醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1432号   白井一道

2020-06-07 10:42:37 | 随筆・小説



   方丈記7



原文
 さきの年かくの如くからくして暮れぬ。明くる年は立ちなほるべきかと思ふに、あまりさへ疫癘(えきれい)うちそひて、まさざまに跡形(あとかた)なし。世の人みなけいしぬれば、日を經つゝきはまり行くさま、少水の魚のたとへに叶へり。果てには笠うち着、足ひきつゝみ、よろしき姿したるもの、ひたすら家ごとに乞ひありく。かくわびしれたるものどもの、歩(あり)くかと見れば則ち斃れふしぬ。築地(ついぢ)のつら、道のほとりに飢ゑ死ぬるたぐひ、數もしらず。取り捨つるわざもなければ、くさき香世界にみちみちて、かはり行くかたち、ありさま、目もあてられぬこと多かり。いはむや河原などには、馬車の行きちがふ道だにもなし。賤(しづ)、山がつもも力つきて、薪(たきぎ)さへともしくなりゆけば、たのむかたなき人は、みづから家をこぼちて市に出でゝこれを賣る。一人がもち出でたるあたひ、猶一日が命をさゝふるにだに及ばずとぞ。あやしき事は、かゝる薪の中に、赤い丹(に)つき、薄(はく)など所々に見ゆる木、あひまじけるを尋ぬればすべき方なきもの、古寺に至りて佛をぬすみ、堂の物の具をやぶりとりて、わりくだけるなりけり。濁惡世(じよくあくせ)にしも生れあひて、かゝる心うきわざをなむ見侍りし。いとあはれなること侍りき。さりがたき妻、男持ちたるものは、その思ひまさりて深きもの、はかならずさきだちて死しぬ。そのゆゑは、我が身をば次にして、人をいたはしく思ふあひだに、まれまれ得たる食物(くいもの)をも、かれに譲るによりてなり。されば親子あるものはさだまれる事にて、親ぞさきだちける。又母の命つきたるをしらずして、いとけなき子のその乳を吸ひつゝふせるなどもありけり。

現代語訳
 前年はこうして辛うじて暮れた。明くる年は立ち直るだろうと思っていたところ、更に疫病が重なり、惨状が一層甚だしくなった。世の人が皆飢えて死ぬようなことになるなら、日がたつにつれ惨状がきびしくなり、干上がった魚みたいなものだ。果ては笠をかぶり、足を引きり、身形の整った者がひたすら家々を乞い歩く。このように困り抜いた者どもが歩くか思えば倒れたままになる。泥塀や路傍に飢え死ぬ者の数知れぬ。取り片付けることもないので臭い匂いが周り中に満ち漂い、変わりいく形、そのありさま、目も当てられぬことが多い。言うまでもなく、河原などには馬や車が行き交う道もない。怪しいや山賊も力尽き、薪(たきぎ)さえもが乏しくなると頼れる人のない方は自宅を壊し、市場で売る。一人で持ち出し売れた値は一日の命を支える事さえ及ばない。怪しいことはこのような薪の中に赤色の付いた箔(はく)が所々に見える木が交じり合っているのを尋ねると困り果てた者たちが古寺に押し入り、仏を盗み、お堂の仏具を破り取り、割り砕いたものである。汚れと罪悪に満ちた世に生まれ合わせ、このような疎ましい事態に出会ったものである。とても残念なことである。別れ難き妻や妻のいる男の思いには深いものがあり、必ずと言っていいほど先に死ぬ。その理由は我が身を後にして相手をいたわしく思っていればこそ稀に食い物が得られれば相手に譲ろうとしているからである。親子である者は決まって親が先に死ぬ。また母の命が尽きているのが分からずに稚き子がその母の乳房を吸いながら亡くなっていることもある。

 アフリカの飢餓  白井一道
 今から八百数十年前の日本社会に起きた飢饉によって多くの人が亡くなったことが、現代世界のアフリカで起きている。飢饉による飢え死に事件である。現代世界に過去が蘇り襲ってきている。アフリカから全世界に広がった疫病がある。最近の例でいうなら、エイズウイルスの蔓延があった。アフリカ中西部のチンパンジーが好物の猿を食べたことにあると言われている。アフリカで発症した感染症が全世界に蔓延した。新型コロナウイルスに感染し、死亡した人の数の多いのがアメリカである。アメリカは世界の中でも最も貧富の格差が大きい国である。感染死者の多くは貧困層である。災害は弱者を直撃する。八百年前の日本社会にあっても最も大きな打撃を受けたのは貧困層である。災害は弱者を直撃する。がしかし、裕福な人々をも災害は襲う。災害は全国民的問題であると同時に全世界的な問題でもある。貧富の格差の解消をすることなく災害を防ぐことはできない。災害は人災であるという認識を全国民的なものにすることなしには乗り切ることはできない。災害は社会を変革する。

醸楽庵だより   1430号   白井一道

2020-06-06 10:56:37 | 随筆・小説



   方丈記6



原文
 又養和のころとか、久しくなりておぼえず、二年(ふたとせ)が間(あひだ)、世中飢渇(よのなかけかつ)して、浅ましき事侍りき。或は春夏ひでり、或は秋、大風、洪水など、よからぬ事どもうち続きて、五穀ことごとくならず。むなしく春かへし、夏植うるいとなみありて、秋刈り冬收むるそめきはなし。
是によりて國々の民、或は地を捨てゝ堺をいで、或は家を忘れて山にすむ。さまざまの御祈はじまりて、なべてならぬ法ども行はるれども、更にそのしるしなし。京のならひ、なにわざにつけても、みな、もとは田舍をこそ頼めるに、絶えて上るものなければ、さのみやはみさをも作りあへん。念じわびつゝ、さまざまの財物かたはしより捨つるがごとくすれども、更に目見たつる人なし。たまたまかふるものは、金を軽くし、粟を重くす。乞食路のほとりに多く、憂へ悲しむ聲、耳に満てり。

