遊心逍遙記その2

ブログ「遊心逍遙記」から心機一転して、「遊心逍遙記その2」を開設します。主に読後印象記をまとめていきます。

『茶道の正体』  矢部良明  宮帯出版社

2023-07-23 18:50:57 | 茶の世界
 地元の図書館に設けられた本を紹介する書架で本書のタイトルが目に止まった。まず「正体」という語に惹きつけられた。「茶道の正体」というちょっと思わせぶりなタイトルで何を語るのか? 千利休関連の本は幾冊か読んでいるが、直接「茶道」を冠した教養書は読んでいない。好奇心が働いた。本書は、2022年12月に刊行されている。
 本書で初めて著者を知ったのだが、最後のページをみると、同出版社からだけでも7冊の著書を刊行されている。いずれこれらも読んでみたいと思っている。

 「はじめに」は、出版社より「茶の湯の基本的な常識についてまとめてほしい」、内容は自由にという依頼を受け、本書をまとめたという書き出しから始まっている。ターゲットとしての読者をどの辺りに想定した「茶の湯の基本的な常識」なのだろうか、という印象を抱いた書である。基本的な常識の基準線がちょっと高めだな・・・・と感じている。逆に少し踏み込んだ形で、珠光以降の茶の湯、茶道を通史的に学ぶ機会となり、役に立った。
 
 著者は「美術茶の湯」と「点前茶の湯」を茶の湯を支える二本柱と捉える。前者を尊ぶ人は数寄者であり、数寄茶の湯者である。後者は、点前中心の流儀の茶人であり、点前茶の湯者であると言う。そして、茶の湯500年間の起伏消長を論じていく。読後印象として、著者は茶の湯の真髄をなす美学は何かという点にウエイトを置いていると受けとめた。著者は「冷凍寂枯」という術語がその美学の根幹を成すと論じている。「世俗を超えるところに新境地をひらいた『超克の美学』を原理原則とする茶の湯」(p2)と語る。
 500年の茶の湯の歩みを通史的な視点で捉えると、「超俗の美学」をコンセプトにおいた茶の湯が、ファッションの茶の湯へと移行してきたと言う。その過程で茶の湯が多様化し、流儀(宗家)が生み出された。点前茶の湯に移行して行ったと論じている。
 500年間の当初200年ほどは、茶室と茶道具を使って超俗するための喫茶文化活動が継続した。それが美術茶の湯であり、そこに確立されたのが「冷凍寂枯」の美学だと論じている。その論証プロセスは読み応えがある。基本的な常識を踏み越えて、更に掘り下げていると思う。

 本書の構成をご紹介しておこう。私が理解した範囲で多少要点を付記する。
 第一部 茶の湯、その芸術活動
  第一章 心に染みる抹茶の美味しさ
   中国の茶の製法と喫茶法を簡略に紹介した後、日本で「抹茶」が確立され、濃茶
   と薄茶が生まれたと述べ、その製法にも言及する。

  第二章 芸術の道を歩む茶の湯
   中国は喫茶を芸術に発展させたとして『茶経』『茶録』の内容を説く。「鎌倉時
   代後期の14世紀に流行し始めた喫茶法は、中国の文人が9世紀から10世紀に称揚し
   始めた黒釉茶碗に象徴される新たな喫茶法だったのです」(p49)と著者は言う。
   日本には宋風喫茶が導入された。15世紀に、京都・東福寺の僧正徹が、茶好きを
   「茶呑み」「茶喰らい」「茶数寄」の三種の人々に分けた。「数寄」という概念
   がここに登場してくる。

  第三章 禅と茶の湯
   室町時代末期の禅僧たちが「茶禅一味」を言い出したが、日本において初期の茶
   人たちが茶の湯を発祥した動機付けは禅ではないと著者が論じる点が興味深い。
   珠光、彼の嗣子宗珠、武野紹鷗(以下、鴎で代用)を取り上げている。さらに、
   心敬法師が「連歌は枯れかじけて寒かれ」と言い、紹鴎は茶の湯美学の原点をこ
   こに求めたと論じていく。著者は藤原俊成の「寂び」、世阿弥の「寂び・冷え」
   に言及する。その上で、禅と茶の湯の精神共同体的な土壌の確認を進めたのが千
   利休と論じている。

  第四章 金銭が物語る茶の湯の発展
   茶の湯の発展を、唐物茶道具に財産価値が付き、茶道具の値段が高騰していく様
   の事例を挙げて論じている。それは、茶の湯が人々に理解され普遍性を獲得しそ
   の存在感を確かめるのに分かりやすいからと言う。確かに茶道具がどのように受
   容されて行ったかが一目瞭然である。当初の茶の湯は茶道具への関心が高かった
   ようだ。その点を信長が己の政治に採り入れたのをなるほどと思う。

  第五章 珠光茶の湯の遺産
   珠光は、自ら冷凍寂枯の美学を提案し、「喫茶が主目的ではなく、高級な茶道具
   を使って、特別な建築や庭園などの環境をととのえ、超俗の境涯に清遊すること
   に主眼をおく」(p113)美術趣味と捉えていたと著者は論じている。
   著者は、珠光の茶道具は「麄相(そそう)の美」を象徴していると言う。
   珠光は、当時格上とみられた建盞よりも格下と見られていた天目を高位に置いた
   という。
   さらに、著者は珠光が茶の湯台子と茶室の原形をつくったと推考している。珠光
   流の茶室は押板ではなく、床構えであり、「床」が茶席の飾り所となっていたと
   論じている。「床には飾りのマニュアルがないという自由さこそが、珠光の着眼
   点だったのでしょう」(p146)と推考する。

