醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1471号   白井一道

2020-07-23 13:03:25 | 随筆・小説


  
   資本主義経済はいかに生まれて来たのか2



 アフリカ黒人奴隷貿易が生んだ巨大な富が資本主義経済を育んだ。リヴァプールが黒人奴隷貿易で栄えた港街である。
 「大西洋三角貿易のお蔭で、18世紀のヨーロッパには二つの新しい港湾都市が彗星の如く台頭した。すなわち、イギリスのリヴァプールとフランスのナントである。17世紀にすでに成長を開始していたブリストルやボルドーも、この貿易の拡大に伴っていっそう発展した。リヴァプールの最初の奴隷貿易船は、1709年にアフリカに向かった30トンの小型船であった。1783年になるとこの港は、奴隷貿易のために85隻、1万2294トンの船を保有するに至った。1709年から1783年までに、延べ2249隻、24万657トンの船がリヴァプールからアフリカに赴いた。年平均にすれば30隻、3200トンである。全船舶に対する奴隷船の比率は------。1771年には3隻に1隻が奴隷貿易船となった。1752年には88隻のリヴァプール船がアフリカから運び出した奴隷は2万4730人を数えた。
 リヴァプールが1770年にアフリカへ輸出した商品は、豆類、真鍮、ビール、繊維品、銅、ロウソク、椅子、サイダー、索具、陶器、火薬、ガラス、小間物類、鉄、船、双眼鏡、しろめ、パイプ、紙、ストッキング、銀、砂糖、食塩、やかん。まるでイギリス物産の一覧表の感がある。当時、リヴァプール市民の人口に膾炙した常套句にこんなのがあった。すなわち、わが町の大通りを区切るのはアフリカ人の奴隷をつないだ鉄鎖、家々の壁に塗り込められたのは奴隷の血潮、というのである。実際、1783年までにリヴァプールは、商業の分野では世界一有名なというか不名誉な、というかは立場の問題だが都市のひとつとなった。赤レンガ造りの同市の税関が採用しているニグロの頭部を象った紋章こそは、このリヴァプールが何を踏み台として発展したかを無言のうちに、しかしきわめて雄弁に物語っている。エリック=ウィリアムズ/川北稔訳『コロンブスからカストロまで』1970 岩波現代新書 「資本主義と奴隷制」より
  リヴァプールの奴隷商人は西アフリカで奴隷狩りをしていた部族から奴隷を仕入れ、奴隷を船に積み込み大西洋を渡って西インド諸島の島々の砂糖プランテーションで砂糖と黒人奴隷とを交換した。
 「ニグロ(黒人)奴隷貿易とニグロ奴隷制、それにカリブ海地方における砂糖生産の結合は三角貿易の名で知られている。本国の商品を積んで出港した船は、アフリカ西岸でこの商品を奴隷と交換する。これが三角の第一辺である。第二辺はいわゆる「中間航路」、つまり西アフリカから西インド諸島への奴隷の移送である。最後に、奴隷と交換に受けとった砂糖その他のカリブ海地方の物産を西インド諸島から本国へ持ち帰る航路によって、三角形が完成される。奴隷船貿易だけでは西インド諸島の物産の運搬には不十分だったので、三角貿易の最後の一辺は、本国と西インド諸島間の直接貿易によって補完されていた。
 三角貿易は、本国の物産に西アフリカと西インド諸島の市場を与えた。この市場のお陰で本国の輸出が増え、本国における完全雇用の達成が容易になった。アフリカ西岸で奴隷を購入し、西インド諸島で彼らを使役したことによって、本国の製造業も農業も測り知れないほどの刺激を受けた。たとえば、イギリスの毛織物工業にしてもこの三角貿易に大きく依存していたのである。議会内に設置された1695年の一委員会は、奴隷貿易がイギリス毛織物工業の刺激になっていることを強調している。それに、西インド諸島では毛布用としても羊毛が需要され、プランテーションの奴隷用衣服としても毛織物が需要された。エリック=ウィリアムズ/川北稔訳『コロンブスからカストロまで』1970 岩波現代新書
 大西洋三角貿易によって西インド諸島からイギリスにもたらされた砂糖は、イギリス人の生活を大きく変えた。インドからもたらされる紅茶の飲用に欠くことができなくなり、イギリスの全階層にその消費が広がっていった。特にマニュファクチャーで働く労働者にとって甘い紅茶は栄養価も高く必要不可欠なものになった。その一方で、西インド諸島の黒人奴隷労働によるプランテーション経営やインドのモノカルチャー化によるその社会の破壊など、深刻すぎる変化をもたらしたことも忘れてはならない。また西インド諸島の砂糖プランテーション、後にアメリカ南部の綿花プランテーションに西アフリカから大量の黒人奴隷が供給された。西アフリカの黒人社会の破壊の上にイギリスでは産業革命が進んでいったのである。

