醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1461号   白井一道

2020-07-10 16:39:36 | 随筆・小説


   タタール人について 



 白い肌、金髪、青い目の女性が日本語で私はタタール人ですと、自分で作成しているyou tuberで述べていた。一見するとどこにもアジア人の風貌がない。出身はどこなのかなと思ってアシヤさんのyou tubeを見ていると母親が出て来た。母親の姿にアジア人の血を感じた。黒い髪の毛、黒い瞳、肌の色にアジア人を感じた。もともとこの地域にはアジア系といってもトルコ系の民族が古くから流入していたようだ。アシヤさんの出身地に興味を抱き、次々とアシヤさん作成の動画を見ていると故郷へ帰還した映像があった。アシヤさんはウラル山脈の東側に位置するチェラビンスクの出身のようだ。モスクワから電車で29時間ぐらいかかるようだ。
 チェラビンスクはタタールスタン共和国にあるのかと思い地図で確認してみると違っていた。クリミヤをロシアが併合したとウクライナが抗議し、紛争になっている。このクリミアの住民の大半はタタール人だと教えられた。ロシアの南部、ウラル山脈からカスピ海、黒海の北側の地域には多くのタタール人が居住しているということを知った。
 タタール人はロシアの中にあって政治的にも経済的にも有力な民族のようだ。人口もロシア人に次いで多いのがタタール人である。このタタール人の中にはほぼコーカソイドと同じ形質を持つ人がいることを知った。ロシアは多民族国家なのだ。タタール人にはタタール語がある。ロシア語とは異なる言語がロシア国内において話されている。
 若かったころ『マルクス主義と言語学の諸問題』スターリンの書いたものを読んだ記憶が蘇った。ロシアのような多民族国家にあっては言語帝国主義の問題が起きてくるのはもっともなことだ。公用語をロシア語にする以上、どうしてもロシア語を母語とする人々が有利になる言語帝国主義が出てくることに注意しなければならない。
 ロシア史には「タタールのくびき」と言われる時代がある。モンゴル帝国のバトゥの西方遠征によって、1240年にキエフ公国が滅ぼされてから、1480年に独立を回復するまでの約240年続いた、ロシアがモンゴル人の支配を受けていた時代のことである。つまりロシアがモンゴルの支配を受けていた時代である。ノヴゴロド公アレクサンドル=ネフスキーは東方からのスウェーデンやドイツ騎士団の侵入を撃退したが、キプチャク=ハン国にはみずから進んで臣従し、1252年にはモンゴルの力でロシア正教の主教座のあるウラディミール大公となった。その後、ロシア諸侯はキプチャク=ハン国に対して貢納するという形で服属を続け、1480年、モスクワ大公国のイヴァン3世がキプチャク=ハン国から自立してその軍を撃退し、「タタールのくびき」は終わりを告げる。「世界史の窓」より
「タタールという言葉には、いつもある独特な響きがつきまとう。13世紀のヨーロッパ人たちの祖先は、”地獄から来れる者ども”(エクス・タルタロ)というラテン語を思わせる「タルタル」をモンゴル人を指す語として用いた。一説には、タルタルがモンゴルの一部族だった韃靼(タタール)の音とよく似ていたからだという。」注意しなければならないのは、現在ヴォルガ川中流で生活するタタール人ではないことである。現在のタタール人はヴォルガ中流域の先住民であるフィンランド人やハンガリー人の祖先たちと、後から移動してきたトルコ系民族(ブルガール人)の混血から生まれた民族で、イスラーム教化し、13世紀にモンゴルのキプチャク=ハン国に服属したが文化的にはモンゴル人を圧倒し、モンゴル人を同化させた。その後、征服者モンゴルを意味するタタールを民族名として自称するようになった。ロシア史においては、野蛮なモンゴルの圧政の下に高いキリスト教信仰を持つロシア民族が苦しんでいた時代、またその後のロシアの後進性であるツァーリズムの専制君主政や封建的な社会のしくみをモンゴル支配時代の影響とする見方が根強い。しかし、そのような見方は事実からは離れている。まずロシアを支配したキプチャク=ハン国は純粋なモンゴル人の国家ではなく、モンゴル人とトルコ系民族が融合した、モンゴル=トルコ人とも言われる人々であり、文化的にはイスラーム化したトルコ文化であった。キプチャク=ハン国が衰退して、モスクワ公国が自立してからも、同じ時期のキプチャク=ハン国の後身であるカザン=ハン国やクリム=ハン国の方が高い文化水準にあった。文化的に高いロシアが野蛮なモンゴルに支配された、というのは誤りである。また、キプチャク=ハン国のロシア諸侯に対する支配も間接統治に止まり、ギリシア正教の信仰も認められていた。

