タタール人について
白い肌、金髪、青い目の女性が日本語で私はタタール人ですと、自分で作成しているyou tuberで述べていた。一見するとどこにもアジア人の風貌がない。出身はどこなのかなと思ってアシヤさんのyou tubeを見ていると母親が出て来た。母親の姿にアジア人の血を感じた。黒い髪の毛、黒い瞳、肌の色にアジア人を感じた。もともとこの地域にはアジア系といってもトルコ系の民族が古くから流入していたようだ。アシヤさんの出身地に興味を抱き、次々とアシヤさん作成の動画を見ていると故郷へ帰還した映像があった。アシヤさんはウラル山脈の東側に位置するチェラビンスクの出身のようだ。モスクワから電車で29時間ぐらいかかるようだ。
チェラビンスクはタタールスタン共和国にあるのかと思い地図で確認してみると違っていた。クリミヤをロシアが併合したとウクライナが抗議し、紛争になっている。このクリミアの住民の大半はタタール人だと教えられた。ロシアの南部、ウラル山脈からカスピ海、黒海の北側の地域には多くのタタール人が居住しているということを知った。
タタール人はロシアの中にあって政治的にも経済的にも有力な民族のようだ。人口もロシア人に次いで多いのがタタール人である。このタタール人の中にはほぼコーカソイドと同じ形質を持つ人がいることを知った。ロシアは多民族国家なのだ。タタール人にはタタール語がある。ロシア語とは異なる言語がロシア国内において話されている。
若かったころ『マルクス主義と言語学の諸問題』スターリンの書いたものを読んだ記憶が蘇った。ロシアのような多民族国家にあっては言語帝国主義の問題が起きてくるのはもっともなことだ。公用語をロシア語にする以上、どうしてもロシア語を母語とする人々が有利になる言語帝国主義が出てくることに注意しなければならない。
ロシア史には「タタールのくびき」と言われる時代がある。モンゴル帝国のバトゥの西方遠征によって、1240年にキエフ公国が滅ぼされてから、1480年に独立を回復するまでの約240年続いた、ロシアがモンゴル人の支配を受けていた時代のことである。つまりロシアがモンゴルの支配を受けていた時代である。ノヴゴロド公アレクサンドル=ネフスキーは東方からのスウェーデンやドイツ騎士団の侵入を撃退したが、キプチャク=ハン国にはみずから進んで臣従し、1252年にはモンゴルの力でロシア正教の主教座のあるウラディミール大公となった。その後、ロシア諸侯はキプチャク=ハン国に対して貢納するという形で服属を続け、1480年、モスクワ大公国のイヴァン3世がキプチャク=ハン国から自立してその軍を撃退し、「タタールのくびき」は終わりを告げる。「世界史の窓」より
「タタールという言葉には、いつもある独特な響きがつきまとう。13世紀のヨーロッパ人たちの祖先は、”地獄から来れる者ども”(エクス・タルタロ)というラテン語を思わせる「タルタル」をモンゴル人を指す語として用いた。一説には、タルタルがモンゴルの一部族だった韃靼(タタール)の音とよく似ていたからだという。」注意しなければならないのは、現在ヴォルガ川中流で生活するタタール人ではないことである。現在のタタール人はヴォルガ中流域の先住民であるフィンランド人やハンガリー人の祖先たちと、後から移動してきたトルコ系民族(ブルガール人)の混血から生まれた民族で、イスラーム教化し、13世紀にモンゴルのキプチャク=ハン国に服属したが文化的にはモンゴル人を圧倒し、モンゴル人を同化させた。その後、征服者モンゴルを意味するタタールを民族名として自称するようになった。ロシア史においては、野蛮なモンゴルの圧政の下に高いキリスト教信仰を持つロシア民族が苦しんでいた時代、またその後のロシアの後進性であるツァーリズムの専制君主政や封建的な社会のしくみをモンゴル支配時代の影響とする見方が根強い。しかし、そのような見方は事実からは離れている。まずロシアを支配したキプチャク=ハン国は純粋なモンゴル人の国家ではなく、モンゴル人とトルコ系民族が融合した、モンゴル=トルコ人とも言われる人々であり、文化的にはイスラーム化したトルコ文化であった。キプチャク=ハン国が衰退して、モスクワ公国が自立してからも、同じ時期のキプチャク=ハン国の後身であるカザン=ハン国やクリム=ハン国の方が高い文化水準にあった。文化的に高いロシアが野蛮なモンゴルに支配された、というのは誤りである。また、キプチャク=ハン国のロシア諸侯に対する支配も間接統治に止まり、ギリシア正教の信仰も認められていた。