醸楽庵だより   1470号   白井一道

2020-07-22 13:16:43 | 随筆・小説


   
 資本主義経済はいかに生まれて来たのか1



 資本主義経済は産業資本の成立をもって初めて成立するものである。商業資本が活発に動き回っていたとしても確実に資本主義経済が生れたとは言えない。
 産業資本は産業革命の結果、生まれたものである。産業革命とは如何なるものであったのかを理解することが資本主義経済を理解することになると私は考えている。マルクスの『資本論』とは、産業革命の本質を解明した著作である。マルクスは産業革命を研究し、産業革命の結果生まれて来た経済の仕組みを「資本主義」と名付けたのである。
 産業革命はイギリスで最初に始まった。産業革命の始まりは16世紀のことである。オランダで毛織物手工業が隆盛する。毛織物の原料供給地としてイギリスで牧羊業がはやる。この出来事をイギリスの人文学者のトマス・モアが『ユートピア』の中で次のように述べている。「イギリスの羊です。以前は大変おとなしい、小食の動物だったそうですが、この頃では、なんでも途方もない大食いで、その上荒々しくなったそうで、そのため人間さえもさかんに食い潰されて、見るもむざんな荒廃ぶりです。そのわけは、もし国内のどこかで非常に良質の、したがって高価な羊毛がとれるというところがありますと、代々の祖先や前任者の懐にはいっていた年収や所得では満足できず、また悠々と安楽な生活を送ることにも満足できない、その土地の貴族や紳士やその上自他ともに許した聖職者である修道院長までが、国家の為になるどころか、とんでもない大きな害毒を及ぼすのもかまわないで、百姓たちの耕作地をとりあげてしまい、牧場としてすっかり囲い込んでしまうからです。家屋は壊す、町は取り壊す、後にぽつんと残るのはただ教会堂だけという有様、その教会堂も羊小屋にしようという魂胆からなのです。林地・猟場・荘園、そういったものをつくるのに相当土地を潰したにもかかわらず、まだ潰したりないとでもいうのか、この敬虔な人たちは住宅地や教会付属地までも、みなたたきこわし、廃墟にしてしまいます」。このことを「羊が人間を食べている」と言っている。牧羊業の普及が土地を「囲い込み」牧場が増えていった。土地を奪われた農民たちは羊毛を原料にした毛織物を作る手工業の工場に吸収されていった。農民が工場労働者になった。このことをマルクスは「資本の原始的蓄積」と説明している。自分の労働力を売ることによって生計を立てる人々が労働者である。農民が土地を奪われ、自分の労働力を売ることによってしか、生活する術を持たない人間が労働者である。この労働者の出現が資本の誕生なのだとマルクスは述べている。生活手段であった農地を奪われ、農村から追い出されていった農民たちが労働者になった。だからこのことを血と涙の中から資本は生れてくるとマルクスは述べている。
 エンクロージャー(囲い込み)によって農民が労働者になった。この新しく生まれて来た労働者を雇い入れることによって新たに誕生したのが毛織物を織る工場制手工業(マニュファクチャー)である。このマニュファクチャーの成立が産業革命のはじまりであると同時に資本主義経済の誕生である。このようなマニュファクチャーがイギリスのどこで生まれて来たのかというと、その場所はヨークシャーの小高い山の間を流れる川沿いに毛織物を織る手工業の工場が建てられていった。
 更に18世紀末に大麦↓クローバー↓小麦↓蕪(かぶ)を四年周期で植える四輪作農法、ノーフォーク農法が発明されると、それまでの休耕地がなくなったことで、家畜の飼育が可能になり、イギリス政府や議会が土地の囲い込みを奨励した。この農業革命により新たに土地の囲い込みが行われ、土地から追い出された農民が生れ、毛織物マニュファクチャーに労働者を供給した。政府の目的は食料増産をして、18世紀末に、イギリスはフランスとの戦争に備えたのである。
 一方17世紀末~19世紀初頭、イギリスとフランスは、ヨーロッパ本土において戦争を繰り返しただけでなく、世界的規模でアメリカ植民地・インド植民地においても激しく奪い合った。その長期にわたって断続的に繰り返された両国の戦争を、14~15世紀の百年戦争になぞらえて、第2次百年戦争とも言われている。
 北インドにおけるプラッシーの戦いにおいてクライブ率いるイギリス東インド会社軍がフランス軍に勝利すると北インドはほぼイギリス東インド会社が支配する地域になった。こうしてインドがイギリスの支配する地域になることによってインドの手織りの綿布がイギリスに流入することになる。この綿布がイギリス本土で大流行することになる。