醸楽庵だより   1460号   白井一道

2020-07-09 16:42:10 | 随筆・小説


   ものいへば扇子に顔をかくされて   芭蕉 
 


この句は俳諧の発句ではない。この句の俳諧の発句は「秣(まぐさ)負う人を枝折の夏野哉」である。この俳諧の発句は『おくのほそ道』に載せてある句である。この句を芭蕉は元禄2年4月4日(1689、5、22)、栃木県黒羽で詠んでいる。『おくのほそ道』途上、初めて俳諧歌仙を巻いたものの発句が「秣(まぐさ)負う人を枝折の夏野哉」であり、この歌仙の7句目に芭蕉が詠んだ句が「ものいへば扇子に顔をかくされて」である。この句は芭蕉の恋の句であると東明雅は『芭蕉の恋句』岩波新書の中で述べている。
 「黒羽の館代浄坊寺何がしの方に音信(おとづ)る。思ひがけぬあるじの悦び、日夜語つヾけて、其弟桃翠など云が、朝夕勤(つとめ)とぶらひ、自の家にも伴ひて、親属の方にもまねかれ、日をふるまゝに」と『おくのほそ道』で芭蕉は書いている。芭蕉と曽良は黒羽の浄坊寺図書宅に13泊している。この期間に歌仙は巻かれている。
 「ものいへば」の句は曽良の詠んだ77の句「秋草ゑがく帷子(かたびら)はたそ」に付けたものである。秋草とは着物の絵柄として有名な(辻が花)である。この辻が花の模様の書かれた帷子を着ている方は誰なのかと、いう句に芭蕉は妙齢な女性に話しかけようとしたら、微笑んで女性は顔を扇子で隠されてしまったと詠んだ。曽良の句に恋を呼び出され、芭蕉は恋の呼び出しに答えてこの句をよんでいる。こうした掛け合いが俳諧の面白みだったことが想像される。このような遊びに興じることができたのも女を口説いた経験が芭蕉にはあったからこそ、このような句を詠むことができたのではないかと私は思う。
 14句目の77の句が曽良の「碪(きぬた)うたるゝ尼達あまたちの家」である。この句に付けた15句目の句が「あの月も恋ゆへにこそ悲しけれ」     翠桃(すいたう)の句である。夜分、衣の布を打つ砧の音が響く中、尼たちは昔話に興じている。あの月の光に照らされると昔、娘だった頃の恋の思い出が湧きあがって来る。恋を成就できなかった哀しみが尽きの光に思い出される。この恋に呼び出されて芭蕉が答えている。その芭蕉の77の句が「露とも消えね胸のいたきに」である。叶わぬ恋に張り裂けるような苦しみを抱いた胸の痛みは露のように消えてしまえと、芭蕉は詠んでいる。このように芭蕉が歌仙の中で詠んでいるのを読むと私は芭蕉もまた若かりし頃、叶わぬ恋に苦しんだ経験があるのかなと思ってしまう。
 芭蕉もまた平凡な青年時代を経験している人のように思えてくる。芭蕉は農家の次男であった。当時、農家の次男は嫁を貰うことは叶わなかった。生涯部屋住みの長男に仕える下男でしかなかった。嫁を迎え、一家を構えることがもともとできない運命にあった。ただ叶うことは夜這いするだけだったのかもしれない。その生きる哀しみを芭蕉は当時の恋の句に詠みこんだのかもしれない。
 叶わぬ恋は梅雨のように消えとしまえという発想は古来奈良時代からの読み続けられてきたもののようだ。例えば『万葉集』には次のような歌がある。
 わが屋戸(やど)の夕影草(ゆふかげくさ)の白露(しらつゆ)の消(け)ぬがにもとな思(おも)ほゆるかも
 笠女郎(かさのいらつめ)が大伴家持(おほとものやかもち)に贈った二十四首の相聞歌の一首である。
 「わが家の夕映えの中に映える草の白露のように消えてしまいそうなほどあなたを思って切ない心です」と、家持を思う恋心の切なさを訴えかけている。

 秋萩の上に置きたる白露の消(け)かも死なまし 恋ひつつあらずは
 秋萩の上に置いている白露のように、いっそ消えて死んでしまおうか、こんなに、恋ひ続けていないで
 弓削皇子は志貴皇子と同様に、天皇になれる資格がある立場でありながら、ならずにまた、なれずに 政から一線を置いている皇子の歌は、なんとも言えず、心に沁みこんでくる。

 秋の田の穂の上(へ)に霧(き)らふ朝霞(あさかすみ)何処辺(いつへ)の方(かた)にわが恋ひ止まむ
 秋の田の稲穂の上にかかる朝霞はいつしか晴れるのに私の恋の思いは晴れることがない。恋の思いをとげることができない苦しみを詠っている。
 芭蕉にも同じような思いがあったのかもしれない。

