遊心逍遙記その2

ブログ「遊心逍遙記」から心機一転して、「遊心逍遙記その2」を開設します。主に読後印象記をまとめていきます。

『対決』 月村了衛  光文社

2024-08-29 22:36:13 | 諸作家作品
 東京地検特捜部は、裏口入学に関わる贈賄容疑で統和医科大学の強制捜査を行った。関係書類を根こそぎ押収していったのだが、その中に入試関連の書類がすべて押収されてしまっていた。その書類は、裏口入学問題よりも大学の存続を脅かしかねない資料だった。日邦新聞社社会部の檜葉菊乃記者は、裏口入学関連のネタをつまもうと聞き込み活動をしている時に、初老のドイツ語講師瀬島からその書類のことを聞きこんだ。統和医科大学は入試において、女子学生をできるだけ合格させないようにするために女子の点数を一律減点している。2010年頃には既にそれが常態化していたという。
 もしそれが事実ならば、裏口入学問題よりもはるかに衝撃的な女性差別問題である。檜葉は大スクープの端緒をつかんだ高揚感とこのネタをものにしたい意欲を感じる。
 「Ⅰ 端緒」を読み始めて、かつて複数の医科大学で行われていた不正入試問題が大きく報道されていた事実を思い出した。

 本作は、過去の不正入試問題を踏まえて、入試における女子の点数の一律減点という不正に焦点をあて、そこに潜む女性差別というテーマを取り上げたフィクション作品である。奥書を読むと、「ジャーロ」88号(2023年5月号)~91号(2023年11月号)に連載されたのち、2024年4月に単行本が刊行された。

 本作の興味深いところは、東京地検特捜部が裏口入学事件で強制捜査に入り、偶然にも押収した書類の中に入っていた入試関連の書類について、東京地検特捜部は沈黙し問題事象立件しようとする動きが全くないところである。具体的な証拠が東京地検特捜部に押さえられた状況下で、檜葉菊乃がつかんだネタに関して、客観的な証拠、証言が得られれば大スクープとなりうる。このストーリーは、檜葉の進言から始まり、日邦新聞社がこの問題にどのように取り組んでいくか、その渦中で檜葉はどのような行動をとるか、そのプロセスを描きあげていく。
 他社が気づかぬうちに、いかに速やかにウラを取り、動かぬ証拠を押さえたうえで記事にできるかが勝負となる。

 檜葉は社会部の中で、司法担当に属し、その中でも検察官担当(P担当)の一人として、裁判所合同庁舎二階にある司法記者クラブ内にある日邦新聞社のブースを拠点にしていた。直属の上司はP担キャップの相模である。P担はキャップを入れて5人。43歳の檜葉はキャップに次ぐチームリーダーである。後の3人は男性記者。
 檜葉はつかんだネタをキャップの相模に報告する。本格的な取材活動を推進するには、社会部の東海林部長の承認を得ることが必要になる。そのためにはこのネタの信ぴょう性の確度をつかまなければならない。特捜部に押収された書類に書類が本当に存在するのか。檜葉はまずこの事実への裏取りに腐心することになる。その先で、日邦新聞社内でウラ取りのための取材体制構築がまず始まっていく。
 スクープをものにするために、新聞記者がどのような行動をとるか。そのための組織体制がどのように形成され動きだすか。そのあたりが実にリアルに描き出されていく。

 
 本作は、スクープをものにするための全体の動きを背景に描きつつ、檜葉菊乃の取材活動に焦点を当てる形で進展させていく。本書のタイトルは『対決』である。これは、統和医科大学理事、神林晴海、45歳という女性の理事から女子の点数を一律減点しているという入試不正問題への証言を試みる取材活動プロセスを描き出すことに由来する。
 神林晴海は事務方の出身で理事に抜擢された女性として、大学の理事会では稀有な存在だった。主流派の一人で、かつ複数いる入試担当理事の一人なのだ。神林から証言を得られれば、特捜部に書類が押さえられている中で、確実な証拠となる。檜葉は神林に取材を試みる。その両者の迫真せまる応答の攻防、心理の裏読みが始まっていく。二人の女性の人格的攻防戦にすら進展する。このストーリーでは、その対決が「Ⅱ 第一の対立」「Ⅲ 第二の対立」「Ⅳ 最後の対立」と3回にわたって積み上げられることになる。