現代語訳
 また養和の頃であったか、昔のことなのではっきりしない。二カ年間、世の中飢えて浅ましいことがあった。それは春と夏の旱(ひでり)、それは秋の大風、洪水など、災害が打ち続き、五穀が悉く実らなかった。無意味に春耕し、夏に植える作業をして、秋には収穫して冬蓄えることがなかった。
 この事によって各地の民、或る民は土地を捨て故郷を出る。或る民は自宅を出て山に住む。さまざまな祈りが始まり、特別な祈祷も行われるが、特にその効果もない。京の都の生活は何をするにしても、すべて田舎に頼っているので田舎から何も上がって来るものが無くなるとそうそう平気な顔をしていられようか。残念なことだと思いつつも様々な家財を片っ端から捨てるように売りさばこうとしても買ってくれる人はいない。たまたま買ってくれそうな人は安く値切り、食べ物を高く売りつける。乞食がたむろする中りに多く、憂い悲しむ声が耳に満ちる。

 天明の大飢饉 『後見草』杉田玄白より
 「扨此の後に至り御府内は五穀の価少し賎く成しか共、他国はさして替りなく、次第に食尽て、果は草木の根葉までもかてに成るべき程の物くらはずといふ事なし。或ひは松の皮をはぎ餅に作りて喰ふの由、公にも聞召し、飢を凌ぐの為なれば藁餅といふ物を作り喰へと触られたり。其の製法は、能わらのあくをぬき粉にはたきて、一升あらば米粉三合まぜ合わせ、蒸し搗て餅となし是を喰ふ事なりき。其の中にも、出羽、陸奥の両国は、常は豊饒の国なりしが、此年はそれに引きかへて取わけの不熟にて、南部、津軽に至りては、余所よりは甚しく、銭三百文に米一升、雑穀も夫に准じ、後々は銀拾弐匁に狗壱疋、銀五拾匁に馬一疋と価を定め侍りし由。
 然ありしにより元より貧き者共は生産の手だてなく、父子兄弟を見棄て我一にと他領に出さまよひ、なげき食を乞ふ。されど行く先々も同じ飢饉の折からなれば…日々に千人二千人流民共は餓死せし由、又出で行く事のかなはずして残り留る者共は、食ふべきものの限りは食ひたれど後には尽果て、先に死したる屍を切取ては食ひし由、或は小児の首を切、頭面の皮を剥去りて焼火の中にて焙り焼、頭蓋のわれめに箆さし入、脳味噌を引出し、草木の根葉をまぜたきて食ひし人も有しと也。
 又或人の語りしは、其ころ陸奥にて何がしとかいへる橋打通り侍りしに、其下に餓たる人の死骸あり、是を切割、股の肉、籃に盛行人有し故、何になすとぞと問侍れば、是を草木の葉に交て犬の肉と欺て商ふなりと答へし由。かく浅間しき年なれば、国々の大小名皆々心を痛ましめ饑を救はせ玉へ共、天災の致す所人力にては及がたく、凡そ去年今年の間に五畿七道にて餓死せし人、何万人と云数知れず、おそろしかりし年なりし。(中略)
 夏も過ぎ漸く秋に至りぬれば新穀も出来り世の中少し隠なり。されども昔より人の申伝へし如く、飢饉の後はいつとても疫癘必ず行はるとかや。今年も又其の如く此の病災にかかりては死亡する者多かりき。遥か程過侍れて後、陸奥国松前かたに罷りし人帰り来て語りしは、南部の五戸、六戸より東の方の村里は飢饉疫癘両災にて人種も尽けるにや、田畠は皆荒はてて渺々たる原野の如く、郷里は猶有ながら行通ふ人もなく、民屋は立並べど更に人語の響もなく、窓や戸ぼそを窺へば天災にかかりし人葬り弔ふ者もなく、筋肉爛れ臥もあり、或ひは白骨と成はてて煩ひ寐し其の侭に、夜の物着て転もあり。又路々の草間には餓死せし人の骸骨ども累々と重なり相合ひ、幾らともなく有けるを見過ごし侍ると申たり。かかる無慙の有様如何に乱離の後にても及ぶまじとぞ聞へしなり。此の躰に侍れば何時何の年耕作むかしに立帰り、五穀の実のり出来ぬべし、苦々敷世のさまなりとぞ申けり。又或人の語りしは、白河より東の方、此の一両年の凶作にて、婦人の月経めぐり来らず、鶏玉子を産ざる由、是も一つの異事なるべし」

醸楽庵だより   1430号   白井一道

2020-06-05 10:36:40 | 随筆・小説



   方丈記5



原文
その時、おのづから事のたよりありて、摂津國(つのくに)今の京に到れり。所のありさまを見るに、その地ほどせまくて、條里をわるにたらず。北は山にそひて高く、南は海に近くてくだれり。なみの音つねにかまびすしくて、潮風殊にはげしく、内裏は山の中なれば、かの木の丸殿もかくやと、なかなかやうかはりて、いうなるかたも侍りき。日々にこぼちて川もせきあへずはこびくだす家はいづくにつくれるにかあらむ。なほむなしき地は多く、作れる屋はすくなし。ふるさとは既にあれて、新都はいまだならず。ありとしある人、みな浮雲のおもひをなせり。元より此處に居れるものは、地を失ひてうれへ、今うつり住む人は、土木のわづらひあることをなげく。道のほとりを見れば、車に乘るべきはうまに乘り、衣冠(いかん)、布衣(ほい)なるべきはひたゝれを着たり。都の手振りたちまちにあらたまりて、唯ひなびたる武士にことならず。これは世の亂るゝ瑞相とか聞きおけるもしるく、日を經つゝ世の中うき立ちて、人の心も治らず、民のうれへつひにむなしからざりければ、おなじ年の冬、猶この京に歸り給ひにき。されどこぼちわたせりし家どもはいかになりにけるにか、ことごとく元のやうにも作らず。ほのかに傳へ聞くに、いにしへのかしこき御代には、あはれみをもて國ををさめ給ふ。則ち御殿に茅をふきて軒をだにとゝのへず。煙の乏(とも)しきを見給ふ時は、かぎりあるみつぎものをさへゆるされき。これ民をめぐみ、世をたすけ給ふによりてなり。今の世の中のありさま、昔になぞらへて知りぬべし。