醸楽庵だより   1459号   白井一道

2020-07-08 16:37:58 | 随筆・小説



  自由という不自由に苦しむフリーランス



呑助 辻井伸行さんは盲目のピアニストとして今や世界的なピアニストになっていますね。
侘助 まさに自由が謳歌できるピアニストになっているように思うな。
呑助 才能があるということは素晴らしいことですね、
侘助 才能のない人は学校のピアノ教師になったりしているように思う。中には大学の教師になっているピアニストもいるように思うけれど。
呑助 将棋の藤井聡太さんのような才能の持ち主もいますね。17歳の高校生でありながら、年収は2000万円以上あるようですよ。
侘助 そおらしいね。才能のある人はいいね。でも大半の人にはそのような跳びぬけた才能の持ち主はいない。
呑助 自由というのは、そのような跳びぬけた才能の持ち主にのみ与えられたもののように思ってしまいますね。
侘助 そうなのかもしれないな。日程や収入にしても辻井さんなどの場合は自分の都合や希望が受け入れてもらえる場合が多いように思うな。
呑助 それに対して名の知られていない無名の音楽演奏家などの場合は、音楽事務所などの言う事を聞かなければ仕事がない状況なんでしょうね。
侘助 また収入も自分の希望する額が得られるというものでもないように思う。
呑助 落語家や色物の漫才師や手品師などの場合もフリーランスのようですが、厳しいようですよ。収入がほとんどない状況が若いころはあるみたいですから、アルバイトをしての修行生活があるみたいですよ。
侘助 コロナ禍でフリーランスの仕事をしている人々には何の保障もなく、セーフティーネットが無く、部屋代が払えなくなった人がホームレスになった人がいるようだ。
呑助 自由というのは恐ろしいものですね。
侘助 そう自由は厳しい。自由とは恐ろしい。何の制約もなく、一日を過ごすことは大変なことのようだ。人間は制約されて生活する事によって安心するようなところがあるからね。
呑助 フリーランス。この言葉は格好いいね。格好いいだけ仕事して生活するのは厳しいということですか。
侘助 別の言葉で言うと、日雇い仕事ということだからね。日雇いをフリーランスと言ってごまかしているのかもしれない。多様な働き方を推進していきたいと舛添氏が何かの大臣をしていた時話していたが、労働の現場を知らない人間の言う事のように感じたな。
呑助 働き方の自由には、何の保障もない。だから飢える自由があることを政府は何も説明しなかったということですかね。
侘助 健康保険は国民健康保険で社会保険と比べて幾分割高のようだが、自治体が運営しているので自治体によって運用が違っているようだ。都市部の豊かな自治体の場合は良いが自治体財政の厳しい自治体もあるからね。
呑助 フジテレビに勤めていた人がフリーランスになったら、勤めていた時の半分の収入を得るのも精一杯だったと話していましたよ。
侘助 新聞やテレビの業界も徐々に厳しくなってきているという話を聞くね。
呑助 それが徐々に拡大しつつあるという状況もあるということですか。
侘助 社会は悪くなっていくと言うか、確かに一部の人は良くなっていくが大半の人の生活は徐々に悪くなっていくということか起きている。
呑助 今までごく普通に生活していた人が夜の電気代を節約するために早く寝るという話を聞きましたよ。
侘助 そう、東京では都営住宅が貧しい高齢者住宅になっているらしいね。
呑助 そおらしいですよ。家を建て、出て行った方の後には貧しい高齢者が入居してくるらしいですね。
侘助 夫婦二人の高齢者がかつかつの生活している都営住宅がいくつもあるらしいからね。
呑助 私にも知り合いがいますよ。彼には息子がいました。その息子が大学二年の時に家に閉じこもり、四十歳になりましたよ。その息子と老夫婦が都営住宅に居ますよ。
侘助 世の中には身体に障害を抱えていてもそれを障害とすることなく、世界的なピアニストになる人がいる一方で家に閉じ籠ってしまう若者がいる。いや定年退職後家に閉じ籠る老人もいる。

醸楽庵だより   1457号   白井一道

2020-07-07 15:05:26 | 随筆・小説


   ロシアを嫌うロシアの若者

 
呑助 ロシアの女の人は綺麗だね。
侘助 確かに綺麗な人がいる。しかしすべての女性が綺麗だというわけではないだろう。
呑助 でも皆、色は白く、眼は青く、痩せてスラっとしているように思いますね。
侘助 若い女の人はスラっとしているようだけれども、年と共に太って来るようだよ。
呑助 それはどこの国でも同じですかね。
侘助 そうなんだと思う。肌の色が抜けるように白い女性がいることは確かなことだけれども、アジア人と同じような肌色をした女性もいるようだ。
呑助 ロシアは広いからいろいろな民族の人がいると言う事なんですかね。
侘助 ウラル山脈より西側のヨーロッパ側にいるロシア人の中に背が高く、目が青く、色白の人がいるのだと思う。
呑助 最近、you tubeで若いロシア人女性が日本語でロシアに住みたくないという動画を見た。上手な日本語のyou tuberでしたよ。
侘助 そのロシア人女性はなぜロシアに住みたくないと言っているの?
呑助 そのロシア人女性の名前はアシアというようだ。いろいろ理由を挙げている。その一つがロシアには凄い酔っ払いがいるということを言っていた。
侘助 どんなに凄いのかな。
呑助 日本では考えられないような酔っ払いのようだ。アシアがバスに乗っていた時の話だ。酔っ払いがバスに乗り込もうとしてきた。運転手がウォッカの瓶を持って乗り込もうとしてきた酔っ払いに注意すると酔っ払いはウォッカの瓶を割り、バスの運転手の頭を殴りつけた。血が飛び散り、大騒ぎなった。アシアは恐ろしくなり、バスから降りてしまったというような話をしていた。それに比べ、日本人にはそれほどの酔っ払いを目にしたことはないと話していた。
侘助 日本の酔っ払いとヨーロッパ人の酔っ払いとでは大きな違いがあるみたいだね。
呑助 私はお酒が大好きですがね。人に絡んだり、暴力を振るったりすることはありませんね。
侘助 昔の日本人の酔っ払いは凄かったように思うな。私が子供だった頃かな。喧嘩をする酔っ払いが街中にはあったように思うよ。横浜の野毛、飲み屋街があった。そこでは暴力沙汰が日常茶飯事であったように思うな。
呑助 昔の日雇い労務者ですかね。宵越しの金は持たないなどと言って飲み崩れていたということですか。
侘助 幾分日本人の生活水準が上がった結果、どうしようもない酔っ払いがいなくなったのではないかと思っている。
呑助 まだまだロシア人の生活水準が低いためにそれに伴って酔っ払いの倫理水準が低いということですかね。
侘助 基本的にはそうなんじゃないかと思うな。ただヨーロッパ各国の酔っ払いの酔態は日本人に比べて酷い状況のようだ。それは日本と比べて欧米の貧富の格差は大きいように思っているんだ。日本にも貧富の格差はあるが、欧米と比べてみると小さいように思う。
呑助 それが徐々に拡大しつつあるという状況もあるということですな。
侘助 ロシアにあっては、ソ連邦が崩壊し、一気に貧富の格差が拡大したのではないかと思う。
呑助 ロシアは一時、東側諸国の覇権国として君臨した時代があったのでしょ。
侘助 ロシアはもともと貧富の格差が大きな国だったように思う。スラブ人とは奴隷という意味があったようだからね。西欧諸国からは奴隷の国として扱われた時代があったようだしね。それを一気にひっくり返した出来事がロシア革命であった。しかし社会は徐々に少しづつしか変わって行かないもののようだからね。
呑助 18歳から24歳の若者のアンケート調査によると53%のものがロシアから移住したいと言っているようですよ。驚きですよ。
侘助 ソ連の社会主義が間違ってしまったというとなんだと思う。厳しい冷戦を五十年も続けたからね。この冷戦によってロシアは破壊されてしまったのではないかと思う。数々の困難に社会主義の在り方がゆがめられたという事のように私は考えているんだ。
呑助 最大の困難とは何なんですかね。
侘助 それは何といっても軍事費の圧力じゃないかな。軍事費に国力を注入したことかな。

