャ島、コルス島、マルセイユへと広がった。1348年にはアルプス以北のヨーロッパにも伝わり、14世紀末まで3回の大流行と多くの小流行を繰り返し、猛威を振るった。正確な統計はないが全世界で8500万人、当時のヨーロッパ人口の3分の1から3分の2にあたる約2000万から3000万人前後、イギリスやフランスでは過半数が死亡したという。
 パンデミックという感染症の大流行という事態の背景にあるのは東西交易の隆盛ということがある。更にもう一つの要因としてあげられているのが封建反動と言われる事態である。窮乏化していく封建領主たちは、農民たちから過酷な徴税をした。そのため農民たちの身体に感染症に対する抵抗力が著しく弱体化していた。下層階級の人々ほど感染症への抵抗力がなかった。そのため多くの農民が死に絶えてしまった。こうしてパンデミックは社会経済体制が変わって行かざるを得ない状況が生まれて来た。
 ペストの流行でユダヤ教徒の犠牲者は少なかった。ユダヤ教徒が井戸へ毒を投げ込んだ等のデマが広まり、ジュネーヴなどの都市では迫害や虐殺の対象となった。ユダヤ教徒に被害が少なかったのは善行・慈善行為、気前の良い行動のこと、ミツワーにのっとった生活のためにキリスト教徒より衛生的であったという説がある一方、実際にはゲットーでの生活もそれほど衛生的ではなかったとの考証もある。
 アメリカ合衆国が全世界の覇権国として君臨した世紀が20世紀だった。20世紀は世界戦争と革命の世紀だった。第三次世界大戦とも考えられる冷戦にアメリカは勝利し、パックス・アメリカーナの時代が20世紀だった。そのアメリカが平価ベースで見ると中国にGDPで追い抜かれ、G7総合のGDPがE7総合のGDPに追い抜かれたのが21世紀に入ってからのことであった。傾き行くアメリカとG7の国々に追い打ちをかけたのが新型コロナウイルス感染症の世界的な蔓延だった。このパンデミックによって中国がアメリカに変わって世界に君臨する時代がやって来ているのかもしれない。アメリカは国民大衆の民主化を求める大規模なデモによって人種差別する社会から差別のないより徹底的な民主的な国になっていくことであろう。
 中国もまたアメリカからの干渉をはねのけるため強権的な政治をしているがアメリカからの干渉が弱まれば中国に対抗するような国が出てこない限り、中国はアメリカが世界中で暴力の限りを尽くしたようなことはしないであろう。世界中が平和的に共存する世界が実現するのではないかと想像している。

醸楽庵だより   1433号   白井一道

2020-06-08 11:59:10 | 随筆・小説



  方丈記8



原文
 仁和寺(にんわじ)に隆暁法印(りゆうげうほふいん)といふ人、かくしつゝ数も不知死る事を悲しみて、その首(かうべ)とに、額に阿字を書きて、縁を結ばしむるわざをなんせられける。人数を知らむとて、四・五両月を数へたりければ、京のうち一条よりは南、九条より北、京極よりは西、朱雀よりは東の、路のほとりなる頭、すべて四万二千三百余りなんありける。いはむや、その前後に死ぬる物多く、又、河原・白河・西の京、もろもろの辺地などを加へていはば、際限もあるべからず。いかにいはむや、七道諸国をや。
 崇徳院の御位の時、長承のころとか、かゝるためしありけりと聞けど、その世のありさまは知らず。まのあたりめづらかなりし事也。

現代語訳
 仁和寺の隆暁法印という僧侶はどれほど亡くなったのかが分からないほどであるのを悲しみ、その首が見える度毎に額に阿の字を書き、仏縁を結ばせることをした。死者の人数を知ろうと四、五月、両月の死者を数えたところ、京の一条から南、九条より北、京極から西、朱雀より東の、路の傍らの頭、すべてで死者は四万二千三百余りである。ましてその前後に亡くなる者多く、また河原・白河・西の京、もろもろの辺りの地域を加えれば際限がない。何たることか、七道諸国においても同じようなことだ。
 崇徳院の時代、長承の頃だったとか、このような事があったと聞いているが、その時の状況は分からない。最近では珍しいことである。

 世界史に見るパンデミック  白井一道
 人類の歴史において恐れられた感染症というと、その一つが天然痘である。天然痘の歴史は古い。エジプトのミイラに天然痘の痕跡が、紀元前1100年代に没したエジプト古王朝のラムセス5世のミイラに天然痘の痘痕が認められている。
 古代ギリシア、紀元前430年に流行した「アテナイの疫病」は記録に残された症状から天然痘であったと考えられている。
 6世紀、イスラームの聖典『クルアーン』の「象の章」には、エチオピアに天然痘が蔓延したことが神の奇跡として描かれている。
 コロンブスのアメリカ大陸上陸以降、白人の植民とともに天然痘もアメリカに侵入し、免疫のなかったアメリカの先住民族に激甚な被害をもたらした。白人だけでなく、奴隷としてアフリカ大陸から移入された黒人にも感染した。アメリカ大陸にあった二大帝国のアステカとインカ帝国滅亡の大きな原因の一つが天然痘であった。アステカに天然痘が持ち込まれたのは1520年頃、エルナン・コルテスの侵攻軍によってである。天然痘は瞬く間に大流行を起こし、モクテスマ2世に代わって即位した新王クィトラワクを病死させるなどしてアステカの滅亡の原因の一つとなった。さらにスペインの占領後も天然痘は猛威を振るい、圧政や強制労働、麻疹やチフスなど他の疫病も相まって、征服前の人口が推定2500万人だったのに対し、16世紀末の人口はおよそ100万人にまで減少し、中央アメリカの先住民社会は壊滅的な打撃を受けた。北アメリカ大陸では白人によって故意に天然痘がインディアンに広められた例がある。フレンチ・インディアン戦争やポンティアック戦争では、イギリス軍が天然痘患者が使用し汚染された毛布等の物品をインディアンに贈って発病を誘発・殲滅しようとしたとされ、19世紀に入ってもなおこの民族浄化の手法は続けられた。モンタナ州のブラックフット族などは、部族の公式ウェブサイトでこの歴史が伝えられている。ただし、肝心の英国側にはそのような作戦を行った証拠となる記録は残されていない。
 中国では、南北朝時代の斉が495年に北魏と交戦して流入し、流行したとするのが最初の記録である。頭や顔に発疹ができて全身に広がり、多くの者が死亡し、生き残った者は瘢痕を残すというもので、明らかに天然痘である。
 日本には中国・朝鮮半島からの渡来人の移動が活発になった6世紀半ばに最初のエピデミックが見られた。折しも新羅から弥勒菩薩像が送られ、敏達天皇が仏教の普及を認めた時期と重なったため、日本古来の神をないがしろにした神罰という見方が広がり、仏教を支持していた蘇我氏の影響力が低下するなどの影響が見られた。『日本書紀』には「瘡(かさ)発(い)でて死(みまか)る者、身焼かれ、打たれ、摧(砕)かるるが如し」とあり、瘡を発し、激しい苦痛と高熱を伴う天然痘の初めての記録がある。