醸楽庵だより   1469号   白井一道

2020-07-21 12:51:51 | 随筆・小説



  
 新自由主義と資本主義の足搔き


 英国病の処方箋が新自由主義の経済政策だった

 1960年代以降のイギリスは他のヨーロッパ諸国から『ヨーロッパの病人(Sick man of Europe)』とも呼ばれていた。充実した社会保障制度や基幹産業の国有化などの政策が、社会保障費の負担を増加させ、国民の勤労意欲を低下させ、国民の既得権益が発生した結果、経済・社会的な問題が発生し、深刻な経済低迷を招いた。この事を『イギリス病』と言った。
イギリス労働党政権が行った「ゆりかごから墓場まで」をスローガンにした高度な社会福祉政策の実施がイギリス病を生んだという言説が流布している。
その社会福祉政策とは、「国民全員が無料で医療サービスを受けられる国民保健サービス」と「国民全員が加入する国民保険」に代表されるものである。さらに「産業の保護」政策である。
国民全員が無料で受けられる医療サービスを実施するためには多大な政府支出が必要となる。国民全員が加入する国民保険は国民から保険金を集めなければならないが、第二次世界大戦直後の国庫は火の車であり、国民も空爆などの被害によって多大な損失を被っていたので英国経済は厳しい状況にあった。
さらに国有化をはじめとする産業保護政策はイギリス資本による国内製造業への設備投資を減退させることとなり、各産業の技術開発に大幅な遅れをとる事態を招来した。国有企業は国に保護されているので経営改善努力をしなくなっていき、それに比例して製品の品質が劣化していった。この結果、イギリスは国際競争力を失い、輸出が減少、輸入が増加して、国際収支は悪化した。
トドメとばかりにオイルショックが到来。これによってイギリスは経済が停滞しているのに物価が上がり続けるという救いようがない事態にまで追い込まれ、財政赤字が増え、1976年にはとうとう財政破綻してしまった。
 この「イギリス病」の治療をしたのが鉄の女マーガレット・サッチャーである。保護することは成長を妨げる。この思想に基づいた「英国病」の治療が始まった。首相に就任した鉄の女マーガレット・サッチャーは国有企業の民営化、金融引き締めによるインフレの抑制、財政支出の削減、税制改革、規制緩和、労働組合の弱体化などの政策を推し進め、悪化する一方の経済に歯止めをかけることに成功した。この政策の結果、失業者数は増加し、財政支出も減らなかった。さらにサッチャーの反対派を排除する強硬な態度などから少ない数の反感を買い、英国病に歯止めをかけたが、毀誉褒貶が相半ばする存在になった。確かにライオンは「我が子を崖から谷底へ突き落とす」と言われている。谷底にはエサもなく生きる為に一生懸命になる。一度や二度うまく行かないからといって諦めてしまえばそこで死んでしまう。とにかく登らないことには生き延びる事は出来ない。成功とは失敗しないことではなく諦めないことと病弱な国民に対しても福祉は無駄金だと大幅に削減した。弱肉競争が社会を活性化するというのがサッチャーの政策であった。ここに新自由主義経済の本質がある。
 新自由主義経済政策は確かに資本主義経済を担う強い企業は息を吹き返したが国民生活は大きな打撃を受ける結果になった。
「英国病」の治療方法としての新自由主義経済政策は日本にも大きな影響を与えた。1980年代にはじまった臨調「行革」以来、社会保障費は眼の敵にされ、毎年削減の対象にされてきた。中でも医療費は常にその筆頭に上げられ、「医療費亡国論」のもと、さまざまなかたちで削減と圧縮を蒙ってきたことは周知のごとくである。「医療費亡国論」のターゲットにされるのは常に高齢者の医療費である。その中で高齢者の自己負担を正当化する論拠として「老人は若い人の5倍も医療費を使っている」という主張がある。医療利用者1人あたりの医療費に直してみると眼の敵にされる入院医療では逆に若い人より少ないくらいであるにもかかわらずにである。つまり「老人医療費5倍論」とは「老人は若い人の5倍病気をする=病人5倍論」であって、「年をとれば病気がちになる」という、至極常識的な事実をことさら捻じ曲げて表現した卑劣な詭弁に過ぎない。
その結果、医療費削減の結果、新型コロナウイルスが発症すると日本の医療制度の脆弱性が露わになった。いつ医療崩壊が起きてもおかしくない状況が生れてきている。
「英国病」とは、資本主義経済の足掻きなのだ。資本主義経済は衰退し、今のままでは資本主義経済は国民経済を支えることができないのだ。現在は資本主義崩壊の瀬戸際に来ているのだ。

醸楽庵だより   1468号   白井一道

2020-07-19 11:59:30 | 随筆・小説


   
「社会なるものは存在するのです」~コロナ被害で世界に歴史的変化が始まる  印鑰 智哉



世界に急速に広まる新型コロナウイルスの被害を前に、世界が大きな変化を始めている。歴史的な変化だろう。米国トランプ大統領はウイルス対策のため経済活動に制約をかけることを拒んできたが、その彼が急速に変わったのはこのままでは米国の死者が220万人にのぼる可能性があるという調査報告を見た後であるとニューヨークタイムズが報じている (1)。連邦準備銀行によると、4700万人が失業し、失業率は32%にのぼる可能性があるという(2)。
 実は経済的な事態に限れば、これに似た事態はすでに世界は経験済みだ。それは世界恐慌。この時、米国はニューディール政策を打ち出すことでこの恐慌を乗り切った。農家の生産物をすべて政府が買い取ることで所得を保障した。今、その政策をもう一度、気候変動や生態系の危機に対応できるグリーン・ニューディールとして復活させようという声が米国で急速に強まっている。
 英国でも同様の衝撃が走っている。強行なBrexitで権力を握ったボリス・ジョンソン首相、彼自身、当初積極的な封じ込めは行わず、経済活動を維持して、集団免疫を獲得することで克服させる方針だった。しかし、その策では死者が50万人を超すという予測を受けて、方向性を急に変え、大規模な抗体検査を行い、野戦病院「NHSナイチンゲール」を建設し、食料品など生活必需品以外の店をすべて閉鎖し、感染を封じ込める大規模な対策に出た(3)。人びとが失う収入は国家が補う。    そして、彼から驚くべき言葉が語られる。 “there really is such a thing as society” (確かに社会なるものは存在するのです)。これはマーガレット・サッチャー元首相が語った“There is no such thing as society.”(社会なるものは存在しない)という言葉を明らかに意識して語られた言葉だ(4)。
 サッチャー元首相はこの言葉で社会的政策を否定して、民間企業にすべてを委ねる民営化路線、新自由主義(企業による私物化路線)に走った。米英の経済・社会政策はこの新自由主義でずっと彩られてきた。今、それを保守政治家自ら、この路線を否定する言葉を述べたのだ。これは歴史的な言葉になるのではないだろうか?
 民間企業による活動では解決できない問題がある。人間にとって必須のもの、それは社会。人びとの公共空間であり、さまざまな関係の総体。それは企業原理では守ることができない事態を前に、新自由主義の洗脳から人びとが目覚めつつある。
 民間企業のため、多国籍企業のための政治をひた走ることで世界は危険になった。この新型コロナウイルスは工業化された食のシステムが必然的に招いた、と多くが批判している。多国籍企業優遇の政治を続ける限り、このウイルスが克服できても第2第3のウイルスに人類は脅かされるだろう。気候変動、耐性菌、原発や有害物質などによる汚染…。
 ブラジルで民衆運動が求めたベーシックインカムは英国でも昨年すでに英国版グリーン・ニューディールの中に組み込まれている(緑の党のマニフェスト)。そして、コロナウイルス蔓延を前に、緊急ベーシックインカムを実現することを求めるオンライン署名が始められておりすでに10万筆を超している(5)。
 米国や英国、そして労働者党政権がつぶされた後のブラジルは世界でももっとも新自由主義を体現する国であったと言えるだろう。その国でのこの変化が持つ意味は巨大なものがある。
 しかし、日本はオリンピック開催にまっしぐら、経済活動を止めずに感染を拡大させ、命をさらに危険にしている。種苗法を変えて民間企業のさらなる食のシステムへの参加を促し、世界一民間企業が活躍しやすい国にする、という路線が継続している。このままでは日本は最大の犠牲を払うことになるのではないだろうか? 日本も大きく変える必要がある。
 その基本は #StayHomeButNotSilent  家に留まり、社会を守る、声は出し続ける。そしてこの政府の方針を大きく変え、システムを変える。今、私たちに必要なのはその大きな変化に向けた行動だろう。外に出ることはできなくてもできる。ブラジルの人びとは夜に鍋を叩いて、ボルソナロ大統領への抗議の意志を示した。家にいても抗議はできる。日本でも企業ではなく、人びとが変える中心になる時。

