醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1481号   白井一道

2020-08-03 16:05:06 | 随筆・小説


 
 産業資本の確立が資本主義の成立である



 市民革命がなければ産業革命は成立しない。イギリス革命と言われるピューリタン革命から名誉革命至る市民革命があったからこそイギリスで産業革命が成立した。いち早く産業革命を成し遂げた結果、イギリスで初めて資本主義経済が成立した。その結果、イギリスは世界で初めて世界の工場になった。
 なぜ市民革命を成し遂げなければ産業革命は成立しないのかと言えば、市民革命によって市民の需要を喚起し、産業革命を求める市民の要求が生れて来たからである。商品の需要が生れたのだ。木綿の布地でできたシャツを大量に求める市民が生まれて来た。この要求が産業革命を成し遂げた。
 産業革命が成立していく過程にあっては、人民の哀しい出来事があった。エンクロージャーと言われる土地の有力者がここは自分の土地だと述べ、その土地を囲い込み最初は牧羊業を営み、ジェントリーと言われた土地の有力者は羊毛を毛織物業者に売り、財産を築いた。慣例的に土地の使用権を持っていた農民たちは農地から追い出され、街場のスラム街に生活の場を移さなければならなかった。後には中世以来の三圃制を改良したノーホォーク農法が普及した。
 ヨーロッパの農地では地力の低下に対応するため,休閑を取り入れるなどの方法が行われていた。その後,休閑に代わって地力維持のために,飼料かぶ(かぶら)などの作物が利用されるようになってきた。その代表的な方法がノーフォーク農法である。18世紀にイングランド東部のノーフォーク地方で始まった農法で,大麦・クローバー・小麦・かぶ(かぶら)の順に輪作を行うため,四輪作法ともいわれる。休耕をなくし,牧草栽培による家畜の舎飼を可能にしたことによって,農業生産を飛躍的に向上させた。しかしこの農法は,土地の集約的利用が前提となっているため,囲い込みをさらに拡大させることとなり,これによって農業革命が進展することとなった。
 こうした農業革命の結果、イギリスでは議会が積極的に土地の囲い込みを推進した結果、農村から追い出された農民が街場のスラム街を形成するようになる。このような暗黒街の誕生が同時に労働者の誕生であった。このような労働者の出現をマルクスは資本の原始的蓄積と述べている。労働者の出現が資本の出現なのだ。
 イギリスで産業革命が生れてくるにはリバァプールという街なしには成立しない。リバァプールのあるイギリス北西部といえば、「労働者階級中心のエリアであり、南部と比べて貧しく天気も悪いが、人々は冗談好きで人情深い」というイメージを抱く人が多い。この街でビートルズが誕生したのは、そんな典型的な北西部の港町、リバァプールだった。メンバーはリバァプールで生まれ、リバァプールで少年時代を過ごし、リバァプールで出会いバンドを結成している。今や、ビートルズ誕生の地として世界的に有名になった街、リバァプールはまた井木里香産業革命発祥の地でもある。17世紀から18世紀にかけて大西洋三角貿易の中心地がイギリス、リバァプールであった。リバァプールの奴隷商人は銃器などを中心に雑貨を積み込み、西アフリカ奴隷海岸に行き、銃や雑貨と黒人奴隷とを交換した。西アフリカ奴隷海岸の奴隷狩り部族が集めた黒人奴隷とイギリス人奴隷商人は銃や雑貨とを交換した。奴隷を積み込んだ船は大西洋を渡り西インド諸島の砂糖プランテーション経営者と砂糖と奴隷とを交換した。砂糖を持ち帰ったリバァプールの奴隷商人はマンチェスターの綿布生産業者に売りざばぃた。綿布生産者は工場で働く労働者に砂糖入りの紅茶を飲ませた。インドから茶葉を手に入れた業者は茶葉を発酵させ、紅茶を生産した。南アメリカカリブ海地域で生産された砂糖を入れた紅茶がマンチェスターで流行した。綿布生産工場で働く労働者たちが好んで飲んだものが紅茶と蒸留酒のジンであった。ジンは価格が安いわりにアルコール度数が高く、酔いが早かった。このため、労働者や庶民の酒、ひいては「不道徳な酒」というイメージが出来上がった。イギリスにはワインのフランス、ビールのドイツといった大衆一般が好んで飲むものがイギリスにはなかった。その結果、紅茶がイギリス大衆の一般的な飲み物になった。それはイギリス産業革命の賜物の一つである。
 大量に生産されるようになったイギリス産綿布はインドへ輸出されるようになった。インドから原料の綿花を輸入し、製品としての綿布をインドに輸出した。インドの手織りの綿布生産者は仕事を奪われた。インド、西アフリカ奴隷海岸、西インド諸島のカリブ海地域の島々、イギリス国内の綿布工場で働く労働者の苦しみと貧困の上にイギリス綿布生産者の繁栄が築かれたのが産業革命であった。