醸楽庵だより   1457号   白井一道

2020-07-05 16:59:03 | 随筆・小説



  政治と友情について



 政治の世界での裏切りは日常茶飯事のようだ。昨日の敵は今日の友となり、昨日の敵は今日の友になったりするようだ。戦国時代の下克上の世界が政治の世界なのかもしれない。そのような世界を我々国民の目の前で繰り広げられた出来事がある。それが衆議院第48回総選挙であった。
 民進党代表、前原誠司氏は小池百合子率いる「希望の党」との合流を意図して民進党を解体したのだ。それまで野党の統一を目指して選挙協力体制を構築すべく、共産党、社民党は努力してきたが、それを一気に打ち壊したのが民進党を解体し、希望の党への合流であった。共産党、社民党は前原誠司氏を裏切り者として見なしたのではないかと思う。
 この前原誠司氏の裏切りに意図することなく加担してしまった衆議院議員たちの中に小川淳也氏がいる。小川氏の国会質問を聞いていると前原氏のような裏切りができるような人物ではない。真っ正直な、人を騙すようなことができない人のようである。愚直に生きる政治家、政治家ならぬ政治家、そのような印象が国会質問にはある。この小川淳也氏を17年間にわたってカメラに収めて来たドキュメンタリストがいる。大島新氏である。彼は大島渚映画監督の息子である。私が中学生だった時、松竹ヌーヴェルバークの旗手として大島渚は登場してきた。奈良の場末の汚い映画館で炎佳代子主演の映画「太陽の墓場」を見た経験がある。何か私の中にある汚いものが映像化されているような嫌な経験であった。それ以来私は大島渚の映画を見たいと思ったことはない。それでも大変な有名人であった。しかし大島渚の息子である大島新氏は父親とは違い、真実があるようなドキュメンタリストのようだ。大島新氏が小川淳也氏を17年間にわたって撮影し続けた映画が「なぜ君は総理大臣になれないのか」である。私はこの映画を見ていない。ただ私は小川淳也氏の国会質問を聞き、小川淳也衆議院議員のファンになった者である。大島新監督に17年間もカメラを回し続けさせる魅力が小川氏にあったという事なのであろう。私が小川氏のファンになったように大島監督もまた小川淳也氏のファンになったのであろう。小川議員が初めて衆議院選挙に立候補し、落選したときから17年間カメラを大島監督は回し続けて来た。きっとフイルム代にもなるかならないかの写真を撮り続けて来た。小川氏にはそれほどの魅力があったからなのであろう。
 「なぜ君は総理大臣になれないのか」が映画館で上映され始めると大島新氏へのインタヴューがyou tube で配信された。この中で清濁併せ持つというようなことのない愚直な政治家がいると大島氏は言っている。このような純な政治家は共産党の中に二、三いるだけだと、言う人がいると話していた。私も本当に小川淳也氏は清潔な政治家、真っ正直な政治家だと思っている。ここに小川氏の魅力があるように感じている。
 小川氏はインタヴーを受け、次のような発言をしていた。大島新氏を私は友人だと思っているが「友だち」だとは思っていない。このように小川氏は発言していた。この友人と「友だち」との違いについての私の考えを述べてみたい。
 小川氏は前原氏を尊敬していたと発言している。だから2017年に行われた衆議院選挙において前原氏と一緒に選挙に臨んだ。しかし選挙後小川氏は前原氏と袂を分けた。小川氏は無所属になった。国会内では「立国社」の会派に入り、国会でも質問権を得ているという。その後、前原氏とも年に数回は合い、仲良く歓談はするという。前原氏は小川氏にとって友人から「友だち」になった。和して同ずることはないということのようだ。自民党の中にも小川氏は友だちがたくさんといるらしい。
 小川氏にとって大島氏は「友だち」ではなく、真の友人のようだ。しかし政治の世界にあって、和して同ずることがなく、政治をすることは非情な事でもあるように思う。元総理の小泉純一郎氏は昔の仲間の選挙区に刺客を立候補させたことがある。元内閣官房長官後藤田正晴は共産党の不破哲三氏と仲良かったと話していたが、気を抜くことはなかったとも話していた。
 和して同ずることなかれと、昔の人が言ったというが、裏切った者を友だちとして仲良く付き合うことが本当にできるのだろうか、疑問である。そこには憎しみのような感情はおきてこないものなのだろうか。あくまで表面的な人間関係になっていくのではないかと思う。共産党の場合は赤裸々である。例えば筆坂秀世氏という共産党の幹部がいたが、問題を起し、国会議員を辞めさせられた後、秀坂氏は反共主義者に転落し、共産党を批判している。