醸楽庵だより   1467号   白井一道

2020-07-16 15:42:15 | 随筆・小説



 19世紀後半までアメリカ南部では奴隷制度が存続し得たのか。



 奴隷制度とは古代社会の古い社会制度である。このような古い社会制度が近代化を進めているアメリカ合衆国で復活し、普及した。奴隷制度の維持を主張する南部の人々と奴隷制度の廃止を求める北部の人々との間で戦争にまで発展した。その戦争が南北戦争であった。
 アメリカ南部諸州の人々はアフリカ黒人奴隷労働なしには綿花の大量栽培をすることができなかった。アメリカ南部の人々が黒人奴隷制度の維持を主張する経済的な理由があった。黒人奴隷労働の存在がアメリカ南部の人々の生活基盤を支えていた。アメリカ南部で生産された綿花はイギリスに輸出され、イギリスの繊維産業、綿布生産の原料提供地域がアメリカ南部であった。イギリスの綿布生産者たちはアメリカ南部の奴隷制度の存続を望んでいた。安価な綿布生産の原料が得られるからである。イギリス政府も国内の綿布生産者の意向に理解を示していた。フランスもまたナポレオン3世が、南北戦争に乗じてメキシコに出兵し、さらにマクシミリアンを皇帝に据えるためには、南北戦争が長期化することを歓迎していた。当時の国際社会はアメリカ南部の黒人奴隷制度の存続を認める意向があった。黒人の人権を根底的に否定するような前社会的な制度の存続を認めざるを得ないとするのがイギリスやフランスの政権担当者たちであった。
 リンカーンはケンタッキー州の開拓農家の間仕切りのない丸太小屋で生まれている。西部開拓の最前線地域の一つで生まれ育ったリンカーンは現実主義者の弁護士になった。
 大西洋三角貿易とは、イギリス商人がブリストルやリヴァプールなどの港からイギリス製品を積み込み、アフリカの族長階層で奴隷制度と結びついている西アフリカで製品を売るか奴隷と交換し、奴隷を連れてイギリスの植民地や他のカリブ海諸国あるいはアメリカ合衆国に船で運び、そこで農園主に奴隷を売るかラム酒や砂糖と交換し、それをイギリスの港に持ち帰った。18世紀、リヴァプールには奴隷貿易で築かれた巨万の富があった。この富がイギリス産業革命の資金になった。
 啓蒙思想の普及が奴隷貿易廃止運動を起し、1807年イギリス議会で奴隷貿易法が成立し、イギリス帝国全体での奴隷貿易を違法とする法が成立した。
 1833年奴隷制度廃止法が成立し、イギリスの植民地における奴隷制度を違法とした。1834年イギリス帝国内の全ての奴隷は解放されたが、年季奉公制度で元の主人に仕える者は残った。この年季奉公も1838年には廃止された。この財源としてロスチャイルドは1500万ポンドの金塊を供出していたが、それまでロスチャイルド自身も奴隷制に関わっていた。
 国際的な民意は奴隷制廃止に傾きつつあった。このような国際情勢の中でアメリカ南北戦争は戦われた。
 1860年の大統領選挙で奴隷制度拡大反対を掲げる共和党のリンカンが当選すると、南部諸州の反発が強まり、12月に連邦離脱を決定した。翌1861年、リンカンが大統領に就任、それに対抗する形で南部諸州はアメリカ連合国を成立させ、ジェファソン=デヴィスを大統領に選出した。アメリカ連合国の首都は初めはアラバマ州モントゴメリーであったが、間もなくヴァージニア州のリッチモンドに遷された。リンカンは、南部諸州の分離独立を認めず、対立は決定的となった。南部諸州は、綿花輸出先のイギリスと、ナポレオン3世のフランスの支援を期待していた。
 リンカーンは奴隷制廃止が目的ではなく、アメリカ合衆国の統一を守ることであった。奴隷制を存続して合衆国の統一が守られるのならリンカーンは奴隷制を容認した。このような現実主義者であった。
 1862年9月、リンカンは奴隷解放宣言の予備宣言を出し、南部諸州に対して黒人奴隷を解放を迫った。さらに、翌1863年1月1日に本宣言を出して、戦争の目的を黒人奴隷制度の廃止にあることを明確に示した。これによってイギリス、フランスなどの国際世論は北部に理があるとして支持に転換した。また、62年にはホームステッド法を施行して西部の農民の支持を受けて、さらに北部工業地帯の経済力を生かして次第を挽回し、1863年7月のゲティスバーグの戦いで北軍が大勝、最後は北軍のグラント将軍が南軍のリー将軍を降服させ、1865年3月にアメリカ連合国の首都リッチモンドが陥落して戦争は終結した。
 世界の歴史を動かすものは世界の民意である。