醸楽庵だより   1480号   白井一道

2020-08-02 12:38:14 | 随筆・小説

  イギリスに残る封建遺制



 イギリスにおける身分制の廃止は充分なものではなかった。だから未だに身分制の残り滓がある。イギリス人に間には強固な身分意識があるようだ。法的な身分差別はないが、身分意識が強固に残っている。身分によって、英語のアクセント・服装・読んでいる新聞が違う。彼らは、同じ身分同士で交わるのを好み、違う身分の者を皮肉る。身分意識は読んで字のごとく、人々を順序付け、身分を隔てることでるが、現代日本には存在しない意識である。
イギリスには三つの身分意識がある。
Upper Class(上流身分)
王室、貴族、地主、資産家など。
パブリックスクールからオックスフォード大学やケンブリッジ大学に進学する。
Middle Class(中流階級)
ホワイトカラー。大学に進学するのは、一般的にこの身分以上に属する人達である。
Middle Classは、さらに3つに分かれる。
•Upper Middle Class(上位)
•Middle Middle Class(中位)
•Lower Middle Class(下位)
Working Class(労働者階層)ブルーカラー。
この身分に属する人達は、義務教育を終えるとすぐに社会に出るのが一般的で、大学に進学するのは稀のようだ。
英国では、「出自」がハッキリと身分の壁を作っている。基本的に自分の出自がそのまま身分を示している。もちろん、現代社会においては、労働者階層出身者であっても、学業成績次第ではオックスフォード大学やケンブリッジブリッジ大学に入学することができ、それを踏み台に自分の階層を上げていくことができる。
身分意識が根付いてしまう社会的背景とは
イギリスの社会制度、身分意識が、立身出世を困難なものにしている事実もある。上流、または上位中流出身者は、子どもの頃から親元を離れ、授業料の高い私立の寄宿学校に学ぶ。そこで、上流にふさわしい英語のアクセント・立ち振る舞い・ものの考え方を身につける。イートン校などの有名パブリックスクールでは、卒業生の子息には、学業成績にかかわらず座席が確保されている。優秀な成績を修めた公立学校出身の労働者階級出身者が、オックスフォード大学やケンブリッジ大学に進学した場合、身分意識という見えない壁にぶち当たるのは、想像に難くない。上流出身者には、彼らの間にだけ通じる流儀があり、それを身につけていない者は排除される。階層を上がっていくことは、並大抵のことではない。
話し方で分かる身分階層
階層差は、その人がしゃべる英語のアクセントに現れる。ロンドンの労働者の人々は、「コックニー」と呼ばれる強いなまりのある英語を話す。映画「マイ・フェア・レディー」の中で、主人公の花売り娘、イライザが話していた英語がコックニーである。上流の人々は、クイーンズ・イングリッシュを使い、標準とされているのは、BBCイングリッシュである。
オックスフォードやケンブリッジなどの有名大学では、独特の言いまわしやアクセントがあり、他と差別化を図っている。
それぞれの階級に流儀がある
サッカー選手として大成したデビッド・ベッカムの英語はコックニーである。彼は大金を稼ぎ、豪邸に住んでいるが、労働者階層に属している。
階層とお金の有無は無関係である。
どれだけお金を持っていても、労働者は自分の生活習慣を維持する人が多い。
上流にはその流儀があるように、労働者にも同じことがいえる。慣れ親しんだアクセント、生活習慣、ものの考え方がある。日本人には、階層意識のようなものはない。格差社会といわれて久しい日本であるが、日本には、階層意識は存在しない。格差は貧富の差であり、身分を隔てるものではない。一億総中流という言葉が存在したように、日本人の多くは、自分が中流階層に属していると考えていた時代があった。しかし、この中流意識とは、金持ちでもなく貧乏でもなくその中間に位置するという考え方で、イギリス人の考える中流意識とは違う。
イギリス人は、立身出世物語に興味を示さない。
日本では、貧しい家庭に生まれ、努力を重ね、立身出世を成し遂げることを仰ぎ見ることがある。野口英世の物語が語り継がれている。私たちは立身出世を美談として尊ぶが、イギリスには、小説の世界にもそのような物語は少ない。イギリス人はよく「労働者からのし上がるためには、サッカー選手かミュージシャンになるしかない」と言われている。

醸楽庵だより   1479号   白井一道

2020-08-01 15:38:44 | 随筆・小説


  
  家を建てる


 ぱたぱたと家立ち上がる秋日和  一道


句郎 今年の夏は蝉の鳴き声も聞くことないね。
華女 確かにそうね。私も蝉の鳴き声を聞いていないわ。
句郎 今日、暦を見て驚いたよ。八月七日はもう立秋なんだね。
華女 まだ、季節は大暑なんでしょ。
句郎 今年の夏は大暑らしい大暑もなく立秋を迎え、秋になっていくのかもしれないな。
華女 今年の梅雨は長いのよね。こんなに雨の多い梅雨は何年ぶりかしらね。
句郎 今年の梅雨は実に梅雨らしい梅雨だった。毎日、雨が降っていたような気がするな。
華女 雨の降らない日がなかったように感じるわ。
句郎 Tさんが転居し、土地のGさんの息子さんがその跡地に家を今建てているようだ。
華女 まだ十分、住めるような住宅なのに壊してしまったのは惜しいような気もするな。
句郎 今の若い人には気に入らない家だったのかもしれないな。
華女 一階の居間になっている部屋には床暖房が入っていたと聞いたわ。
句郎 ちょっとそんなことを聞くと確かに惜しいようにも感じるかな。
華女 若い人には新しい家が良いのじゃないのかしらね。少しお金がかかっても、人の住んだ家の後に入るのが嫌だったのじゃないのかしらね。
句郎 今じゃ、住宅にも賞味期限があるのかもしれないな。
華女 今や、住宅は消耗品なのじゃないのかしら。
句郎 親の住んだ家に息子夫婦は住まないようだからね。この間、Kさんに聞かれた。白井さんの家に住む予定の子供さんはいるのと、ね。
華女 私たちには子供がいないのをKさんは知らなかったのね。
句郎 特に話していなかったからね。Kさんは京都、丹後半島出身の人で、彼の実家は大きな農家だったようだ。その家に父親が亡くなった後、子供たちは皆、都会に出て、母親が一人で長いこと、その大きな家に居たと話していた。
華女 大きな欅の木を処分してくれと市役所から言われ、その大木を業者に切ってもらったら、百万円かかったという人ね。
句郎 そうそう、欅の大木の枝が道路に延び、自動車の通行に支障が出たので止むを得ず、業者に切ってもらったようだ。
華女 田舎の大きな家を相続すると大変ね。屋敷は草ぼうぼうのお化け屋敷になってしまうわね。
句郎 本当に何代にもわたって住み継がれてきた太い大黒柱のある家が廃墟になっていく。
華女 都市化が進んだ結果ね。田舎には若者の生活を支える働く場所がないから止むを得ないのかもしれないけれど。
句郎 春日部は東京のベットタウンの一つには違いないけれども、この春日部でも空き家が増えてきているようだよ。
華女 地区長さんが言っていたというじゃない。市長選の時だったかしら、越谷は人口が増えているにもかかわらず、春日部は人口が減ってきていると言っていたように思うわ。
句郎 確かにそう言っていた。僕たちが家を建てた時、一日で住宅金融公庫の申し込みで満杯になったからね。
華女 もう今から四五年も昔の事よ。今になってみるとまるで四五年なんて一瞬の事だったように感じるわ。
句郎 華女さんも今や白髪お婆さんになってしまったからね。
華女 私だけじゃないわ。あんたも同じだけ年を取っているのよ。
句郎 本当に五十年なんて、一瞬の間なのかもしれないな。
華女 「秋近き心の寄りや四畳半」という芭蕉の句があるでしよ。なにか、心に沁みるものがあるわ。
句郎 芭蕉名句の一つかな。芭蕉晩年の句だ。老境を見事に表現している句の一つかな。どんな住まいであろうと家は心の寄りに違いない。

