資本主義経済はいかに生まれて来たのか2
アフリカ黒人奴隷貿易が生んだ巨大な富が資本主義経済を育んだ。リヴァプールが黒人奴隷貿易で栄えた港街である。
「大西洋三角貿易のお蔭で、18世紀のヨーロッパには二つの新しい港湾都市が彗星の如く台頭した。すなわち、イギリスのリヴァプールとフランスのナントである。17世紀にすでに成長を開始していたブリストルやボルドーも、この貿易の拡大に伴っていっそう発展した。リヴァプールの最初の奴隷貿易船は、1709年にアフリカに向かった30トンの小型船であった。1783年になるとこの港は、奴隷貿易のために85隻、1万2294トンの船を保有するに至った。1709年から1783年までに、延べ2249隻、24万657トンの船がリヴァプールからアフリカに赴いた。年平均にすれば30隻、3200トンである。全船舶に対する奴隷船の比率は------。1771年には3隻に1隻が奴隷貿易船となった。1752年には88隻のリヴァプール船がアフリカから運び出した奴隷は2万4730人を数えた。
リヴァプールが1770年にアフリカへ輸出した商品は、豆類、真鍮、ビール、繊維品、銅、ロウソク、椅子、サイダー、索具、陶器、火薬、ガラス、小間物類、鉄、船、双眼鏡、しろめ、パイプ、紙、ストッキング、銀、砂糖、食塩、やかん。まるでイギリス物産の一覧表の感がある。当時、リヴァプール市民の人口に膾炙した常套句にこんなのがあった。すなわち、わが町の大通りを区切るのはアフリカ人の奴隷をつないだ鉄鎖、家々の壁に塗り込められたのは奴隷の血潮、というのである。実際、1783年までにリヴァプールは、商業の分野では世界一有名なというか不名誉な、というかは立場の問題だが都市のひとつとなった。赤レンガ造りの同市の税関が採用しているニグロの頭部を象った紋章こそは、このリヴァプールが何を踏み台として発展したかを無言のうちに、しかしきわめて雄弁に物語っている。エリック=ウィリアムズ/川北稔訳『コロンブスからカストロまで』1970 岩波現代新書 「資本主義と奴隷制」より
リヴァプールの奴隷商人は西アフリカで奴隷狩りをしていた部族から奴隷を仕入れ、奴隷を船に積み込み大西洋を渡って西インド諸島の島々の砂糖プランテーションで砂糖と黒人奴隷とを交換した。
「ニグロ(黒人)奴隷貿易とニグロ奴隷制、それにカリブ海地方における砂糖生産の結合は三角貿易の名で知られている。本国の商品を積んで出港した船は、アフリカ西岸でこの商品を奴隷と交換する。これが三角の第一辺である。第二辺はいわゆる「中間航路」、つまり西アフリカから西インド諸島への奴隷の移送である。最後に、奴隷と交換に受けとった砂糖その他のカリブ海地方の物産を西インド諸島から本国へ持ち帰る航路によって、三角形が完成される。奴隷船貿易だけでは西インド諸島の物産の運搬には不十分だったので、三角貿易の最後の一辺は、本国と西インド諸島間の直接貿易によって補完されていた。
三角貿易は、本国の物産に西アフリカと西インド諸島の市場を与えた。この市場のお陰で本国の輸出が増え、本国における完全雇用の達成が容易になった。アフリカ西岸で奴隷を購入し、西インド諸島で彼らを使役したことによって、本国の製造業も農業も測り知れないほどの刺激を受けた。たとえば、イギリスの毛織物工業にしてもこの三角貿易に大きく依存していたのである。議会内に設置された1695年の一委員会は、奴隷貿易がイギリス毛織物工業の刺激になっていることを強調している。それに、西インド諸島では毛布用としても羊毛が需要され、プランテーションの奴隷用衣服としても毛織物が需要された。エリック=ウィリアムズ/川北稔訳『コロンブスからカストロまで』1970 岩波現代新書
大西洋三角貿易によって西インド諸島からイギリスにもたらされた砂糖は、イギリス人の生活を大きく変えた。インドからもたらされる紅茶の飲用に欠くことができなくなり、イギリスの全階層にその消費が広がっていった。特にマニュファクチャーで働く労働者にとって甘い紅茶は栄養価も高く必要不可欠なものになった。その一方で、西インド諸島の黒人奴隷労働によるプランテーション経営やインドのモノカルチャー化によるその社会の破壊など、深刻すぎる変化をもたらしたことも忘れてはならない。また西インド諸島の砂糖プランテーション、後にアメリカ南部の綿花プランテーションに西アフリカから大量の黒人奴隷が供給された。西アフリカの黒人社会の破壊の上にイギリスでは産業革命が進んでいったのである。