醸楽庵だより   1466号   白井一道

2020-07-15 14:59:22 | 随筆・小説



  アメリカ奴隷解放 



 6月19日・奴隷解放記念日/フロイドさん殺害抗議に連帯し 国際港湾倉庫組合がスト        人民新聞2020/07/09

 アメリカでは、6月19日をジューンティーンス(英語:June teenth)と呼ぶ。1865年に奴隷解放を最後に受け入れたテキサス州が奴隷解放宣言を読み上げ、真の奴隷解放が実現した歴史的な記念日だ。
 例年、アメリカ各地で奴隷解放を祝う行事が行われているが、今年は5月25日にミネアポリス警察官により殺害されたジョージ・フロイド氏の事件に端を発した抗議活動が拡大。6月19日には3万8千人の労働組合の造船所労働者が、米国の太平洋岸の29の全ての港とカナダの6つの港を閉鎖するストライキに発展した。
 主にアフリカ系の人々で構成され、1930年代に黒人労働者を組合員として受け入れた米国で最も進歩的な労働組合の一つである「国際港湾倉庫組合」(ILWU)が主導し、労働者たちは「黒人奴隷解放の日」に人種差別的な警察の残虐行為に対し抗議した。また、数百万人の人々が「Black Lives Matter」「ジョージ・フロイド!」と声を上げてデモを行った。
 6月19日の労働アクションを支持する組織と人々の中には、教師、交通機関の労働者、看護師の組合も含まれ、知識人のアンジェラ・デイヴィス、ミュージシャンのブーツ・ライリー、俳優のダニー・グローヴァーはジューンティーンスの意義についてスピーチした。カナダも同様に奴隷制、日系カナダ人の強制収容、「駒形丸事件」などの人種差別があったため、カナダの造船所労働者の多くもジューンティーンスの抗議行動に参加した。
(愛知連帯ユニオン・ ジョセフ・エサティエ) 
 日系人の強制収容とは、第二次世界大戦時においてアメリカ合衆国やアメリカの影響下にあったペルーやブラジルなどのラテンアメリカ諸国の連合国、またカナダやオーストラリアなどのイギリス連邦において行われた、日系人や日本人移民に対する強制収容所への収監政策であり、12万の日系アメリカ人と2万人の日系カナダ人が収容された。
「国際港湾倉庫組合」は、米国で最も進歩的な労働組合の1つ。

 リンカーンの有名なゲッティスパーク演説
 87年前、われわれの父祖たちは、自由の精神にはぐくまれ、人はみな平等に創られているという信条にささげられた新しい国家を、この大陸に誕生させた。
今われわれは、一大内戦のさなかにあり、戦うことにより、自由の精神をはぐくみ、自由の心情にささげられたこの国家が、或いは、このようなあらゆる 国家が、長く存続することは可能なのかどうかを試しているわけである。われわれはそのような戦争に一大激戦の地で、相会している。われわれはこの国家が生 き永らえるようにと、ここで生命を捧げた人々の最後の安息の場所として、この戦場の一部をささげるためにやって来た。われわれがそうすることは、まことに 適切であり好ましいことである。
しかし、さらに大きな意味で、われわれは、この土地をささげることはできない。清めささげることもできない。聖別することもできない。足すことも引 くこともできない、われわれの貧弱な力をはるかに超越し、生き残った者、戦死した者とを問わず、ここで闘った勇敢な人々がすでに、この土地を清めささげて いるからである。世界は、われわれがここで述べることに、さして注意を払わず、長く記憶にとどめることもないだろう。しかし、彼らがここで成した事を決して忘れ去ることはできない。ここで戦った人々が気高くもここまで勇敢に推し進めてきた未完の事業にここでささげるべきは、むしろ生きているわれわれなのである。われわれの目の前に残された偉大な事業にここで身をささげるべきは、むしろわれわれ自身なのである。―それは、名誉ある戦死者たちが、最後の全力を 尽くして身命をささげた偉大な大義に対して、彼らの後を受け継いで、われわれが一層の献身を決意することであり、これらの戦死者の死を決して無駄にしない ために、この国に神の下で自由の新しい誕生を迎えさせるために、そして、人民の人民による人民のための政治を地上から決して絶滅させないために、われわれ がここで固く決意することである。
 アメリカ国務省ホームページより
 理想は高く掲げられ、公民権法が成立したがアメリカ合衆国における黒人迫害は現在にいたるも続いている。