 本作の読ませどころと私が思う諸点を列挙してみる。
1. 過去実際に発生した入試における女子の点数の一律減点という不正問題。この事実を題材に、正面からこの女性差別問題を取り上げていること。
 大学側でこの不正行為が慣例化して行った背景が明らかになる。2004年に新研修医制度が制定されたことで、医療現場が変貌したという。医療分野の舞台裏の側面が描きこまれている。それは「政府も厚労省も医療現場の実態を知らなさする」(p94)という一理事の発言に繋がっている。
 さらに、背景に様々な視点、要素が絡み合っていることが明らかにされていく。

2. 入試における女子の点数の一律減点という不正問題で、女性への差別という事実を追う新聞社の記者たちの側にも、パワハラ、セクハラなどがリアルに発生している実態。日常化されたハラスメントの具体例が、檜葉のこれまでの体験あるいは観察として描きこまれる。ハラスメントについての意識の変化を扱いながら、一方で現在の組織構造に内在化してしまっている無意識的なハラスメント行動の現象も織り込まれていく。ハラスメントについての認識と行動のギャップ。実に厄介な問題事象といえる。

3. 一方、大学というアカデミズムの組織の中で発生してきたハラスメント事象もまた、神林晴海の体験あるいは観察として、同様に描きこまれていく。さらには、統和医科大学の一女子学生が受けているハラスメント事例が俎上に上ってくる。上林は理事として、敢然とこの事例に取り組んでいく。

4. 檜葉菊乃はシングルマザーとして、新聞記者生活を続けながら、娘の麻衣子を育てている。麻衣子は医者になることを目標に受験勉強に邁進しているという状況にあった。入試における女子の点数の一律減点という不正問題、女性差別問題は、檜葉菊乃にとって、切実な問題事象でもあるという側面が本作に織り込まれている。
 偏差値が向上しない麻衣子は、ある女性医学者の本を読んだ感動から、統和医科大学を受験したい気持を母に話す・・・・・。

 神林晴美の思考の一環として、「Ⅱ 第一の対決」にかつての医局制度と新研修医制度の比較と功罪が記述されている。p93~94 と p100~102 の箇所である。医学界、医療分野の仕組みの一つとして、関係者には常識の範囲なのだろうが、部外者の私には初めて知る側面だった。医療システムを考える上で、重要な要素だ認識した。現在の研修医制度は大都会と地方という国全域で見たときうまく機能しているのだろうか。

 印象に残る記述をいくつか取り上げておきたい。この小説の底流に意識の一端が表出されている。
*人間どこまで行っても差別はあるんだよ。でもそれを受け入れるのと、なんとかしようとするのは別だ。   p153
*男性と男性優位の社会が作ってきた制度そのものを見つめ直す。そうした発想が今後はもっともっと必要とされてくるだろう。 p245
*監視を怠ってはならない。不正や腐敗は、国民が一瞬でも目を逸らすと、素知らぬ顔であらゆるものに忍び入る。ことに女性差別は厄介だ。   p311

 スクープ報道として発表にこぎつけようとした取材活動は意表をつくエンディングとなる。日邦新聞社もまた一私企業、利益集団なのだ。このエンディングは最適解なのか・・・・、それとも妥協なのか・・・・。おもしろい終わり方だなという印象が残った。
 問題意識を喚起させる小説である。一気に読んでしまった。

 ご一読ありがとうございます。

補遺
2018年に発覚した医学部不正入試問題     :ウィキペディア
医学部入試における女性差別対策弁護団  ホームページ
「浪人年数での不合格判定は違法」医学部不正入試、順天堂大に180万円の賠償命令 初の司法判断   :「東京新聞」
女性差別の不正入試、東京理科大に賠償命じる判決 東京地裁 :「朝日新聞DIGITAL」
女性受験生への差別「人生変わった」 東京医科大学不正入試めぐる訴訟、9日に判決 原告「今も重い負担」  :「東京新聞 TOKYO Web」
「なぜ私が不合格になったのか」‐医学部不正入試、被害女性の苦悩と戦い :「YAHOO!ニュース JAPAN」
医学部の不正入試問題、聖マリアンナ医科大に280万円賠償命令…「女性を差別し違法性は顕著」  :「讀賣新聞オンライン」
医学部入学者、女性が4割占める~求められる「人生を自分で決める力」~ 不正入試から5年    :「時事メディカル」
医師法 令和6年4月1日 施行 
良質かつ適切な医療を効率的に提供する体制の確保を推進するための医療法等の一部を改正する法律(令和三年法律第四十九号)
   :「e-GOV」
医師臨床研修制度とは?  :「日本病院ライブラリー協会」 
研修医制度をわかりやすく解説! 専門医になるまで何年かかる? :「ドクスタ」
研修医とは? 医学生との違いや研修制度の概要・修了条件など[基本事項まとめ]
                            :「ドクタービジョン」
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