醸楽庵だより   1478号   白井一道

2020-07-31 12:51:41 | 随筆・小説
 


  資本主義経済はいかに生まれて来たのか 9



 イギリスで綿布生産が始まった

 18世紀までヨーロッパの人々の基本的な衣類の素材は毛織物であった。イギリスやアルプス以北のドイツやフランスは寒冷な地域であった。この寒い地域に住む人々の衣類は暖かい毛織物であった。ジョン・ケイが発明した飛び杼も毛織物を織る道具の一種として発明された機器であった。
 17世紀のイギリスは、身分制社会であった。一般庶民は貴族が身に着けるような服を身にまとうことが許されなかった。服装によって身分の違いが一目瞭然に分かる社会であった。貴族の服装はさまざまな毛織物の布地をふんだんに使ったファッション性の豊かなものであったが、庶民は毛織物や麻の布でできたシンプルな服をボロボロになるまで着まわしていた。平民の商工業者が富を得ても貴族の服装を真似することすら許されなかった。
清教徒革命から名誉革命にいたる一連の市民革命の結果、貴族の服を作っていた職人たちが職を失い、市民の住む街中に洋服屋を開店した。富を得た市民たちは貴族の服装を真似たものを身に着けるようになった。特に市民に人気を得た服がインドから輸入されるようになったキャラコで作った服であった。
キャラコとは、インド産の綿布のことである。それまでの服装によく使われていた毛織物に比べて安価で耐久性も高く、洗濯もしやすいキャラコは、庶民にとって理想的な布であった。さらにインド独特の染色技法によるカラーとデザインは鮮やかで、民衆の心を奪うには十分すぎるほど魅力的でした。このキャラコの普及によって、民衆の服装は劇的に変わる。それはまさに従来の服飾概念を「解体」し、ファッション革命となるような衝撃的な出来事であった。
 この市民の味方ともいえるキャラコに対して、イギリス国内では反発も起こる。従来の毛織物業者にしてみれば、キャラコは強力な競合相手であった。
キャラコ輸入の反対デモなどが行われ社会問題になった結果、1700年にキャラコ輸入禁止法、1720年にはキャラコ使用禁止法が制定されるが、しかし、このときにはすでに後戻りできないほど、キャラコはイギリス民衆に深く根付いていた。キャラコの輸入が国内の製造業者を圧迫するなら、国内でより安く大量に生産すればいい。そう考えた人々が、キャラコの国産化に向けて綿織物の生産技術を研究し始める。
 1733年にジョン・ケイは、織物の横糸を通すときに用いる道具であるシャトルを飛ばすことで効率化させた「飛び杼(とびひ)」を発明した。手でシャトルを動かす必要がなくなり、よりスピーディに布を織ることができるようになった。この発明を皮切りに、織り機や紡績機の技術が格段に進んでいく。
 昔から、植物の繊維や動物の毛から糸を作り、布を作るという作業が行われてきた。それら天然繊維は、採取したまま布を作れるほど長くは無く、太くも無い。そのため、人々は天然繊維を撚って(=細長くねじって)糸にした。この作業が紡績である。後に糸車を使うようになった。
 1767年、ジェームズ・ハーグリーブスは複数の糸を同時に撚ることができる装置、ジェニー紡績機を発明した。効率は大きく向上し、細い糸を作るのにも適した装置だったが、太い糸を作るのには不向きだった。また、ジェニー紡績機は手動であり、仕組みも手作業の手順をそのまま装置化したようなものだった。18世紀中頃、リチャード・アークライトは、馬力を利用した馬力紡績機を発明し、次いで馬力カード機を使って毛の方向を揃える仕組みを開発した。これは動力源を人力から変えた画期的なもので、設置費用も安かった。カード機のアイディアは優れていたが、紡績部分が複数の滑車を使って糸を強く引っ張る仕組みだったので、太い糸を作ることはできたが細い糸は切れてしまい作れなかった。当時の織機は強い縦糸と細い横糸の両方が必要であり、ジェニー紡績機、アークライトの紡績機共に不完全だった。また、アークライトは1766年には水車を動力とする水力紡績機を作った。
この織物の技術発達は多方面にも大きな影響を及ぼし、社会全体が工業化への道へ進んでいく。19世紀に入るとイギリス国産の綿織物は、従来の毛織物を上回り重要な輸出品にすらなっていました。
このようにキャラコ国産化への動きが、織物生産技術の進歩と工業化に繋がり、イギリス産業革命の「創造」へ向けた大きな原動力になった。
インドからイギリスに輸入されたキャラコは、従来の服飾文化を「解体」し、一般庶民にファッション革命を起こした。その服装の変化や民衆の欲求が織物技術の向上を促し、産業革命になっていく。