現代語訳
 その頃、偶然用事があり、摂津の今の都に行ったことがある。新しい都の有様をありさまを見ると土地は狭く、条理の区画が整っていない。北側にある山は高く、南は海に向かってなだらかな坂になっている。波の音が絶えずうるさく、潮風が特に強い。内裏は山の中にあるので荒削りの丸太で造った仮の御殿もどのようなものかと思って見て見るとなかなか立派に造られているのが新鮮であった。日々土地を削り、川を堰き止め、川幅を広げ、壊された家々はどこに造られるのだろうか。それでもなお空き地は多く、造られている家は少ない。京の都は既に廃れ、新しい都はまだ出来上がっていない。ありとあらゆる人は皆漂白の思いをしていた。もとからこの地にいる人々は土地を失い憂い、今移り住もうとしている人は建設が捗らないことを嘆いている。道の畔を見ると牛車に乗るべき人が馬に乗り、冠をかぶり、正装すべき人が庶民の平服を着ている。都の風習がたちまち改まり、ただひなびた武士と異なることがない。これは世の中が乱れる兆しだという噂があり、日がたつにつれ世の中が浮足立ち、人心の落ち着かず、民衆の憂いがついに現実のものになったので同じ年の冬、この京の都に帰ることになった。しかしながら壊されてしまった家々はどうなるのか、ことごとく元のように造り直すことはできない。仄かに伝え聞くことによると昔の賢明であった時代には民を慈しみ国を治めた。すなわち、御殿の茅は葺いても軒を整える事はなかった。煙が乏しいのが分かれば決められた税が許された。これは民を助けるためになされたことである。今の世の中のあり様は昔と比べて残念なことである。

 歴史を創造するのは民衆である   白井一道
 フランス革命を成し遂げ、フランス人民がフランス共和制を実現した。
 フランス国王一家は1789年9月の市民によるヴェルサイユ行進によって、ヴェルサイユからパリのテュイルリー宮殿に移された。革命の進展に不安を抱いた国王夫妻は密かに国外脱出を策した。1791年6月、フランス部隊の若いスウェーデン人大佐アクセル=ド=フェルセン(マリー=アントワネットの恋人)が周到に準備し、20日深夜、国王ルイ16世は従僕に変装し、王妃・王の妹と共にテュイルリー宮殿を脱出、馬車で東に向かった。騎兵隊が途中ヴァレンヌで出迎えて護衛する予定だったが農民に脅されて退却してしまった。一行は途中の宿駅長に見破られ、21日深夜捕らえられた。
 6月25日、パリの民衆は怒りの沈黙のうちに王の帰還を迎えた。民衆の多くは、王の逃亡をはじめて聞かされたとき、王がいなくても朝の太陽がのぼったと言って驚いたほど素朴であった。しかしこの素朴な信頼が、ただちにはげしい怒りにかわることもさけられなかった。その種子をまいたのは、王自身であった。河野健二『フランス革命小史』より
 国王がいるから太陽は登ると民衆は信じていた。

醸楽庵だり   1429号   白井一道

2020-06-04 11:02:00 | 随筆・小説



  方丈記 4



 又治承四年水無月の頃、にはかに都うつり侍りき。いと思ひの外なりし事なり。おほかたこの京のはじめを聞けば、嵯峨の天皇の御時、都とさだまりにけるより後、既に四百歳を經たり。ことなるゆゑなくて、たやすく改まるべくもあらねば、これを世の人、やすからず憂(うれ)へあへる、実(げ)にことわりにも過ぎたり。されどとかくいふかひなくて、みかどよりはじめ奉りて、大臣公卿ことごとくうつろひ給ひぬ。世に仕(つか)ふるほどの人、誰かひとりふるさとに殘りをらむ。官位(つかさくらゐ)に思ひをかけ、主君のかげを頼むほどの人は、一日なりとも、とくうつらむと励(はげ)み、時を失ひ世にあまされて、期(ご)する所なき者は、憂へながらとまりをり。軒を爭ひし人のすまひ、日を經つゝあれ行く。家はこぼたれて淀川に浮び、地は目の前に畠となる。人の心皆あらたまりて、たゞ馬鞍をのみ重くす。牛車を用とする人なし。西南海の所領をのみ願ひ、東北國の庄園をば好まず。

現代語訳
 1180年6月2日、突然遷都があった。とても意外なことである。そもそもこの京の都の始まりを聞くと、嵯峨天皇の御時、都として定まってからと言うもの、既に四〇〇年を経ている。これといった理由もなく、たやすく改めるべきものでもないので、この事を世間の人が不安に思いブツブツ言い合ったのは実に当然なことであった。しかしながら何を言ってもしかたなく、陛下を初め移られたので、大臣公卿皆悉く移られた。朝廷に仕えるほどの人の中で誰か一人でも京に残る人はいないのだろうか。自分の官位を思い、主君からの恩顧を願う人は一日も早く移ろうと励み、時勢に後れ世間から忘れられ、将来に望みを持たない者は憂いながら京に留まっている。軒を競った人の住まいは日がたつにつれ荒れて行く。家を解体した木材は淀川に流し、宅地は見る間に畑になる。人心は皆改まり、ただ馬の鞍に荷物を積む。牛車を用いる人はいない。紀伊・淡路・四国の所領を望み、東北の荘園を望む者はいない。