醸楽庵だより   1465号   白井一道

2020-07-14 15:49:17 | 随筆・小説


  大国の興亡1、スペイン2



 スペインはカトリックの国である。
 古代ローマ帝国内のイベリア半島に5世紀AD、ゲルマン人の一派、西ゴート族が侵入し、西ゴート王国を建国した。その結果、イベリア半島にはゲルマン文化、ローマ文化、キリスト教文化が混在する独特の文化が形成された。
8世紀、イスラム世界にアッバース朝が成立するとウマイヤ朝の一部がイベリア半島に侵入し、北アフリカのベルベル人の支持を得て王権の成立に成功する。イベリア半島には更にイスラム文化が付け加わった。エジプト以西の北アフリカをマグレブという。この地域には古くから高い文化があった。この地域の人々をヨーロッパ人はムーア人と言っていた。
「ベニスのムーア人」という副題を持つシェイクスピアの戯曲『オセロ』がある。オセロはムーア人である。ヨーロッパ中世時代の地中海の制海権はムーア人を中心にしたイスラム商人が覇権を握っていた。地中海に君臨したイスラム世界に対して反撃を始めたのが十字軍の反撃であった。中世ヨーロッパ世界に始まった巡礼の流行があった。聖地として人気を博したのがイベリア半島北西の極地にあるサンチャゴ・デ・コンポステラである。このサンチャゴ・デ・コンポステラへの巡礼路がイベリア半島を支配していたイスラム政権下の後ウマイヤ朝のもとで形作られていった。このことがレコンキスタ、イベリア半島におけるキリスト教勢力の国土回復運動に結びついていく。イベリア半島における十字軍戦争がレコンキスタ、レ(re)コンキスタ(conquista)、再征服(国土回復)運動である。十字軍戦争は教皇ウルバヌス二世が唱え始まった。その演説が民衆の心に火を付けた。
『おお、神の子らよ。あなた方はすでに同胞間の平和を保つこと、聖なる教会にそなわる諸権利を忠実に擁護することを、これまでにもまして誠実に神に約束したが、そのうえ新たに‥‥あなた方が奮起すべき緊急な任務が生じたのである。‥‥すなわち、あなた方は東方に住む同胞に大至急援軍を送らなければならないということである。かれらはあなた方の援助を必要としており、かつしばしばそれを懇請しているのである。その理由はすでにあなた方の多くがご存じのように、ペルシアの住民なるトルコ人が彼らを攻撃し、またローマ領の奥深く、”聖グレゴリウスの腕”とよばれている地中海沿岸部(ボスフォラス海峡、マルモラ海沿岸をさす)まで進出したからである。キリスト教国をつぎつぎに占領した彼らは、すでに多くの戦闘で七たびもキリスト教徒を破り、多くの住民を殺しあるいは捕らえ、教会堂を破壊しつつ神の国を荒しまわっているのである。これ以上かれらの行為を続けさせるなら、かれらはもっと大々的に神の忠実な民を征服するであろう。されば、‐‐。神はキリストの旗手たるあなた方に、騎士と歩卒をえらばず貧富を問わず、あらゆる階層の男たちを立ち上がらせるよう、そしてわたしたちの土地からあのいまわしい民族を根だやしにするようーー。くりかえし勧告しておられるのである。』これはシャルトルの修道士フーシェの年代記が伝えるクレルモン公会議における教皇ウルバヌス2世の演説の一説。さらに教皇は、『あなた方がいま住んでいる土地はけっして広くない。十分肥えてもいない。そのため人々はたがいに争い、たがいに傷ついているではないか。したがって、あなた方は隣人のなかから出かけようとする者をとめてはならない。かれらを聖墓への道行きに旅立たせようではないか。「乳と蜜の流れる国」は、神があなた方に与えたもうた土地であるーー』と語り、『かの地、エルサレムこそ世界の中心にして、天の栄光の王国である。』と獅子吼した。それを聴いた民衆から『神のみ旨だ!!』というさけびが起こったという。このウルバヌスの演説の原典は失われたが、1905年発表のアメリカの歴史家ムンロの研究によってほぼ復元された。橋口倫介『十字軍』岩波新書より 
 このレコンキスタ、イベリア半島における十字軍戦争の延長が新航路の探求になり、それが地理上の発見につながっていく。十字軍戦争はローマカトリック教会が音頭を取って始まった戦争であった。
 スペインはカトリックの国になり、現在に至ってもカトリック教徒が多い国になっている。カトリックスペインはヨーロッパ人にとっては新大陸であったアメリカで獲得した黄金によって全盛期をむかえるのである。スペインの繁栄は南米インディオの窮乏と絶滅があった。世界七つの海に君臨したスペイン無敵艦隊が跋扈し、世界の富を独占した時代が16世紀前半であろう。スペインは獲得した富で新しい富を作りだすことはなかった。