醸楽庵だより   1477号   白井一道

2020-07-30 15:44:29 | 随筆・小説


 資本主義経済はいかに生まれて来たのか 8 
 


 古くて新しい問題・機械破壊運動

 1733年毛織の布地を織る横糸を通す機器「飛び杼」が発明されると手織りの職人がケイの発明で職を失うことを恐れ、国王にジョン・ケイが発明した機器を毛織物生産事業に利用しないよう請願したという。
 しかし毛織物を織る手間が一人分減らすことができ、作業能率を4倍に上げることが実現した。ジョン・ケイは飛び杼を発明しても大きな富を得ることなく、生涯を終えた。飛び杼の発明によって被害を受ける人々からの妨害があったからであろう。ジョン・ケイの生涯は不遇なものではあったが、産業革命の始まりを告げる「飛び杼」の発明は世界史的な出来事として全世界の人々の記憶に残る出来事であった。
 産業革命の始まりは同時に機械破壊運動(ラッダイト運動)の始まりでもあった。この問題は極めて現代社会の問題でもある。AIの普及が職を奪う。このような問題がある。
 AIは人間の仕事を奪うのか?  朝岡 崇史
 「1990年代以降、IT技術の導入がもたらす技術的失業を懸念し、テクノロジーの発達と普及に対して反対を唱える「ネオ・ラッダイト運動」が起き、ノーベル経済学賞の受賞者でもあるデール・モーテンセンとクリストファー・ピサリデスのような主流派の著名経済学者によって研究されるようになった。
「ネオ・ラッダイト運動」自体は「銀行にATMが導入されると窓口係が職を失う」「Amazonが普及すると街中の書店は廃業に追い込まれる」といった近視眼的なものだが、「シンギュラリティ」への道筋が明確になっていくに連れて、今後、似たような形で技術的失業に対するノイズが上がっていく可能性がないとは言えないだろう。
 デジタル化の急速な進展により、新聞や雑誌などのアナログのマスメディアが衰退する一方、インターネット関連のメディア(ウエブマガジン、企業のオウンドメディア、SNS、ネット通販サイトなど)が誕生し、ウエブマガジンの記者、ITエンジニア、ウエブデザイナー、ウエブ解析士など次々に新しい雇用を創出している。
 この変化は今後の企業経営者の取るべき戦略、つまり「ヒト・モノ・カネ」のリソース配分をどう考えるかという点で、具体的な方向性を示唆していると言えるだろう。
 それは、とりもなおさず、お客さまの気持ちの変化に寄り添う形で、コンピュータと人間との役割分担を考えることである。
 AIの導入で余剰になった人材リソースや資金をそこに重点投入して、お客さまとの接点で機能させて行くことが必要だ。
 銀行の窓口係、保険の営業職員や代理店の事務職員、携帯電話のショップの店員などはAIに仕事を奪われるのではなく、AIの導入によりその立ち位置がよりお客さまに近い場所へと変わり、AIができない「人間ならではの発想や価値の提案」をお客さま主語で専門的に担うことが求められるはずだ。
『白い巨塔』で描かれるアナログな医療の現場
「さすがに君だ、たった2枚のフィルムで、こんな早期の癌を発見できるとは、君の読影力の高さには頭が下がるよ」
 素直に感服すると、財前の顔に得意げな笑いがうかんだ。
「うん、まあ、これが僕の誇るに足るところだ、噴門癌の微妙な陰影の読影は、いうなれば科学ではなく、一種の芸術なんだよ、どこがどうだとか、どういう陰影はどう読影するかなどという定義は、あってないようなもので、何回も自分の目で見ているうちに会得し、解って来るものだよ、但し、それにはもちろん、非常に優れた勘と鋭い洞察力が必要だがね」 (『白い巨塔』 新潮社 山崎豊子)
 『白い巨塔』で描かれる財前教授と里見助教授のこのやり取りには、最先端の大学病院で勤務する医師にとってさえ、レントゲン写真の読影が科学ではなく芸術の領域のスキルであることを如実に語っている。」  
 資本主義経済は産業革命によって成立する。なぜなら産業資本が成立することによって資本主義経済は確立するからである。重商主義経済は新しい産業を生み出すことがなかった。アジアやアメリカからヨーロッパでは決して手にすることのできない特産物を持ち帰り、ヨーロッパで売りさばき、富を得ただけのことである。だからポルトガルもスペイン・オランダも一時期、日の沈むことのない帝国を築くことはできたが、継続して繁栄することはできなかった。イギリスのみが大英帝国を築いた。