醸楽庵だより   1456号   白井一道

2020-07-03 15:41:30 | 随筆・小説


  全世帯型社会保障制度の導入は福祉の削減だ 



高福祉高負担の全世代型社会保障を導入することなしにこれからの日本の高齢者福祉を持続することはできないと野党議員が述べるyou tubeを見た。野党議員氏はこれからの日本の年齢別人口構成を図解したものを見せていた。
 このyou tube を見る気になったのは、小川淳也衆議院議員の話だったからである。彼は北欧諸国を視察し、国民が政府役人や国会議員を心の底から信頼していることに痛く感銘を受けた経験があるようだ。高い消費税を支払うことを嫌がっていない。政府に支払った税金は確実に国民に戻されてくることを信じている。国民が政府を信頼していることに心底驚いた経験があるようだ。日本の国民は政府を信頼していない。税金はできるだけ安くしてもらいたい。これが日本の国民感情だという認識を小川議員は持っていたようだ。国会議員である政治家が国民の信頼を得ることができるなら高福祉高負担の税制が導入できると小川議員は考えているようだ。国民が政治家である国会議員におねだりすることがなくなり、政治家が国民の信頼を裏切るようなことをしないならば、高福祉高負担の税制を導入することが可能となり、持続可能な福祉制度を実現できると考えているようだ。
 確かに中学一年生の時に初めて社会科の授業で年齢別人口構成を習った経験がある。更に高校ではもう少し詳しく人口問題を勉強した経験がある。発展途上国の年齢別人口構成は高齢者になるにしたがってその人口が少なるピラミッド型をしている。それがより先進国になるに従って年齢別人口構成が釣り鐘型になっていく。高齢者の割合が全人口の中で増えていく傾向が出てくるというものだ。最終的には高齢者と低年齢者の割合が少なくなるつぼ型へとなっていくと高校の地理の教科書では説明している。
 この事を小川議員は歴史的なものとして説明していた。確かに産業革命は世界各国で人口爆発を発生させた。人口の増加は自然なものではない。人口の増加は人為的なものである。食料生産量によって人口は制約されている。世界的に見るならば稲作のできる地域の人口は多い。人口密度が高い。南アジアから東南アジア、東アジアのモンスーン地帯では稲作ができる。この地域の人口密度は高く。人口も多い。それに比べてヨーロッパなどの畑作地域にあってはアジアの稲作地域と比べて人口密度は低く、人口も少ない。ヨーロッパは一粒の麦を蒔いて一粒の実しか実らないと西洋史の授業で聞いた言葉がある。食料のカロリー量によって人口は制約されている。ヨーロッパは痩せた食料の地域、それに比べてアジアは食料の豊かな地域だ。人口問題を考える場合には、このような地理的条件も考えるべきであろう。
 世界の歴史を考えてみると産業革命に匹敵する技術革新がある。それは新石器の発明であった。イギリスの考古学者、チャイルドは新石器革命という言葉を使っている。新石器の発明によってはじめて農耕が可能になったと言われている。農耕の始まりによってそれまでの人々の生活を一新し、人口が爆発的に増大した。それは一面、人類の哀しみの始まりでもあった。国家が誕生した。国家が成立することによって一部の人々の生活が豊かになる一方、それまで以上に生活が苦しい奴隷身分の者が出現してきたのだ。新石器、農耕の始まり、国家の誕生は文明の誕生である一方、奴隷身分の者が大量に出現した。それ以来人口の量的拡大は少しずつではあったが、増大したが、爆発的増大は18世紀にイギリスではじまる産業革命まで起きなかった。
 産業革命は一方の人々を豊かにしたが、他方には窮乏化し、奴隷のような状態に留め置かれる人々を生み出した。その中にあって人々は豊かさを求めて貧しい人々は子供を持つことが豊かになることだと子供を作り、働かせることによって豊かな生活を求めた。その結果が産業革命による人口爆発であった。産業革命は世界的規模で貧富の格差を拡大した。労働人口を求める国の人々は外国から食料を輸入した。食料を輸出した国にあっては食料が欠乏する人々が生まれて来た。食料を輸出することによって豊かになる人々がいる一方、たくさん食料が生産されているにもかかわらず輸出されてしまうため、飢える人々が生れた。産業革命まで食料生産の少ない国々が食料を買ってしまうため、飢える人々が生れた。産業革命の恩恵に預かった国々で人口が爆発的に増大した。経済が成長し続ける限り人口は増え続け、年齢別人口構成はピラミッド型であり続けた。がしかし、世界的な貧富の格差が縮小してくるに従って先進資本主義国の成長の限界が見えて来ると年齢別人口構成が釣り鐘型になっていく。国の在り方を変える事なしの全世代型社会保障は弱者切り捨てだ。