 平清盛と福原遷都   白井一道
 清盛が遷都によってめざしたものは、古い制法の束縛からの解放であった。制法とは、貴族一般に染みついている古い慣習や考え方のことである。京都では何をするにも旧来の慣例や偏見が大きな障害になる。平安京は法皇をはじめとする貴族と寺社勢力が団結して、新しい独裁者である平氏を閉め出すための制法の砦であった。新しい政治を始めるには、制法を生み出し、院政の基盤となる古代的貴族社会そのものを否定する必要があったのである。つまり、平安京を捨てることが前年のクーデターの総仕上げであり、それによって平家のめざす真の意味での武家政権の樹立が成るのである。
 しかし、この福原遷都は半年で終わりを告げる。周囲の貴族たちばかりではなく、宗盛をはじめ一門の多くが、京都への帰還を希望していたのである。特に宗盛とは口論になるほどであった。一門のうち還都に反対したのは平大納言時忠一人だけだったという。またちょうどこの頃、干ばつと疫病の難が人々を襲った。七月下旬には九条兼実や摂政基通など多くの人が病気になり、特に高倉上皇の病気は重かった。さらに延暦寺の衆徒が、遷都を止めなければ山城・近江を占領するとまで言い出したのである。さすがの清盛も、還都を認めざるを得ない状況になっていた。こうして平家の威信は地に墜ち、武士の平家離れは一挙に進み、比叡山も源氏に与力するようになった。また、公卿の間でも後白河法皇の院政を復活させようという意見がでるなど、清盛のクーデターを真っ向から非難する姿勢も見えだした。
 結局、「平家最大の悪行」といわれる福原遷都は失敗に終わった。しかし、一体これはだれにとっての“悪行”だったのだろうか。晩年の清盛が尽力した政策が公家政権のためではなく、あくまで平家政権の存続という利己的な理由によるところが“悪”だというのなら、それも間違いではない。たしかに公家にとって平家の政策の数々は“悪”である。中でも福原遷都は伝統的な公家政治を否定し、新たな軍事独裁政権の樹立を目指すものだったからだ。一般に、平家が源氏に負けたのは、平家が藤原氏のまねをして貴族化し柔弱になったためだという捉え方が浸透しているが、必ずしもそうではないということがこの「福原遷都」からわかる。遷都こそ、武家政権樹立に対する清盛の熱意の現れであり、清盛が天皇の外祖父になったことだけで満足していたのではないことがわかる。手段と目的を取り違える清盛ではなかった。 「平家資料館」より

醸楽庵だより   1428号   白井一道  

2020-06-03 10:56:06 | 随筆・小説



  法の支配ということ



 「時代背景は異なるが17世紀の高名な政治思想家ジョン・ロックはその著「統治二論」(加藤節訳、岩波文庫)の中で「法が終わるところ、暴政が始まる」と警告している。心すべき言葉である。
 ところで仮に安倍総理の解釈のように国家公務員法による定年延長規定が検察官にも適用されると解釈しても、同法81条の3に規定する「その職員の職務の特殊性またはその職員の職務の遂行上の特別の事情からみてその退職により公務の運営に著しい支障が生ずると認められる十分の理由があるとき」という定年延長の要件に該当しないことは明らかである」。
 このように「ロッキード事件などを担当した元検事総長の松尾邦弘氏ら検察OBと、元法務省官房長の堀田力氏ら、法曹界の重鎮14人が連名で、検察庁法改正案に反対する、森まさこ法務大臣あての意見書を法務省に提出」した批判文書にある。私は安倍総理の検察庁法口頭決済による解釈変更を法の支配に逸脱することだと理解した。黒川高等検事長の定年延長は違法行為、法の支配を終わらせることだ。安倍政権が違法行為をする。これが暴政ということなのであろう。安倍政治は暴政なのだ。このような暴政を国民が許すはずがない。だから自民党議員たちが次の選挙で落選する可能性が出てくることを心配して、自民党議員たちが安倍政権を終わらせた方がいいと思い始めることを安倍政権が危険水域に入ったとマスコミが言う。
 内閣支持率と自民党支持率の合計が50%を切ると内閣が危険水域に入ったといわれているようだ。安倍内閣は限りなく危険水域に入ってきているようだ。民主主義の国にあっては常に法の支配を逸脱し、暴政を始めようとする力が働くようだ。その動きを押し止めようとする力が選挙のようだ。安倍内閣にあっては小選挙区制が暴政を押し止める力が弱体化しているために能天気に森友学園問題、加計学園問題、桜を見る会問題など次々に問題を起こしても平気でいられるようだ。しかし新型コロンウイルス問題では安倍内閣支持率の回復が難しいのかもしれない。この感染症は直接国民の命を奪おうしているからである。誠実に国民の命を大事にする政策を実行することが求められているからである。単なる口先だけで国民を騙すことができないからである。真摯に誠実に国民の命を守る政策をしなければ、国民は安倍内閣に見切りを付けるに違いない。民主主義とは多数者支配の政治制度である。短絡的な多数決主義が民主主義だと考えている人々が圧倒的に多いと私は考えている。問題は本当に多数者なのかということなのだ。自民党の衆議院選挙における全有権者の内の何パーセントが自民党議員に投票しているのかというと17%ぐらいのようだ。全有権者の17%が自民党議員に投票している。83%の有権者は自民党議員に投票していない。選挙を棄権することで自民党を支持している人々が圧倒的な多数者なのだ。そのような消極的な支持によって自民党政権は維持されている。だからそれほど自民党政権は盤石なものではない。
法の支配を支えている民主主義制度というものはイギリスの革命、ピューリタン革命・名誉革命、アメリカの独立革命、フランス革命の市民革命によって憲法が制定されて法の支配が確立した。この革命を成し遂げた勢力は市民、新興ブルジュアジーと言われた資本家たちである。資本主義経済制度の確立を求めた人々である。この資本家たちは国王による独裁的な政治を嫌い倒したが自分たち資本家たちが独裁的な政治をすることを望んでいた。また独裁的な経営戦略を取らなければ統一的な体制を築くことができない。資本主義経済を体現する会社は社長以下のある意味独裁的な統一された指導体制がとられている。緊密に結びつけられた団体組織としての会社の中には独裁的な指導体制が築かれている。会社を組織する原理と国家を組織する原理は異なったものであるが資本主義経済体制をとる民主主義国家にあっては、絶えず民主主義を逸脱する暴政が起こりがちである。民主主義が少数意見を無視するようになると必ず暴政が始まっていく。資本家と言われる少数者が国民の支持を得て、多数者の意見としての政策を実現しようとするのならば、良いのであるが実際はそうではないようだ。擬制的多数者が支配する政治体制が民主主義政治の実態である。安倍政権の支持者は擬制的多数者に過ぎない。民主主義政治体制とは擬制的多数者支配の政治制度なのであろう。決して多数者の支持によって営まれる政治ではない。
 You tubeの番組で共産党の小池晃議員が我々は真の多数者の意見を代弁していると信じて政治をしていると話していた。