醸楽庵だより   1476号   白井一道

2020-07-29 12:06:37 | 随筆・小説



 資本主義経済はいかに生まれて来たのか7



 重商主義時代
 冨とは金銀、貨幣の事である。金銀、貨幣を獲得するために積極的に国内で生産した物を輸出し、金銀、貨幣を獲得するべきだという考え方が重商主義である。重商主義の考えによって経済運営した会社がイギリス東インド会社である。産業革命以前の絶対王政期の経済政策が重商主義である。重商主義の代表的な思想家がトマス・マンであろう。「わが国には財宝を産出する鉱山がないのだから、外国貿易以外に財宝を獲得する手段がないことは思慮ある人なら誰も否定しないであろう」という言葉を残している。イギリスの重商主義には、・重金主義、・貿易差額主義という2つの考え方の発展がある。「重金主義」というのは、金銀を獲得する事が国力を増強する手段だと考えられた。国内の鉱山開発や海外からの金銀を獲得することであった。国内の金銀を外国に流失させない事も重要視した。「貿易差額主義」というのは輸入よりも輸出を多くしてその差額で金銀を獲得しようとする政策である。そのためには国際競争で優位を持てる産業を国内保護して輸出を増加させ。株式会社の起源となったオランダ東インド会社の係官トマス・マンが貿易差額主義を主張した。
 大航海時代の主役だったスペインやポルトガルが重金主義にもとづく政策を採用したのに対し、出遅れたイギリスで主流となっていたのが、重商主義のなかの貿易差額主義です。1648年にオランダが独立すると、イギリスは貿易面でオランダにも圧倒されるようになります。そこでこの状況を打破するために、1651年に「航海法」が成立。イギリスとその植民地への輸入品は、イギリス船、またはヨーロッパであれば現地の船で輸送するよう制限をしたのです。これによって、中継貿易を担っていたオランダを排除した。1652年、航海法に反発したオランダとの間に「第一次英蘭戦争」が勃発した。イギリスはこれに勝利し、貿易を通じて富を蓄積していく。「イギリス商業革命」と呼ばれる大きな成長へと繋がり、帝国の拡大に寄与した。
 フランスにおける重商主義の担い手は、ルイ144世の側近として財務総監を20年以上務めたジャン・バティスト・コルベールです。このことから、フランスの重商主義を「コルベール主義」ともいう。
フランスの財政を再建するために、国内の産業を保護、育成し、輸出を奨励しました。具体的には、中心産業だった毛織物や絹織物、絨毯、ゴブラン織などの産業を保護。また国立工場を設立して兵器やガラス、レース、陶器など新しい産業の育成に努めた。
さらに、フランス東インド会社、フランス西インド会社、ルヴァン会社、セネガル会社などを相次いで設立。市場の開拓と植民政策を推進し、新たな植民地を開発した。コルベールの重商主義によって蓄積された富は、王立科学アカデミーの設立やヴェルサイユ宮殿の建設費にあてられ、フランスの全盛期を支えた。
 商工業者たちは「外国製品が入ってくると、自分たちの作った物が売れなくなる」と、輸入品を規制する政策を求める。これを「国内産業の保護政策」という。しかし、そうは言っても国内のマーケットにも限界がある。国外にマーケットを求めるようになったのが海外の植民地獲得だ。17世紀の後半移行、イングランドやフランスがこぞって海外に植民地を求めるようになっていく。すると、これまでなら考えられなかったことだけれど、アジア、北アメリカやカリブ海などを主戦場に、イングランドやフランスが植民地の取り合いのために戦争を繰り返す時代がやってくる。かつての百年戦争を第一次と見て、この時代の英仏間の戦争は「第二次」英仏百年戦争と呼ぶことがある。第二次英仏百年戦争は世界的な規模の戦争になった。北アメリカ、インド、ヨーロッパで英仏は戦った。
 1757年、インドのベンガル地方で起こった、クライヴ指揮のイギリス東インド会社軍とフランス東インド会社軍の支援を受けたベンガル太守軍との戦争。このとき、イギリス・フランス両国は、南インドでも第3次カーナティック戦争を戦い、ヨーロッパでも七年戦争で対立関係にあり、アメリカ新大陸ではフレンチ=インディアン戦争(1754~63年)を戦っていた。つまり、イギリスとフランスの英仏植民地戦争は、世界的な規模で展開されていたということになる。
 ベンガル地方は豊かな農業生産力を有し、イギリス東インド会社はその地への進出を狙い、フランスの進出に備えるためと称して太守の許可無くカルカッタの要塞を増強した。ベンガル太守は工事中止を命じ、フランス軍の援助を求めた。英仏はプラッシーで戦い、英軍か勝利し、フランスは撤退した。