醸楽庵だより   1455号   白井一道

2020-07-01 15:18:15 | 随筆・小説



  出家の記  3



 日光の街中から田舎に来た。これが実感だった。蜻蛉がたくさん飛んでいた。谷戸と呼ばれる小さな山と山との間に開けたところの真ん中に大きな農家があり、その周りに民家が十軒ぐらい建っていた。一日中、日の当たることのない北側の六畳一間を間借りであった。便所は南側の一間を間借りしている女性との共同使用であった。水道はなかった。農家の後ろに井戸があった。その井戸に紐に縛り付けたバケツを下ろし汲み上げてバケツに水をあけ、そのバケツを軒下に運び、そこで調理し、七輪で起こした火に鍋をかけ、煮炊きしていた。今から思うと母の苦労がどのようなものであったかがわかる。そのような母の苦労を理解することなく、私は歩いて四、五十分はかかる小学校へ通っていた。当時横浜の小学校低学年は二部授業だった。早番と遅番があった。早番の時は朝早く学校に行く。遅番の時は午後学校に行った。何を学んでいたのか全然記憶に残っていることはない。私は栃木県日光からの転校生だった。方言を笑われた記憶はない。私は横浜の方言が耳新しかった。横浜の農村地帯には一首独特な方言があった。「じゃ」、「じゃんか」と言う言葉が語尾につくことの違和感が記憶に残っている。
 この一年弱の滞在期間で残っている屈辱感は子供たちの間の遊び仲間から仲間外れにされたことである。ある時は私一人を遊び仲間全員が暴力的ないじめを去れたことである。私は恐ろしくなって家に帰ると家にいた「お父さん」が出て来てその遊び仲間を蹴散らしてくれたことがあった。それ以来、家の近所が子供たちが集まり、遊ぶことがなくなった。表に出てきて遊ぶ子供たちがいなくなった。それでも私は誰かと一緒に遊びたい一心で表に出て行き、一人で走ったりして遊んでいた。その時である私より年上のリーダー格の少年が私に言った。学校への通り道にある神社あたりのグループの少年と対戦する喧嘩をしないかと言った。私は承諾した。この喧嘩で勝つことができるなら遊び仲間に迎えてもらえると思ったからだ。対戦相手はやはり遊び仲間の中では浮いている少年のようだった。確かに私と同じように仲間たちから生意気だと云われている少年のようだった。私もその少年からイジメのようなことをされた記憶があった。私はリーダー格の少年が運転する自転車に乗せられて、対戦会場になる熊野神社の広場に夕方出向いて行った。高揚する気持ちと不安で保田氏は一杯だった。薄暗くなった広場に向かうと対戦相手はすでに準備万端喧嘩の準備は整っていた。私とあいての少年は向かい合い、殴り合いをした。二、三分の出来事であったが、私には長い時間のように感じられた。全然痛みを感じることはなかった。取っ組み合い、相手を倒すと起き上がり向かってきた。私はその時思い切り蹴り上げ、殴りかかった。これが俺の限界だと感じたときだ。突然、相手が泣き出した。私の気持ちが萎えていくのが分かった。と同時にあっけないものだとも、これで助かったという安心感も湧き上がって来た。帰りは悪いことをしてしまったという嫌な気持ちに襲われていた。この事以来、私は遊び仲間から外されることはなくなったが、私は誰とも仲良くしたいという気持ちもなくなった。それからすぐのことだったように思う。私たち家族は新築の二軒長屋の借家に引っ越すことになった。旧居から徒歩で10分くらいのところにある住宅地にある唯一の二軒長屋であ。二畳ぐらいの台所、四畳半と三畳の部屋しかない狭い借家だった。この借家が私の少年時代を過ごした住まいである。この借家にも風呂がなかった。当初は風呂屋まで三、四十分歩かなければならなかった。一年もすると東横線大倉山駅近くに風呂屋が開業した。この銭湯に通うことになった。
 小学校の高学年になると私たちの唯一の遊びが野球だった。野球ができなかったのでソフトボールの三角ベース遊びだった。そのうち野球チームを作ろうという話が持ち上がり、私たち悪ガキたちは鉄屑拾いをしてお金を集め、野球道具を揃えようとしていた。まずユニホームを作る。チーム名を作ろうと話し合った。その結果、私たちのチームは農村地域にあった。最も田舎っぺのチームだった。そこで師岡ベアーズとした。少年野球のチームの中では最も弱いチームだった。監督もいないチームだった。助けてくれる大人の人は誰はいなかった。街場のチームと対戦すると相手チームには大人の監督さんが付いていた。私たちの対戦チームは連戦連敗のチームだった。私はいつのまにか、チームの主将の役割をしていた。ある時、一駅ほど歩いて遠くのチームと対戦することになった。その時である。私はファーストミットとグローブを持っていた。そのファーストミットを年下の少年が失う出来事があった。


醸楽庵だより   1454号   白井一道

2020-06-30 15:07:53 | 随筆・小説


   出家の記  2 
 


 伯父の仕事に来ていた人が我が家によく出入りするようになった。その男の人を私はアンちゃんと呼んでいた。母は裏の家の婆さんと仲良く付き合っていた。突然その裏の家の婆さんの家に連れていかれ、昼ご飯をよばれることがあった。その時の事が未だに鮮明に記憶に残っている。そのおトク婆さんが私に何回も明日からアンちゃんをお父さんと呼ぶんだよと言われたことが記憶に残っている。私は特に抵抗を覚えることもなくアンちゃんをお父さんと呼び習っていった。その「お父さん」の思い出で最も古いものは自転車のハンドルと座椅子との間の鉄棒に私は尻を乗せ、ハンドルに捕まった記憶だ。私は恐ろしさのあまり、ハンドルを強く握りしめると「お父さん」は強く私を叱責した。そんなに強くハンドルを握られると運転できないと強く怒った。その言葉に優しさのようなものを私は感じなかった。そのうち「お父さん」は家からいなくなり、一月に一度くらいしか返って来なくなった。「お父さん」は母の縁故を頼り、横浜に仕事を求めて出て行ったようだ。母が私の手を引き、近所の人と横浜と日光の二重生活だから大変だと言うようなことを話していたことが記憶の底にある。いつも「お父さん」は手土産を持って帰って来た。ある時、手ぶらで帰ってきたことがある。横浜で買い求めたお菓子を電車の網棚に乗せ、偶然知り合いと乗り合わせ、世間話に夢中になり、日光駅に着いた時、網棚のお土産の菓子箱は無くなっていたとしょんぼりして帰ってきたことがあった。
 私は日光市立清滝第二小学校に入学することになった。小学校の門を入ると二宮金次郎の石像が立っていた。背中に薪を背負った金次郎は手には本を開いた石像だった。その石像の脇を通り、グランドに「お父さん」と並び、校舎を眺めていた記憶が残っている。姉が私の教室にやって来て、時間割を書き、その紙を私に渡した。その一年生の時のことだった。ある日の事、私は小学校の便所に入り、大便をする勇気がなかった。とうとう我慢できなくなり、教室で漏らしてしまった。担任の女性の先生に私は憧れていた。その井上先生は私を便所に連れて行き、私のお尻に水道の水を流し、パンツとズボンを水洗いして下校していいと言った。私ははしゃぎまわり、恥を隠そうとしていた。
 小学校の二年生になった。運動会になると街の人が皆、莚を持って小学校の校庭に集まるお祭りだった。しかし私の母や「お父さん」が来ることはなかった。それでも寂しかった記憶は残っていない。家に帰ると私は祖母のいる離に行くことが習慣化していた。長火鉢の後ろにいる祖母にお祖母ちゃんと言うと出て来て五円くれた。その五円を持って駄菓子屋に私は行った。
 ある時、私は従妹と庭で遊んでいた。私が何か悪さをしたのかもしれないが何をしたのか、記憶はない。ただ伯父が出て来て私を捕まえ、お前は男の子なんだぞと、道の真ん中で大声で怒られた。私は大声でただ泣くばかりだった。人垣ができ、その中で長い時間怒られ続けた。周りの人々が興味深げに眺めていた。私は家に帰り、台所の隅でいつまでも泣き続けていた。母は一切私を弁護することはなかった。「男の子なのにいつまで泣いているの」と、怒られた。ただ何となく男の子は泣いてはいけないのだという気持ちが湧きあがって来た。それ以来、私はどんなに泣きたい気持ちに駆られても泣かなくなったような気がする。それでも泣いた記憶がある。私は風をひき、学校を休んだ。学校に登校すると算数の試験があった。今までは+の記号しか教わったことがない。それまで見たこともない記号-があった。どうすればよいのか分からず、足し算をして提出したら、すべて✖になっていた。その解答用紙を貰い、母に出した時に私は泣いていた。本当に心の弱い子供だった。通知簿を貰ってもそこに何が書いてあるのかも充分理解することなく、学校生活を楽しんでいた。
 小学校の二年生の秋、我が家は横浜に転居することになった。新しい転居先は横浜市港北区の農村地帯にある大きな農家の一室を間借りすることになった。駅からは歩いて30分くらいかかる農村であった。港などどこにあるのか全然分からなかった。母と私たちは電車で行った。日光駅を東武電車で出発するとき、近所にいたお姉さんが日光駅の売店にいた。そのお姉さんが私たちを見送ってくれたことが記憶に残っている。浅草駅近くになるとお化け煙突があることを母に教えてもらった。電車が進むに従って煙突の数が変わっていく。不思議に思った記憶が残っている。東横線大倉山駅に何時ごろ着いたのか記憶はない。