醸楽庵だより   1427号   白井一道

2020-06-02 13:07:42 | 随筆・小説



    新型コロナウイルスの世界的蔓延は世界を変える



 「鎖の強さは、もっとも弱い環によって決まる」。有名なイギリスの探偵小説作家コナン・ドイルの言葉のようだ。この言葉は野球やサッカーなどの団体球技の試合で良く使われる言葉だ。そのチームの強さは最も弱い攻撃力もしくは守備力の部分によって決まる。レギュラーメンバー全員の中で最も弱いメンバーの力がそのチームの強さということだ。レギュラーメンバー間に力の差があった場合、最も力の弱い選手の強さがそのチームの強さであるということだ。だからチーム力を維持するためにはその弱い選手を変えるということになる。
 囲碁や将棋のゲームにおいても同じようなことが言える。例えば将棋の場合、色々な戦法がある。大きく分けて居飛車戦法と振り飛車戦法がある。いま注目されている高校生棋士、藤井聡太7段は居飛車戦法を取っている。相手が振り飛車でも居飛車でも居飛車で戦う。居飛車戦法にもいろいろな戦法がある。将棋の純文学と言われている矢倉戦法がある。角変り腰掛け銀戦法、相掛かり戦法などいろいろある。藤井7段はどの戦法も使いこなすようだ。弱みがない。しかし大半の棋士にはそれぞれ弱みがある。序盤に弱い。中盤の読みに抜けることがある。終盤の読みが弱い。その強弱は相対的なものだ。誰より誰は強く、弱いというようにである。将棋の棋士の強さはその弱さによって計られているように思う。その弱さが全体の評価になっている。
 新型コロナウイルスの世界的蔓延はその国の弱さによってその国の強さが表れているように思う。世界最強の軍事的大国だと世界中の人々から思われているアメリカ合衆国の本当の強さが今赤裸々に現れているようだ。アメリカの死者数は10万人を超えている。これは世界最大数の死者数のようだ。なぜこのように死者数が多いのかと言うと貧困者数が多いからだ。堤未果著『ルポ貧困大国アメリカ』を読むとアメリカには黒人やヒスパニック、アジア系など貧しい人々がニューヨークに集まっている。それらの人々に新型コロナウイルスが感染しているのだ。弱者はソーシアルデスタンスなど取っていることができない。住まいが狭い。狭い地域に多数の住民が暮らしている。経済活動の自粛などしていることができない。毎日、働かなければ生活できない。それでも十分な食料を得ることが難しい状況が世界最大の経済大国で起きている。アメリカの真の国力が赤裸々に現れたのが新型コロナウイルスの蔓延であった。アメリカの国力の強さは弱さによって現れてくる。
 世界で最も美味しいフランス料理のお店はアメリカにあるという話を聞いたことがある。なぜなら世界で最も豊かな人々はアメリカに住んでいるからである。最も豊かな人々が最も美味しいフランス料理を食べているということだ。アメリカは世界で最も豊かな人々が住んでいるから世界で最も美味しいフランス料理のお店がある。にもかかわらず貧しい人々が大勢住んでもいる。99%の貧しい人々が1%の豊かな人々のために働いている国がアメリカのようだ。
 世界最強の軍事大国、世界最大の経済大国アメリカの真実は弱小国なのかもしれない。コロナウイルスは人間を差別しない。誰にでも感染し、死に至らしめる。豊かな白人であっても容赦しないのがコロナウイルスである。経済格差を是認することは国力を弱める働きをする。人間には能力差がある。この格差は一面的なものであり、決して全面的なものではない。にもかかわらず、人間の一面の能力差によって貧困に陥る人々がいる。それらの人々に対して優しい手を差し伸べることをしない新自由主義経済信奉者たちは自己責任を主張する。死後責任論は格差を是認する思想である。この思想に今、新型コロナウイルスが襲いかかっている。アメリカの真の国力をさらけ出している。
 このアメリカの姿を隠すかの如くにトランプ大統領は中国のコロナ対策や香港対策を批判しているがそれらによってアメリカの真の姿をアメリカ国民の目から覆い隠すことができるのだろうか。増大していくコロナ感染死を隠すことはできない。アメリカ政府はアメリカの現実に向かい合い、貧富の格差是正をする方向に向かう以外に解決する道はない。コロナウイルスがアメリカで蔓延したことはアメリカの政治経済を大きく変える契機になるに違いない。アメリカ政府は中国政府批判を行っているが、アメリカ政府にとっても中国との貿易関係を止めることはできないだろう。中国からの輸入や輸出を止めることは不可能であろう。中国は不メリカにとって最大の輸入国であると同時にメキシコやカナダに匹敵する輸出国でもある。

醸楽庵だより   白井一道   1426号

2020-06-01 10:55:47 | 随筆・小説



  方丈記 3



原文
 また治承四年卯月廿九日のころ、中の御門京極のほどより、大なるつじかぜ起りて、六條わたりまで、いかめしく吹きけること侍りき。三四町をかけて吹きまくるに、その中にこもれる家ども、大なるも小さきも一つとして破れざるはなし。さながら平に倒れたるもあり。桁(けた)、柱(はしら)ばかり殘れるもあり。又門(かど)を吹き放ちて、四五町が外(ほか)に置き、又垣を吹き拂ひて、隣と一つになせり。いはむや家の内のたから、數をつくして空にあがり、檜皮(ひはだ)、葺板(ふきいた)のたぐひ、冬の木の葉の風に亂るゝがごとし。塵を煙のごとく吹き立てたれば、すべて目も見えず。おびたゞしくなりどよむ音に、物いふ聲も聞えず。かの地獄の業風なりとも、かばかりにとぞ覺ゆる。家の損亡するのみならず、これをとり繕ふ間に、身をそこなひて、片輪(かたは)づけるもの數を知らず。この風、未(ひつじ)のかたに移り行きて、多くの人のなげきをなせり。辻風(つじかぜ)はつねに吹くものなれど、かゝることやはある。たゞごとにあらず、さるべき物のさとしかなとぞ疑ひ侍りし。