醸楽庵だより   1475号   白井一道

2020-07-27 12:33:55 | 随筆・小説


   
   資本主義経済はいかに生まれて来たのか6



 商業革命
 16世紀、大航海時代はヨーロッパ経済の中心を地中海岸から大西洋岸に換えた。
 大航海時代にポルトガルがインド航路を発見し、モルッカ諸島の香辛料貿易を独占し、繁栄した。スペインはアメリカ新大陸を征服し、インディオをほぼ絶滅させ、大量の銀を奪いヨーロッパに銀をもたらし田結果、貿易・商業のありかたのが大きく変わった。この大きな変化を商業革命と言われている。その要点は、 一つ、商業圏が世界的規模に拡大し、アジア・新大陸におよんだ。二つ、世界経済の中心地域が、従来の地中海周辺から、大西洋沿岸に移った。三つ、地中海交易で繁栄した高利貸し的な金融業者が没落した結果、ベェニスやジェノア、フィレンツェが衰退した。その結果新しい金融システムが形成された。四つ、.銀の大量流通によって物価が上昇し、地代に依存する領主階級の没落を決定的にした。
ヴェネツィアやフィレンツェに変わってリスボンとアントウェルペンが繁栄するようになった。ヴァスコ=ダ=ガマのカリカット到達(1498年)、カブラルによる香辛料貿易の開始(1501年)によって、インドからの香辛料が直接リスボンに運ばれ、そこからアントウェルペンを経てヨーロッパで商品化されるようになったことによって、従来の東方貿易の利益を独占していた北イタリアのヴェネツィアなどの商業都市国家の繁栄は終わった。同時に北イタリアと結びついていた、内陸の南ドイツやシャンパーニュ大市などの地位も低下し、かわってヨーロッパ経済の新たな中心地はリスボンとアントウェルペンなどの大西洋岸に面した港市に移動した。また、中世以来のフッガー家やメディチ家など旧来型の金融財閥は没落した。このような変化は政治的には、ハプスブルク家の神聖ローマ帝国の支配のもとで展開された。
 しかし、ポルトガルとスペインは、この段階では経済の発展に対して国家機構が十分に対応することができず、資本を蓄積することはなかったため、17世紀にはいると両国は没落し、かわって主権国家としての体制をつくりあげたオランダとイギリスが台頭し、世界経済の中心もアムステルダムとロンドンに移り、リスボン、アントウェルペンは衰退する。
 イギリスにおける生活革命
 17~18世紀のイギリスでは新大陸やインド、東南アジア、アフリカなどから綿織物、コーヒー、茶、砂糖などの物資がもたらされることによって衣服、食事、住居、その他生活全般が大きく変わった。
 17世紀のイギリスは、ピューリタン革命を経て名誉革命に至るイギリス革命によって政治体制が変革され、ジェントリと言われる中間層の経済力が高まっていった。並行して英蘭戦争や英仏植民地戦争で海外発展をとげ、海外に多くの植民地を支配するようになった。特にイギリス東インド会社によるアジア貿易と、イギリスとアフリカ・新大陸を結ぶ三角貿易によって、イギリスには急速に新しい物資が商品としてもたらされるようになり、人々を生活の面から変化させていった。
 特にインドからもたらされた綿織物は急速に普及し、国内でもその生産が始まり、従来の毛織物中心のイギリス産業のあり方と共に、その服装を一変させた。また西インド諸島などからもたらされたタバコ・コーヒー・砂糖はイギリス人の嗜好品の大きな部分を占めることとなり、ロンドンなどの都市にはコーヒーハウスが出現し、あらたな情報交換や商取引の場となっていった。また、中国からもたらされた茶も急速に庶民に広がり、インドやスリランカでも栽培されるようになり、新たな紅茶の文化が形成された。イギリスにはドイツのビールやフランスのワインに匹敵する国民的飲み物がなかった。イギリス民衆の飲み物として紅茶が定着していった。中でも「誇示的消費」と『有閑階級の理論』を書いたソースタイン=ウェブレンが述べたような消費者がイギリスに出現してきた。それらの人々の嗜好品の一つが煙草である。ラス=カサスの『インディアス史』では、「この草は乾いた葉につつんであって、紙鉄砲のような形に作られており、その一端に火をつけ、反対の端を吸って、息と共にその煙を吸うと、肉体が眠ったようになり、ほとんど酔っぱらったようになる。それで疲れが治るのだという。この紙鉄砲を、彼らはタバコと呼んでいる」と述べている。タバコの原産は南米アンデス山脈である。ヨーロッパ人渡来以前から先住民が用いていた。ニコチンが喫煙や噛みタバコや嗅ぎタバコにより体内に吸収される。紙巻タバコがもっとも吸収速度が速い。、人類は「禁断の快楽」に身を委ねることになる。

醸楽庵だより   1474号   白井一道

2020-07-26 14:44:59 | 随筆・小説



  資本主義経済はいかに生まれて来たのか5 
 


 1623年モルッカ諸島の一つ、セラム島アンボイナでイギリス東インド会社はオランダ東インド会社に敗北し、モルッカ諸島からインドへと向かった。セラム島は香辛料の中の丁子とナツメグの唯一の産地として重要であった。丁子はハムなどの保存食造りに必要不可欠なものであった。丁子はまたクローブとも言われている。スパイスとしては、このクローブのつぼみを乾燥させたものである。クローブのつぼみが「釘」のような形をしていることから、フランス語の釘「Clou」と同じ言葉を語源とする英語「Clove」と呼ばれるようになった。中国語でも、クローブの見た目から、釘の意味を持つ「丁」が当てられ、「丁子(ちょうじ)」や「丁香(ちょうこう)」などと呼ばれている。日本では、中国式の丁子や丁香、西洋式のクローブなどが用いられている。クローブは紀元前から各地で利用されてきた。インドの古代医術アーユルヴェーダでも消化器官の治療に使われている。ヨーロッパにも2世紀頃には伝わり始め、6世紀頃には貴族たちの間に広まった。日本の正倉院の帳外品のリストにも丁香(クローブ)の名が載っているが、仏教と深く関わっていることから、やはり料理用ではなく、お香や邪気払いとして使われたのではないかと推測されている。その後、クローブがスパイスとしての価値が高まったのは大航海時代である。16世紀には長らく不明とされていた原産地を特定したポルトガル人によって、クローブ取引は管理されていた。その後、世界一周を成し遂げたマゼラン隊のビクトリア号がマゼラン死後に香料諸島に到達し、大量のクローブを積みスペインに持ち帰り、高価な香料として益々需要は高まった。マゼラン隊には、もう一方のトリニダード号がクローブを積みすぎて浸水し、修理をしている間にポルトガルに捕まった逸話が残っている。17世紀に入るとクローブの生産管理はオランダ人の手に移り、18世紀の終わり頃にフランスがモーリシャスなどでクローブ栽培を盛んに行うようになり、各地で大農園を開いた。現在でも、モルッカ諸島のあるインドネシアがクローブの最大生産国である。『千夜一夜物語(アラビアン・ナイト)』に登場する船乗りシンドバッドがいる。シンドバッドは単に船乗りということではなく、インドからクローブなどの香辛料を運ぶ交易商人だった。
 17世紀のヨーロッパで富を築く物産は香辛料だった。この香辛料をヨーロッパ各国は奪い合った。その勝利者であったのはオランダであったが、産業革命後イギリスに追い抜かれ、イギリスの支配下に甘んじるようになる。その分水嶺にある出来事が1623年のアンボイナ事件である。オランダ商館は、イギリス商人が日本人傭兵らを利用してアンボイナのオランダ商館を襲撃しようとしているという容疑で、島内のイギリス人、日本人、ポルトガル人を捕らえ、拷問の末に自白させ、20名(イギリス人10人、日本人9人、ポルトガル人1名)を処刑するという事件が起こった。余談になるが1623年というと日本では江戸初期である。この時、日本人傭兵がアンボイナに居たことに驚いた経験が高校生の頃ある。日本の戦国時代の大名たちは敗戦国の敗残兵を捕まえ、東南アジアの国々に奴隷として販売していた歴史があることを後に知った。そうした歴史の上に江戸幕府が成立した時に出た多くの浪人武士たちの一部が東南アジアの国々の傭兵になった。日本国内に居場所を失った人々が東南アジアの国々に流れていった歴史が日本にはあるようだ。この歴史は戦前の日本にもあった。「カラユキさん」である。
からゆきさんとして海外に渡航した日本人女性の多くは、農村、漁村などの貧しい家庭の娘たちだった。彼女たちを海外の娼館へと橋渡ししたのは嬪夫(ぴんぷ)などと呼ばれた斡旋業者、女衒たちである。こうした日本人女性の海外渡航は、当初世論においても「娘子軍」として喧伝され、明治末期にその最盛期をむかえたが、国際的に人身売買に対する批判が高まり、日本国内でも彼女らの存在は「国家の恥」として非難されるようになった。英領マラヤの日本領事館は1920年に日本人娼婦の追放を宣言し、やがて海外における日本人娼館は姿を消していった。からゆきさんの多くは日本に帰ったが、更生策もなく残留した人もいる。
 世界の歴史とは強者に苦しめられる弱者の歴史のようである。その歴史はまた強者と弱者とが少しづつ対等になっていく歴史でもあるようだ。17世紀の東南アジアではオランダが覇権国として君臨したが長く続くことがなく、イギリスに追い抜かれ、世界史の舞台からオランダは退いていく。こうして強者であったものが弱くなり、歴史から消えていく。イギリスもまたアジア全域から退場していく。