醸楽庵だより   1453号   白井一道

2020-06-29 17:03:31 | 随筆・小説


  出家の記  1



 気づいた時、私には父がいなかった。それが当たり前のことであった。私は母の実家の家作にいた。大きな門構えのある母屋の周りにある一軒家に住んでいた。その家にはお店と呼んでいた部屋が道路に面して土間があり、昔はそこで何かの商売をしていた場所だったのかもしれない。
 家の前を通る道路は中禅寺湖に通じる唯一の道のように私は思っていた。東武日光駅から中禅寺湖に向かう途中の清滝町で私は生まれた。生まれたのは1945年である。まだ戦争は終わっていなかったと聞いている。父は兵隊検査を受け、丙種合格で入隊したが結核を発病し、除隊となり、当時住んでいた東京、雑司ヶ谷の借家に帰り、母の実家に疎開することになったと聞いている。1945年3月10日の大空襲を私は母の腹の中で経験しているようだ。身重の母は肺病を病んだ父を支え、2歳上の姉を抱え、大変な思いをして日光の実家へ疎開し、そこで男の子を出産した。戦争はまだ続いていた。6月に私が生れ、8月に日本軍は敗戦した。空襲警報、灯火管制という放送が耳の底に今でも残っている。父は12月に20代の若さで亡くなった。私には父の顔を見た記憶がない。
 父は新潟県佐渡島出身の人であるという話を聞いた。子供のころ、父の実家に行った記憶はない。私が生れた時にはすでに祖父という人は亡くなっていたようだ。祖母は生きていたようだが生前逢ったことはない。祖母の記憶は私がごく幼少の頃、何かを贈ってくれたことがある。母がお祖母ちゃんからだよと言った言葉だけが耳に残っている。何が贈られてきたのか、記憶は何もない。
 父の家も母の家も一時は豊かな頃もあったようだが、父が旧制中学を卒業するころ、祖父の事業が行き詰まり、倒産している。父は伯母の嫁ぎ先の支援を得て東京の大学に進学し、卒業したようだ。母の実家も豊かな時があったようだが、母が高等小学校を卒業するころは祖父の事業が経営不振に陥り、母は進学を諦め、東京に出て今の三井記念病院の前身三井慈善病院の看護婦養成機関に入り、そこを出て看護婦になった。その頃、母は中野のアパートに新聞記者をしていた伯父と一緒に住んでいたようだ。そのアパートで父と母は知り合い、結婚したようだ。母の方が1、2歳年上で、戦時下のもと結婚生活が始まった。戦争は激しくなり、本土空襲が度重なる中、父と母は母の実家のある日光へ疎開し、そこで私が生れ、父は肺結核が重病化して死亡する。
 母の実家には跡をとった伯父が土建屋をしていた。母屋の後ろには土方が寝泊まりする飯場のような家が2軒建っていた。伯父が大きな声で土方を怒鳴りつけている声がよく響いて来た。祖父が私を可愛がってくれたことをうっすらと記憶に残っている。夕方になると祖父は一人御燗をしてお酒を楽しんでいる姿がうっすらとした記憶がある。私のお酒を飲まり、酔っぱらったことを祖父が楽しんでいると母が厳しく祖父を怒ったようだ。この祖父が生きているうちは母も実家で生活することにそれほど気苦労することもなかったようだが、祖父が亡くなると母は実家で生活が息苦しいものになった。伯父が仙台の方の仕事を請け負い、家を出ていた時は良かったが、その伯父が仙台から妻ともう一人の女性を連れて家に帰って来てからが地獄だった。その女性が女の子を生んだのだ。さらにその女性には女の子の連れ子がいた。祖母は伯父が女性に産ませた女の子を育てろと言ったようだが、叔父の妻はそれを断り、怒り抜き家を出て行った。伯父が仙台から連れて来た女性が妻になった。母は自分の兄がしたことを生涯許すことはなかった。伯父が仙台から連れて来た女性を母は嫌っていたし、またその女性を許すこともなかった。母と義理伯母が仲良く話し合う姿を見たのは伯父が亡くなり、母が80歳を過ぎてからのことであった。
 母は遺産分けが済むと祖父が所有していた家作の一つが母の家になり、お店と言われた家を出て新しい家に引っ越した。その家には風呂がなかった。母の実家の風呂に入りづらくなったのか、銭湯に通うようになった。真冬の日光清滝町の銭湯に行き、家に帰り着くと手拭いが凍った。帰り道夜空を仰ぎ、あれが北斗七星、あれが北極星、星空を仰ぎ見る楽しみを知った。
 母は星空を子供と共にどのような思いで見ていたのだろう。これからの生活を思うと真っ暗闇の中、どう生きて行けばいいのか、どうして子供を育てて行けばいいのか、途方に暮れていたのかもしれない。寒いと感じることもなく私は元気にはしゃいでいたのかもしれない。真冬の日光の星空の美しさだけが私の脳裏に残っている。