現代語訳
 また治承四年四月二九日の頃、中の御門京極の辺りから大きな辻風が起り、六条付近まで強く吹いたことがある。三、四町通り抜け吹いたのでその通りにある家々は大きな家も小さな家も一つとして壊れなかった家はない。すべて家が平らに倒れた状態だった。桁や柱だけが倒れている家があった。また門を四、五町先に吹き飛ばし、また垣が吹き払われて隣といくっ付いてしまった。言うまでもなく家財などすべての物が舞い上がり、檜皮や葺板の類まで冬の木の葉が風に乱れ飛ぶようだった。塵を煙のように吹き立てるならすべての物が見えなくなる。おびただしく鳴りたてる音に物をいう声も聞こえない。かの地獄の豪風であるかとこのように思った次第だ。家が損壊、無くなるだけでなく、これを繕っている間に身を傷つけ、手足を失う者が数知らず出た。この風は未の方角に吹き抜けて多くの人を困らせた。辻風は常に吹くものではあるが、このような事もある。ただ事ではなく、神仏のお告げかと疑ったことである。
 
 毛沢東の大飢饉 フランク・ディケーター著 大躍進の失敗による悲劇抉り出す
「一九五八年から六二年にかけて、中国は地獄へと落ちていった」で始まる本書は、大飢饉(ききん)の中の中国の悲劇を余すところなく抉(えぐ)り出す。文中の人肉食カニバリズムに悲劇が凝集されている。
タブーではなくなったのだろう、最近では中国の有力な研究者も大躍進による「非正常な死」について堂々と発言し出した。リベラルな経済学者、茅于軾(北京天則経済研究所)は、自分のブログで毛沢東の誤りを徹底的に批判、1959~60年の飢饉による人口損耗は出生減が1624万人、餓死者が3635万人だと暴露した。茅はまた、反革命鎮圧70万人、三反五反運動の犠牲者200万人弱という毛沢東の「政治的殺人」を摘発する。
「(4年間で)4500万人が本来避けられたはずの死を遂げた」というのが本書の結論だが、著者が各地の公文書館で丹念に集めた資料は、趙紫陽総書記のブレインだった陳一諮などの作業グループの報告書が信頼に足ることを示しているという。陳は89年の天安門事件で亡命、ジャズパー・ベッカーは陳へのインタビューを使って『餓鬼(ハングリー・ゴースト)』(96年)を書いた。
大躍進失敗の初歩的な総括をした62年1月の中央工作会議(七千人大会)で劉少奇国家主席は「三分の天災、七分の人災」と表現して大躍進を批判し、毛沢東は、「中央が犯した誤りはすべからく直接的には私の責任に帰する。間接的にも私に責任のいったんがある」と、生涯を通じてただ一度、自己批判した。これまで現代史最大の悲劇である大飢饉を描いた本は少なくない。だが本書が類書と決定的に違うのは、各地の公文書館にある公的文書をいま可能な限り使い切っていること、毛沢東を文化大革命に追い込んだ心の闇に迫っていることだろう。毛の猜疑(さいぎ)心の底には、劉少奇こそ、独裁者スターリンを引きずり下ろしたフルシチョフのように、自分亡き後自分の罪状の数々を糾弾する秘密演説をするにちがいないとの暗い思い込みがあった、との分析には説得力がある。大飢饉は文革の序曲だったのである。(早稲田大学名誉教授 毛里和子)
[日本経済新聞朝刊2011年10月2日付]より