醸楽庵だより   1473号   白井一道

2020-07-25 12:45:01 | 随筆・小説


 
 資本主義経済はいかに生まれて来たのか4



 イギリスの植民地獲得を担ったのはイギリス東インド会社である。東インドとは現在の南アジアのインドではなく、喜望峰から東の東南アジア、中国・日本までを意味していた。西インドが南アメリカ、カリブ海地域である。東インド会社とは国王の作った国営会社ではなく、商人が組織した会社であり、国王の特許状によって貿易独占権を持っていた。会社の目的は香辛料などのヨーロッパでは手に入れることのできない希少価値のあるものを獲得することが目的であり、当初は領土的侵略をすることではなかった。
 1600年、ロンドンの商人がインド以西のアジア各地との貿易を独占するため、エリザベス1世の特許を得て設立した。1601年からアジア貿易を開始したが1航海ごとに資金を集め、東南アジアの特産品、香辛料を獲得し、販売した富を出資者に分配した。
 イギリス絶対王政の最盛期、テューダー朝のエリザベス1世は、1600年12月、正式に「イギリス東インド会社」、つまり「東インド諸地域に貿易するロンドン商人たちの総裁とその会社」を法人と認める特許状を下付した。最初の東インド会社船4隻がロンドンを発ったのは1601年3月であった。500人以上が乗り組み、大砲を110門備えた武装船団である。翌年10月にスマトラのアチェに到着、さらにジャワ島のバンテンに立ち寄り、マラッカ海峡ではポルトガル船を襲い、積荷の胡椒などを略奪、1603年9月に無事イギリスに戻り、103万ポンドの胡椒を持ち帰った。ロンドンに入荷した胡椒はそこからヨーロッパ各地に売りさばかれた。
 イギリス東インド会社は、国王から貿易の特権を与えられた特許会社であり、それ以後、オランダ、フランス、デンマーク、スウェーデンといった西ヨーロッパ諸国が競って設立した東インド会社の最初のものである。その手本となったのは、すでに存在していたロンドン商人による地中海での東方貿易のためのレヴァント会社であった。それは一航海ごとに資金(株)を集め、船が帰国した後にその輸入品またはその販売代金を、投資額に比例して利益を分配するという株式会社の形態を採っていた。しかし、航海ごとに利益は分配されたため、恒常的・組織的な株式会社としては不十分なものであった。イギリスより遅れたが1602年に発足したオランダ東インド会社は、1回の航海ごとではなく、永続的に資金を集め、組織的な会社を組織し、利益を配当する形式をとったので、実質的な最初の株式会社と言うことができ、イギリスの東インド会社はその競争では後れをとることになる。
 モルッカ諸島は香料諸島とも言われ、香辛料の中の丁子とナツメグの唯一の産地として重要だった。1511年にマラッカを占領して東南アジアに進出したポルトガルがこの地に進出したが、次いでスペインのマゼラン艦隊が西回りで太平洋を横断してこの地をめざし、両国がこの地で争うようになった。初めはポルトガルが優位に立ってその香辛料を独占していたが、17世紀にはネーデルラント連邦共和国(オランダ)の東インド会社が進出してポルトガル勢力を駆逐し、アンボイナ島に要塞を築いた。それに対してやや遅れて進出してきたイギリスのイギリス東インド会社が、モルッカの香料貿易に割りこんできた。両国の東インド会社が激しく争ったが、本国ではその対立を回避しようとして、1619年に両社を合同させ、共同で経営させることを決定した。そのため、オランダ東インド会社のアンボイナ要塞の一部にイギリスも商館を設けることになった。
 本国では両社の合同は合意されたが、現地では依然としてオランダ人、イギリス人の対立が続いており、両社は対抗心を燃やしていた。そんなとき、1623年にオランダ商館は、イギリス商人が日本人傭兵らを利用してアンボイナのオランダ商館を襲撃しようとしているという容疑で、島内のイギリス人、日本人、ポルトガル人を捕らえ、拷問の末に自白させ、20名(イギリス人10人、日本人9人、ポルトガル人1名)を処刑するという事件が起こった。イギリス人と日本人の共謀した襲撃計画とは事実ではなかったらしく、オランダがイギリス勢力を排除し、モルッカの香辛料の独占をねらったものと考えられている。
 オランダのもくろみどおり、イギリスは事件に反撃することができず、東南アジアでの香辛料への進出をあきらめ、その後はインド方面への植民地進出をはかることとなる。この事件はイギリス国内の世論を刺激し、後の英蘭戦争の一因ともなった。
 重商主義経済政策による東南アジアの香辛料獲得にイギリスは敗北し、インドへの領土的侵略をする。