醸楽庵だより   1452号   白井一道

2020-06-28 12:44:11 | 随筆・小説


   方丈記 17



原文
  抑(そもそも)、一期(いちご)の月影かたぶきて、余算の山の端(は)に近し。たちまちに、三途の闇に向はんとす。何の業(わざ)をかかこたむとする。仏の教へ給ふ趣(おもむき)は、事にふれて執心(しふしん)なかれとなり。今、草菴を愛するも、閑寂(かんせき)に著(ぢやく)するも、障(さは)りなるべし。いかゞ、要なき楽しみを述べて、あたら時を過ぐさむ。しづかなる暁(あかつき)、このことわりを思ひつゞけて、みづから心に問ひていはく。世をのがれて、山林にまじはるは、心を修めて道を行はむとなり。しかるを、汝、すがたは聖人(ひじり)にて、心は濁りに染(し)めり。栖(すみか)はすなはち、浄名居士(じやうみやうこじ)の跡をけがせりといへども、保つところは、わづかに周利槃特(しゆりはんどく)が行にだに及ばず。若(もし)これは貧賎の報のみづからなやますか、はたまた、妄心(まうしん)のいたりて狂せるか。そのとき、心、更に答ふる事なし。只、かたはらに舌根(ぜつこん)をやとひて、不請阿弥陀仏(ふしやうのあみだぶつ)両三遍申てやみぬ。
 于時(時に)、建暦のふたとせ、やよひのつごもりごろ、桑門の蓮胤、外山の菴にして、これをしるす。




現代語訳
 そもそも、人間の一生の後半生は残っている寿命の山の端にいるようなものだ。たちまちにして三途の川に向かおうとしている。今さら何を言うことがあろうか。仏が教えていることはどのような事にも執着してはならないという事だ。今、私は草庵を愛しみ、閑寂にいることに執着しているのかもしれない。これ以上、何の役にも立たない楽しみを述べて、残り少ない時間を過ごそうとしているのか。静かな夜明けの時間に、この道理を観想し、我が心に問うている。世俗を離れ、山林の中に入ることは、心の修養と戒めを守るうとすることである。なぜなら私の姿は聖人の格好をしているが心は汚れていた。住家は正に浄名居士維摩の方丈に似せてはいるが、その修行はあの愚鈍な周利槃特(しゆりはんどく)にも及ばない。これはもしかして貧賤の因果の応報か、はたまた煩悩ゆえに狂ったのか。その時、心は何の反応もなかったのか。ただ自堕落に口を動かし、不精な阿弥陀仏を二、三弁唱えてそれで終わった。
 時に建暦二年三月末ごろ、僧侶の蓮胤(れんいん)、山の中の庵にてこれを書く。


 読み終わっての感想  白井一道
 人間の一生も終わってみればあっけないもののようだ。そうした蟻の集団のような人々の集団の一人一人がそれぞれの生活を営み、終わっていく。そうした人々の生活の営みが歴史を創っていく。大河の流れになって大海へとそそがれていく。
 800年前に生きた人も現代に生きる人も気持ちは同じだということを『方丈記』を読み実感した。800年前の日本には災害が多かった。その災害の規模が今では考えられないくらいに大きなものであった。この日本の災害は変わることなく、現代にあっても毎年、災害が襲い来る。特に大きな災害は2011年に起きた「東日本大震災」であった。この地震による津波が原子力発電所を襲い、地震によって破損した原子力発電所が破壊された。絶対安全だと云われていた原子力発電所がちっとも安全なものではなかったことが明らかになった。原子力発電所の立地していた地域に住む人々は故郷を奪われた。このような災害は昔はなかった。災害が過ぎれば元に戻ることが可能であったが永遠に土地を奪われてしまった。決して人間が住むことができない地域ができてしまった。空前にして絶後の大災害が科学技術が発展した国において起きてしまった。
 鼻高々と科学技術文明を誇っていた人間の鼻をへし折ったのは自然を痛めつけた人間への自然からの復讐だった。もっと自然に対して謙虚になれと人間へのメッセージであった。自然と折り合う以外に人間は生きていけない。自然に耳を傾け、自然を謙虚に受け入れる以外に人間は生きていくができないということを教えてくれたのが2011年に起きた大災害、「東日本大震災」であった。この災害の後遺症は永遠に残り続けるようだ。数万年の単位でしか、放射能を無害化することはできないようだ。
 人間の一生とは自堕落に口を動かし、いい加減な阿弥陀仏を唱えるのが精一杯のようだ。