醸楽庵だより   1425号   白井一道

2020-05-31 10:36:05 | 随筆・小説



   『徒然草』を読み終えて



 読み終えて感じたことは、こんなものかという特に感じたものは何もなかった。感動した文章は一つもなかった。これが率直な感想である。このような文章が日本古典の三大随筆の一つにあげられていることに違和感さえ感じた。何が凄いのかが全然分からない。私には分からないということなのかもしれない。
建築家の安藤忠雄さんがテレビで次のような発言をしていたことを思い出した。安藤さんは若かったころ、ヨーロッパ旅行をした。ギリシア・アテネのパルテノン神殿は凄い建築だと聞いていたが実際のものを見て、こんなものかと何も感じなかったと話していた。建築家として大成してのち、再びパルテノン神殿を見た時には圧倒されるような建築に深い感動を覚えたとも発言していた。建築の教養を積み上げて後に再び見た時には全然感想が違っていたという話だった。
私にも日本古典の教養は何もない。強いて言うなら高校生の頃古典の授業を受けた記憶がある程度である。勉強した記憶もなく、その成績はどちらかと言うととても悪かったというのが実際である。私は定年退職後、芭蕉について勉強を始めた。芭蕉は独学で『徒然草』を読んでいるということを知り、私も読んでみようと思い、読み始めた。芭蕉はきっと貪るように大事に一字一字を食い入るようにして読み進めていたに違いない。手に入れる事すら難しかったに違いない。今のような注釈書も十分でない時代に時間をかけ、少しづつ読み進めていったのであろう。
貞享4年芭蕉は江戸深川の芭蕉庵にいた。遠く聞こえる鰹売りの声が聞こえた。あぁー、今じゃ初鰹は高嶺の花だなぁー。『徒然草』第119段の文章を思い浮かべ「鰹売りいかなる人を酔はすらん」と詠んだのかもしれない。「鎌倉の海に、鰹と言ふ魚は、かの境ひには、さうなきものにて、この比もてなすものなり。それも、鎌倉の年寄の申し侍りしは、「この魚、己れら若かりし世までは、はかばかしき人の前へ出づる事侍らざりき。頭は、下部も食はず、切りて捨て侍りしものなり」と申しき。かやうの物も、世の末になれば、上ざままでも入りたつわざにこそ侍れ」と『徒然草』119段にある。もともと庶民が好んで食べていた魚が今や庶民にとっては手の届かない高価な魚になってしまったと、芭蕉は鰹売りの声に俳諧を発見し、詠んだ句のようだ。芭蕉は間違いなく『徒然草』119段を読み、その上でこの句を詠んでいる。『徒然草』の教養があって初めて芭蕉の句に奥行きと深さが滲み出てきているのであろう。江戸の町人文化が花咲こうとしている時代を表現する句になっている。芭蕉の俳諧の裏には日本古典文学の教養があって初めて生れ出てきたものなのであろう。
世の中は移り変わっていくものだ。そのような無常なものだと「もののあはれ」を「鰹売りの声」に発見し、芭蕉は詠んだ。芭蕉の俳諧が文学にまでなった背景には日本古典文学を学んだ結果なのであろう。芭蕉にとって日本古典文学としての『徒然草』と現代に生きる私にとっての『徒然草』は大きく違っている。私にとっては芭蕉理解のための史料的意味以上のものを『徒然草』に見出すことができない。
人間の意識は時代に制約されたものであるということを私は『徒然草』を読み、確認した。兼好法師は第190段で次のように述べている。
「妻といふものこそ、男の持つまじきものなれ。「いつも独り住みにて」など聞くこそ、心にくけれ、「誰がしが婿に成りぬ」とも、また、「如何なる女を取り据ゑて、相住む」など聞きつれば、無下に心劣りせらるゝわざなり。殊なる事なき女をよしと思ひ定めてこそ添ひゐたらめと、苟しくも推し測られ、よき女ならば、らうたくしてぞ、あが仏と守りゐたらむ。たとへば、さばかりにこそと覚えぬべし。まして、家の内を行ひ治めたる女、いと口惜し。子など出で来て、かしづき愛したる、心憂し。男なくなりて後、尼になりて年寄りたるありさま、亡き跡まであさまし。
いかなる女なりとも、明暮添ひ見んには、いと心づきなく、憎かりなん。女のためも、半空にこそならめ。よそながら時々通ひ住まんこそ、年月経ても絶えぬ仲らひともならめ。あからさまに来て、泊り居などせんは、珍らしかりぬべし」。
妻通婚が理想的な婚姻関係であった時代、保守的な男は妻との同居を煩わしいもとして受け止めていた。男にとって通う女が数人いても問題になることは基本的にない時代社会であった。そのような時代に生きた男の気持ちが表現されている。

醸楽庵だより   1424号   白井一道

2020-05-30 10:54:50 | 随筆・小説



    方丈記 予(われ)物の心を知れりしより


原文
予(われ)物の心を知れりしより、四十あまりの春秋をおくれる間に、世のふしぎを見ることやゝたびたびになりぬ。去(いんじ)安元三年四月廿八日かとよ、風烈しく吹きてしづかならざりし夜、戌の時ばかり、都のたつみより火出で來りていぬゐに至る。はてには朱雀門、大極殿、大學寮、民部の省まで移りて、ひとよがほどに、塵灰となりにき。火本は樋口富の小路とかや、舞人(病人)を宿せる仮屋(かりや)より出で來けるとなむ。吹きまよふ風にとかく移り行くほどに、扇をひろげたるが如くすゑひろになりぬ。遠き家は煙にむせび、近き辺たりはひたすら焔(ほのお)を地に吹きつけたり。空には灰を吹きたてたれば、火の光に映じてあまねくくれなゐなる中に、風に堪へず吹き切られたるほのほ、飛ぶが如くにして一二町を越えつゝ移り行く。その中の人うつし心ならむや。あるひは煙にむせびてたふれ伏し、或は炎にまぐれてたちまちに死しぬ。或は身一つからくして遁れたれども、資財を取り出づるに及ばず。七珍萬寳(しつちんまんぽう)、さながら灰燼となりにき。その費(つひ)えいくそばくぞ。このたび公卿の家十六燒けたり。ましてその外は數を知らず。すべて都のうち、三分が一に及べりとぞ。男女死ぬるもの數千人、馬牛のたぐひ邊際を知らず。人のいとなみみなおろかなる中に、さしも危き京中の家を作るとて寶をつひやし心をなやますことは、すぐれてあぢきなくぞ侍るべき。

現代語訳
 私はもの心が付いてから四十年余りの年月をおくった間に世の中の不思議を見る事が度々あった。去る安元三年四月二八日であったろうか。激しい風の吹き静かではなかった夜、午後八時頃、都の東南から出火し西北に燃え広がった。果ては朱雀門、大極殿、大学寮、民部省まで燃え移り、一日で塵灰になった。火元は樋口富(ひぐちとみ)の小路であったとか。病人が寝泊まりする仮屋から出火したようだ。縦横に吹く風に火足が移り行きほどに扇を広げたように末広がりに燃え広がった。遠くの家は煙にむせび、近くではひたすら焔が地に吹きついた。空には灰が吹き上がり、火の明りに照らされてそこら中が紅に染まる中を風に勢いに吹き切られた焔は飛んでいくかのように一、二町を越えて燃え広がっていく。その中の人はまさに生きた心地はしなかったであろう。或いは煙にむせび、倒れ、或いは焔に目が眩み、たちまち死ぬ。或いは身一つ辛うじて逃れたとしても、資財を取り出すことができない。あらゆる宝物がすべて灰燼に帰した。その費用は幾らになることだろう。この度、公卿の家が一六軒が焼けた。ましてその他は数が分からないほどだ。すべて都の中の三分の一に及んでいる。男女死んだ人が数千人、馬牛の類はどのくらいになるのかが分からないほどだ。人の営みは愚かなものであるが、そんなにも危険な都の中に家を造るため宝を費やし心を悩ますことは実につまらないことのように思われる。