醸楽庵だより   1464号   白井一道

2020-07-13 12:12:52 | 随筆・小説



  大国の興亡1、スペイン



 スペインが世界7つの海に君臨した時代があった。その時代、新大陸アメリカでスペインはどのような事を行ったのか。その事実を報告し、厳しく批判したカトリック司教バルトロメ・デ・ラス・カサスがいる。彼の報告書が『インディアスの破壊についての簡潔な報告』である。その中から紹介する。
「インディアスが発見されたのは1492年のことである。その翌年、スペイン人キリスト教徒たちが植民に赴いた。したがって、大勢のスペイン人がインディアスに渡ってから本年(1542年)で49年になる。彼らが植民するために最初に侵入したのはエスパニョーラ島(現在のハイチ、ドミニカ)で、それは周囲の広さおよそ600レグワ(1レグワは約5.6キロ)もある大きな、非常に豊かな島であった。・・・神はその地方一帯に住む無数の人びとをことごとく素朴で、悪意のない、また、陰ひなたのない人間として創られた。彼らは土地の領主たちに対しても実に恭順で忠実である。彼らは世界でもっとも謙虚で辛抱強く、また、温厚で口数の少ない人たちで、諍いや騒動を起こすこともなく、喧嘩や争いもしない。そればかりか、彼らは怨みや憎しみや復讐心すら抱かない。この人たちは体格的には細くて華奢でひ弱く、そのため、ほかの人びとと比べると、余り仕事に耐えられず、軽い病気にでも罹ると、たちまち死んでしまうほどである。・・・インディオたちは粗衣粗食に甘んじ、ほかの人びとのように財産を所有しておらず、また、所有しようとも思っていない。したがって、彼らが贅沢になったり、野心や欲望を抱いたりすることは決してない。
 スペイン人たちは、創造主によって前述の諸性質を授けられたこれらの従順な羊の群に出会うとすぐ、まるで何日もつづいた飢えのために猛り狂った狼や虎や獅子のようにその中へ突き進んで行った。この40年の間、また、今もなお、スペイン人たちはかつて人が見たことも読んだことも聞いたこともない種々様々な新しい残虐きわまりない手口を用いて、ひたすらインディオたちを斬り刻み、殺害し、苦しめ、拷問し、破滅へと追いやっている。例えば、われわれがはじめてエスパニョーラ島に上陸した時、島には約300万人のインディオが暮らしていたが、今では僅か200人ぐらいしか生き残っていないのである。・・・この40年間にキリスト教徒たちの暴虐的で極悪無慙な所行のために男女、子供合わせて1200万人以上の人が残虐非道にも殺されたのはまったく確かなことである。それどころか、私は、1500万人以上のインディオが犠牲になったと言っても、真実間違いではないと思う。
彼らは、誰が一太刀で真二つに斬れるかとか、誰が一撃のもとに首を斬り落とせるかとか、内臓を破裂させることができるかとか言って賭をした。彼らは母親から乳飲み子を奪い、その子の足をつかんで岩に頭を叩きつけたりした。また、ある者たちは冷酷な笑みを浮かべて、幼子を背後から川へ突き落とし、水中に落ちる音を聞いて、「さあ、泳いでみな」と叫んだ。彼らはまたそのほかの幼子を母親もろとも突き殺したりした。こうして彼らはその場に居合わせた人たち全員にそのような酷い仕打ちを加えた。さらに、彼らは漸く足が地につくぐらいの大きな絞首台を作り、こともあろうに、われらが救世主と12人の使徒を称え崇めるためだと言って、13人ずつその絞首台に吊し、その下に薪をおいて火をつけた。こうして、彼らはインディオたちを生きたまま火あぶりにした。・・・(この間、残虐な火あぶりの記述があるが省略)・・・私はこれまで述べたことをことごとく、また、そのほか数えきれないほど多くの出来事をつぶさに目撃した。キリスト教徒たちはまるで猛り狂った獣と変わらず、人類を破滅へと追いやる人々であり、人類最大の敵であった。非道で血も涙もない人たちから逃げのびたインディオたちはみな山に籠もったり、山の奥深くへ逃げ込んだりして、身を守った。すると、キリスト教徒たちは彼らを狩り出すために猟犬を獰猛な犬に仕込んだ。犬はインディオをひとりでも見つけると、瞬く間に彼を八つ裂きにした。・・・インディオたちが数人のキリスト教徒を殺害するのは実に希有なことであったが、それは正当な理由と正義にもとづく行為であった。しかし、キリスト教徒たちは、それを口実にして、インディオがひとりのキリスト教徒を殺せば、その仕返しに100人のインディオを殺すべしという掟を定めた。  染田秀藤訳『岩波文庫』より
スペイン人はインディオを殺し尽くし・焼き尽くし・奪い尽くした。その結果、スペインは一時期、ヨーロッパ世界に君臨し、フェリペ2世は世界の覇者になった。

醸楽庵だより   1463号   白井一道

2020-07-12 16:15:34 | 随筆・小説



   小さな政府論の黄昏    



 二十世紀後半の時代は「小さな政府論」が世界的に広がっていたように思う。国税局主催の財形セミナーに参加して日本政府の経済政策の中心は「小さな政府論」にあると思った。私は当初「小さな政府論」がどのような政策を意味しているのかを理解することができなかった。
 自由放任主義時代の国家観、夜警国家観と「小さな政府論」とがどのような関係にあるのかが理解できなかった。安上がりの政府、夜警国家は産業革命後成立した国家だと思っていた。そのような政府論を二十世紀後半の時代になってなぜ唱えるようになったのかが分からなかった。
 外敵からの防御、軍事力の行使と国内秩序の維持のための警察機能が主な国家の役割だと主張する人々に対して社会主義者ラッサールが自由放任主義的な市民国家はブルジョア的私有財産を夜警することを任務としているにすぎないとして19世紀に批判している。
 第二次世界大戦後、イギリスにおいては「揺りかごから墓場まで」と、イギリス労働党はこのようなスローガンを掲げた。このスローガンが日本を含め、西側諸国の社会福祉政策の指針となった。英国の社会福祉サービスは、国民全員が無料で医療サービスを受けられる国民保健サービスと国民全員が加入する国民保険を基幹とすることが特色であった。日本にあっても皆保険制度が充実していき、現在においても皆保険制度は維持されている。皆保険制度の充実が社会を安定させた。第二次世界大戦後、先進資本主義国の指導者層の人々は日本が社会主義化するのではないかと心配していた。日本の社会主義化を阻止するためには社会福祉制度の充実が求められていた。そのような時代意識を自覚した日本の指導層の人々は安上がりの政府から社会福祉を充実する政府を実現していった。それは同時に日本社会の経済成長でもあった。経済成長と社会福祉が両立した時代でもあった。
 1970年代になるとイギリスにおいて「英国病」といわれる事態が生まれて来た。労使紛争の多さと経済成長不振のため、他のヨーロッパ諸国から「ヨーロッパの病人(Sick man of Europe)」と呼ばれるようになった。1960年代になると、国有化などの産業保護政策はイギリス資本による国内製造業への設備投資を減退させることとなり、資本は海外へ流出し、技術開発に後れを取るようになっていった。また、国有企業は経営改善努力をしなくなっていき、製品の品質が劣化していった。これらの結果、イギリスは国際競争力を失っていき、輸出が減少し、輸入が増加して、国際収支は悪化していった。 特に多くの労働者を抱えていた自動車産業は、ストライキの慢性化と日本車の輸出が活発化した時期(1970年代)が重なったことで壊滅的な状況となり、2000年代には外国メーカーのブランド名としてのみ名前が残っている状況になった。
 ここに登場してくるのがサッチャーである。彼女のやろうとしたことは、まさしく産業主義を現代に取り戻し、意識改革を起こそうというものである。
①国営企業の民営化、非効率企業への国家援助を取り外し、国際競争に耐え得ない企業は倒産させる。
②最高所得税を 83%から 40%に減税し、豊かな層の企業活動を一層活発化させる。
③慣行の上にあぐらをかいて働かない労働組合に対して、労働法を改正して労働組合活動を制限するとともに、国営企業をはじめとして企業から多くの失業者を作り出し、失業の恐怖の下、働くことを強制する。
④労働者に公営住宅を払い下げ、所有意識を持たせるとともに、国営企業を民営化する際、株式を払い下げ、900 万に及ぶ株主を作り出し、企業の業績に関心を持たせる。
このような変革政策は相当程度成功し、比較的停滞した社会が相当に活発化した。それでは本当にサッチャリズムはイギリスの基本構造を変革することに成功したのだろうか。結論を先取りして言えば、サッチャー政策は自由市場政策をとり、国際競争に生き残れる企業が生き残ればいいという政策をとった。この結果、伝統的な産業部門は長期間にわたって多くの部分が衰退することになった。これは、イギリスの経済政策に対する国際指向性の再主張でもあった。保護されたのは防衛産業と農業であった。一方、この政策で恩恵を受けたのはシティを中心とする金融、商業会社に加えて既に多国籍企業に支配されている部門であった。
しかし、一国経済の発展は製造業が担っており、イギリスの相対的衰退を止めることはできなかった。