醸楽庵だより   1472号   白井一道

2020-07-24 12:31:04 | 随筆・小説



  資本主義経済はいかに生まれて来たのか3



 古代ローマの市民たちは中国人女性が紡いだ絹のドレスに魅了されたが、イギリス人たちはインド人女性がその指先でせっせと300番もの細い糸を早朝の湿気の中、手で紡いだ木綿のドレスの美しさに魅了された。マルクスは資本論で書いている。英国帝国主義者たちは、インド手紡ぎ職人の白骨でインド高原を白く染めたと。アフリカ奴隷貿易に使用されていたインドダッカモスリンに替わって、英国産業革命は機械製綿製品を奴隷買収商品として活用、リバプール港に歴史的繁栄をもたらした。
 インド、西アフリカを衰退・貧困化することによってイギリスに繁栄をもたらした。
 イギリス絶対主義王朝の全盛時代の女王エリザベス1世に「わたしの海賊」とまで言われナイトの称号も与えられた国家の英雄が「悪魔の権化」と言われた海賊であり、イギリス海軍提督でもあったフランシス・ドレイクである。彼はまたイギリス人として最初に世界一周を実現した人物としても知られている。人類の歴史上2番目の世界一周達成者は海賊ではあったがイギリスの貴族でもあった。
 フランシス・ドレイクには奴隷貿易で莫大な利益をあげたジョン・ホーキンスと言う親戚がいた。幼いころから水夫として働いていたドレイクは1567年、親戚のホーキンスに同行し10隻の船で奴隷貿易の旅に出発した。ところが航海の途中、海上で味方を装ったスペイン船の奇襲を受け、命からがら逃げ出せたのはたったの2隻で残りの船は沈められてしまったが、その2隻のうちの1隻がドレイクの船だった。20歳代の半ばだった若いドレイクにとってこの出来事は衝撃的で、この時の体験がスペインへの激しい敵対心を生み、スペイン船に対する残虐な掠奪行為をさせたのではないかと言われている。
1570年になると彼は西インド諸島でスペインの船やスペイン人の住む村を次々と襲い始めた。その後、サンブラス湾を根城に定め、カリブ海で海賊行為を繰り返し海賊として名前を上げていくが、そんな彼に転機が訪れる。当時イギリスは新興国で、海の王者スペインに対しては国を上げて対抗意識をもやしており、スペイン船やスペインの村を襲って蓄えた大量の財宝を持ってイギリスに帰還した彼は、エリザベス女王におおいに気にいられ女王専属の海賊となった。1577年エリザベス女王の許可を得て5隻の船団を組んで世界一周の旅に出た。出発当初は船員達には世界一周の事を伝えておらず、海賊行為のための出航と思っていた船員達も南米マゼラン海峡のあたりまで来るとさすがに船員たちにも不安をおぼえ始め不満も募ってくる。やがて反逆を企てる部下も出はじめるが、ドレイクは毅然とした態度でその部下を処刑し、先に進む強い意志を見せつけた。こうしてドレイクは南米西海岸の村々を襲撃しつつ北上し、ペルー付近ではスペインの大型帆船を襲って大量の宝石と18万ポンド(現在の価値で50億円以上)の金銀を手に入れる事にも成功した。
その後ドレイクは太平洋を横断し、フィリピン沖を通過しアフリカ喜望峰を廻って北上しイギリスのプリマスへと寄港し、1580年9月、ドレイクによる世界一周は達成された。ドレイクは海賊行為を繰り返しながらの航海で莫大な財宝を手にしていたが、それに加えて東南アジアでは丁字という香料を大量に仕入れて来たので、ドレイクが持っていた財産総額は60万ポンドを超えていた。ドレイクの船に投資した人達への配当はなんと4700%だった。一説には当時のイギリスの国庫金額を上回る額だったといわれている。とくに一番の出資者だったエリザベス女王は30万ポンドの配当金がはいり、女王はドレイクに「ナイト」の称号を与え「私の海賊」と言ってドレイクをねぎらった。
 一方、ドレイクによって莫大な被害を受けていたスペインはイギリスにドレイクに対する処分と損害賠償をたびたび求めたが、女王がこれに従う事は無く、その後も両国は互いに海賊行為の応酬を続けることになる。ドレイクもイギリスの主力としてカリブ海を舞台に次々にスペイン船を襲撃し、スペインの無敵艦隊をも撃破し、イギリスに多大なる利益をもたらした彼はついにイギリス海軍のトップにまでのぼりつめた。このころドレイクがスペインから奪った金銀は後にかの有名な「東インド会社」の資金に繋がって行く事になる。つまり、海賊だったドレイクがイギリスの植民地政策と世界支配の根幹を作ったと言っても過言ではないのだ。
 1600年植民地経営をする「東インド会社」をイギリスは設置する。17世紀のヨーッロッバ人にとって最も注目を集めた物というとそれは香辛料であった。この香辛料獲得に敗北したイギリスはインドに進出し、インドを植民地化していくことになる。