 耐火材としての木材  白井一道
 「燃焼」とは、一般的に炎やそれによる発光を伴う。木材を加熱すると、初めは水分が空気中に飛び散る。その後可燃性の分解ガスが発生して、熱分解が盛んとなると、着火源がある場合には引火し、そうでない場合でも表面温度が高くなると発火する。火炎は空気中に生じており、対して木材表面では熱分解によって炭化層が形成される。こういった現象が三次元的に拡張し火炎が伝播することで「燃えている」状態となる。このことは有機質材料では同様に生じる現象であり、自身が熱源となって周囲へ燃焼が拡大する性質は、無機質材料(構造材料で言えば鋼材・コンクリート)との差異である。しかし、外的な加熱を要因とする、構造部材としての木材の強度低下に関する性能は、鋼材に勝っていると言える。高温下における機械的性質については有機・無機質材料でも、その性能は低下するのが一般的である。その温度と機械的性質に対する性能曲線に差はあるものの、特に鋼材については350度程度で弾性限界荷重が約半分になることが知られており、高温に弱い材料である。木材でも熱分解が盛んとなると健常状態の2割程度の強度となるものの、熱伝導率が鋼材に比して1/1000倍もの倍率であるために、同様の加熱条件であれば木材の方が強い。このことは木材表面からの炭化層の形成にも関係があり、形成された炭化層の熱伝導率は木材の1/2~1/3であることから、木材の内部方向への燃焼速度は比較的緩慢であり、この効果によって木材は急激な強度低下を抑制される。木材は鋼材より耐火性がある。

醸楽庵だより   1423号   白井一道

2020-05-29 10:30:49 | 随筆・小説



   前黒川弘高等検察庁長官辞任について 


 
 前黒川検事長が麻雀好きであり、賭け麻雀の常習者であることを政府官邸首脳は知っていた。評論家の佐高信氏は早野透氏、平野貞夫氏との『3ジジ放談』で述べていた。さもありなんと、『3ジシ放談』を聞いて思った。前文科省事務次官であった前川喜平氏が新宿歌舞伎町の風俗店に通っていたことを政府官邸官僚に呼び出され注意されたことを話していた。この事は後に新聞に出た。この事を思い起こすと前黒川検事長が賭け麻雀をして検察情報を産経新聞記者と朝日新聞記者に漏らしていたことを政府官邸は知りぬいていた。検察庁の高官が新聞記者と賭け麻雀をするということは、新聞記者たちが麻雀に負け続け、金を支払い続け、黒川氏との雑談を通して検察情報を得ていたということだ。それで良いと政府官邸は思っていた。警察官僚出身の政府官邸官僚は前川氏を呼び出し、注意したように黒川氏も呼び出され、注意をされたのかもしれない。こうして黒川氏は政府の意向に沿った検察を行った。
 例えば、国会で、甘利明前経済再生担当相の秘書らが都市再生機構(UR)に対して口利きをした問題が取り上げられ、高級自動車「レクサス」を“おねだり”していた音声データが公開されるなど、大物政治家とその秘書の「権力をカネにする」という出来事があった。「口利きの有無」というあっせん利得処罰法など、犯罪に関わる部分と無関係なことから、ほとんど取り上げられなかった。
 又、小渕優子前経済産業相(41)の関連団体の政治資金収支報告書に嘘の記載をしたとして、政治資金規正法違反(虚偽記載・不記載)の事件について東京地検特捜部は嫌疑不十分として小渕氏を不起訴とした。
 森友学園に国有地を8憶円値引きして売却するに当たって公文書を改竄したと訴えられた元佐川理財局長は起訴されることなく、退職し、退職金もほぼ満額貰っている。
 愛媛県今治市に加計学園グループの岡山理科大学獣医学部新設計画をめぐって問題が起きたがいつのまにか雲散霧消してしまっている。
 「桜を見る会」に安倍後援会員を多数招き、公費で接待した問題もいつのまにか誰も問題にしなくなってしまっている。
 東京検察庁は特に動くことがなかった。動くに値しない問題であったのだろう。特に東京検察庁が動く必要がないという法的論理を創ったのが前黒川高等検事長だったのかもしれない。
 このようなことから前黒川検事長は安倍内閣の守護神と拝められるようになった。私は法の精神に則って前黒川検事長は検察業務をこなしていたのだと思っていたが実はそうではなかったのかもしれないと思うようになった。賭け麻雀をしていることを前黒川検事長は政府官邸に知られていることを承知の上で今回も五月一日と十三日に麻雀をした。にもかかわらず今回に限ってなぜ週刊誌に漏れたのか。政府官邸がリークするはずがない。どこから漏れたのか。週刊文春記者に情報をリークしたのはもしかしたら、新聞記者なのかもしれない。
 産経新聞記者の中には高級官僚とずぶずぶの関係を持って記事を書く記者に対して快く思っていない記者がいて、この記者が文春記者に情報を漏らしたのではないかと想像する。否、そうではなく、朝日新聞記者の誰かがリークしたのではないかという憶測もあるようだ。検事総長は黒川ではないと予想し、そちらを主な取材対象にしていたのが朝日新聞だという。この朝日の記者がリークしたという。
 週刊文春記事が出て以降、官邸内には黒川氏を続投させることも可能だという主張もあったようだ。しかし黒川氏は辞任する意向を直ちに表明したので、官邸も慰留させることはできなかった。世論の大きな反発が予想されたからかもしれない。結果的には現稲田伸夫氏が後任の検事総長に推薦していた林真琴氏が東京検事長に就任することになり、行く行くは林氏が検事総長になるのかもしれない。安倍官邸の意図は挫けてしまった。
 この人事の成り行きによって現在広島で行われている2019年夏の参院選・広島選挙区(改選数2)での公職選挙法違反事件で、関与を疑われている自民党の河井案里氏(同区選出)と夫の克行氏(前法相、衆院広島3区選出)が、「国会議員として絶体絶命の窮地」に立たされることになった。広島地検が案里氏の公設秘書らを買収罪などで起訴、その後も河井夫妻や周辺関係者の捜査を集中的に進めているからだ。河井氏の事件が安倍晋三氏の政治生命にどのような影響が出て来るのか。大きな政治ドラマが今起ころうとしている。