醸楽庵だより   1462号   白井一道

2020-07-10 16:39:36 | 随筆・小説


   タタールの平和 


「タタールの平和」が世界史の始まりである。このような話を聞いたのはもう40年も前のことになる。13世紀に世界史は始まった。それまでの世界の歴史はそれぞれ別個の歴史世界が並立していた。東アジアには中国を中心にした歴史世界がある。ヨーロッパにはローマを中心にした地中海世界があり、西アジアにはアラビア半島のメッカを中心にしたイスラム世界が存在していた。これらの歴史世界が別個に存在していた。この別個に存在していた歴史世界が一体化し始めるのが13世紀、世界史上初めて誕生した空前にして絶後の世界帝国、モンゴル帝国の出現である。モンゴル帝国の成立が世界を一体化し、世界史が始まったと私は学んだ。
 タタールの平和とは、モンゴル帝国の成立を意味している。Pax TaTarica、パックスタタリカ。このような言葉の起源はパックスエジプトにあると宮田光男氏の『平和の思想史的研究』で学んだ。上エジプトと下エジプトを統一した王朝が出現したとき、エジプトの平和が実現した。紀元1、2世紀古代ローマ帝国が繁栄を極めた時代をパックス・ロマーナと言い慣わされている。
 地中海世界に紛争が無くなった。軍事的に強大なローマ帝国に刃向う国が地中海周辺にはいなくなったことによって地中海世界に平和が実現した。ローマ帝国市民による厳しい収奪に抵抗できる軍事力を持つ集団がいなくなった。その結果が戦争がなくなった。ローマ市民の栄華と平和は属州民の窮乏化と没落であった。ローマ市民の栄華の裏には属州民の窮乏があった。この窮乏化した属州民の中からキリスト教が生れてくる。だから原始キリスト教の教えの中には反権力の思想があると私は考えている。
 パックス・アメリカーナとは、アメリカ合衆国の強大な軍事力に対抗できる国や勢力がなくなった時、世界に平和が訪れたということを意味している。アメリカ合衆国に富が奪われ、特に第三世界の富がアメリカ合衆国に吸い上げられていった。このアメリカ合衆国に抵抗する勢力が世界になくなった時代がパックス・アメリカーナの時代である。
 13世紀、モンゴル帝国が成立するとモンゴル帝国に抵抗できる軍事力を持つ国がなくなり、世界に平和が訪れた。世界中が平和になることによって東西交易が始まった。タタールの平和がマルコポーロの大旅行を可能にした。イタリア、ヴェネツィア共和国の商人、「マルコ・ポーロは本当に中国へ行ったのか」フランシス・ウッド著 ; 粟野真紀子訳、このような本が出版されている。マルコ・ポーロの『東方見聞録』は有名である。また』、『三大陸周遊記』を書いたイブン・バットゥータは約30年をかけて旅を行っている。イブン・バットゥータは21歳の時にメッカ巡礼に出発し、当初の目的は巡礼と学究であったが、旅先でのイスラム神秘主義者、スーフィーとの出会いなどがきっかけとなり、メッカへ到着したのちも旅行を続ける。故郷を出発した時は一人だったが、途中で巡礼団と一緒になったり、政府の使節として旅行するなど、彼の旅の形態は多様である。エジプトからシリアのダマスカスを経てメッカに滞在したのちは、イラク、イラン、アラビア半島、コンスタンティノープル、キプチャク・ハン国、トゥグルク朝のデリー、マルディヴ、スマトラ、泉州、大都、ファース、グラナダ、サハラ砂漠などを訪れている。ただし、中国をはじめいくつかの土地に関しては、実際には訪れていないという考証もあるようだ。このような大旅行が実現した背景にはタタールの平和があった。
 『東方見聞録』,『三大陸周遊記』のような著作を可能にした背景にはモンゴル帝国の成立があった。世界の平和が大旅行を可能にしたのだ。この裏にはロシア人が「タタールの軛(軛)」という苦難の時代があった。ロシア人だけでなく、中国人もまたモンゴル人支配に対して漢民族の中国人は苦しんだ。13世紀のヨーロッパ人たちの祖先は、「地獄から来れる者ども」(エクス・タルタロ)というラテン語を思わせる「タルタル」をモンゴル人を指す語として用いたという。
 この「タタールの平和」の時代にイベリア半島で「レ・コンキスタ」という国土回復運動が起き、イスラム勢力をイベリア半島から追い出す戦いが始まっていく。この運動の延長上におきてくる出来事が新航路の探求を求める出来事である。スペインは西に向かい、ポルトガルはひがしに向かって船を進め、太平洋上で前年の教皇子午線を修正して西に移動させ、後にスペインがアメリカ大陸の大部分、ポルトガルがブラジルを領有する根拠となるトルデシリャス条約を結ぶ。これが世界最初の植民地分割である。