  第六章 茶の湯を大成したのは、武野紹鴎?千利休?
   著者は『山上宗二記』を基盤にし、諸文献を渉猟し引用することで論証しながら
   持説を論じている。知らない諸資料が次々に登場するが、論理の展開はわかりや
   すく読みやすい。
   紹鴎が活躍した天文年間(1531~1555)は、唐物茶道具が急展開する時期で、紹
   鴎は茶道具の目利きであり、彼の審美眼が実績となったと言う。紹鴎の茶室の図
   面が『山上宗二記』に記録されていて、著者はその図面を本書に掲載している。
   山上宗二は紹鴎を「正風体の茶の湯の大成者」と評価したと著者は紹介する。そ
   れと対比し、山上宗二の記述「千利休は、名人であったから、山を谷、西を東と
   言って、茶の湯の法を破り、自由をなしても面白い」(p173)を引用して、著者
   は千利休を茶の湯の革新者と位置づけて論じている。天正10年までは、紹鴎流が
   一世を風靡したとする。そして、「利休が、紹鴎茶の湯を乗り越えようと覚悟を
   つけたのは、天正10年以後のことでした」(p179)と述べ、この時期以降に利休が
   茶の湯の革新者となり、「唐物名物に代わる創作茶道具の提案と、格別な茶室の
   提案」(p179)をスローガンにした行動を始めたと論じている。利休が己の茶の湯
   を始めるのは、豊臣秀吉が天下人として君臨する時期と一致するという。
   さらに、著者は利休が己の創作へと突き進んで行ったのかを論じて行く。
   この章から学ぶことが多い。小見出しを列挙しておこう。
   「六、創作にかける利休の動機」  「七、超俗の至味をうながす利休茶席」
   「八、利休道具を貫流する寂びの美」
  
  第七章 ファッションの茶の湯の系譜 秀吉から織部・遠州・宗和へ
   「秀吉の心には三人の茶人が住んでいた」と比喩的な言い方で著者は持説を展開
   するところから始める。その一人がファッショナブルな茶人だと言う。利休の超
   俗の茶の湯という価値観に拘泥しない創意の地平を秀吉が開いた。その一例を黄
   金の茶屋で論じる。秀吉を筆頭にした故に、利休亡き後、時代の変化に呼応して
   織部・遠州・宗和というファッションの茶の湯が次々に生まれて行った。その経
   緯を論じていく。読んでいて興味深いし、おもしろい。
   それもまた、創作を試みた利休の根底に「自我の自覚」が厳然とあり、そこにフ
   ァッションの茶の湯を生み出す原点があると論じていると理解した。
   織部・遠州・宗和のそれぞれの創作した茶の湯が概説されていく。

 第二部 茶の湯、伝統芸能への道
  第一章 茶の湯流儀が成立する様子
   著者は、美術茶の湯の創造活動がそれぞれにおいて、理想的な頂点を極めていく
   とその先にはその芸術活動の伝統を守る気運が生まれていくのは必然だとする。
   「先人が築いた茶の湯が感動的に映り、守らなくてはならないという使命感が生
   まれ、さらに、先覚者の茶風をモデルとして尊重し、モデルからはみ出すことを
   避ける気運が生まれてきます」(p290)と。つまり、流儀が成立していく。茶の
   湯が伝統芸能になっていくのだと著者は言う。古典芸能は全て同じ道を歩んでい
   ると。茶の湯は「点前茶の湯」が主流となる道を歩み始めたということだろう。
   著者は、「二、千江岑と山田宗徧の流儀意識」「三、主要流派の成立」という小
   見出しのもとで、論証を進めている。
  この後の本書の展開は、章名のご紹介にとどめよう。
  第二章 流儀と点前
  第三章 流儀と茶室
  第四章 流儀と茶道具
  第五章 流儀を離れ、数寄風流する茶人たち

 また、本書は以下の事項について、参照資料として役に立つ。
*本文中に、紹鴎の茶室の図面と併せて、紹鴎茶席の特徴を箇条書きにまとめて、解説してくれている。  p166-168
*茶の湯の点前を眼目とする茶書について、桃山時代から江戸時代前期、17世紀の主だった茶書を一覧にまとめてくれている。 p314-316
*本書では様々な茶室の説明が出てくる。解説された茶室の茶室図が巻末に「茶室図」としてまとめられている。 p406-411

 最後に、著者の主張で印象に残る箇所を覚書として抽出しておきたいと思う。
*「侘び」と「寂び」とが、利休の思想のなかで、まったく別の次元の概念として相違していた。  p182
*「物を入れて、?相に作る」。この一語こそ、利休作為の原点です。 p195
  ⇒「物の入れる」という言葉は、金銭を掛けるという意味
*「秀吉なくして、利休なし」という想いを捨てるわけにはいきません。 p209
*利休がみずからの矜持としていたスローガンは、
  茶の湯は一個人のものであって、他人が模倣したり、遵守してはならない
というものです。美学は古典を守る利休でしたが、創作を試みる利休の精神を支える骨格は、 天が自らに与えた「自我」こそ、すべての真髄  という主張にあったようです。明晰な識見によって支えられる自我の自覚こそ、利休創作の基盤をなしていたのです。  p229-230
*利休自身の茶の湯は自分のなかで完結するものであって、利休は身内にも、まったく利休茶の湯を伝えることを強要しなかった。
 利休には、流派を形成しようという魂胆はまったくなかったのです。 p323
*茶道具に流儀が成熟する様子が投影しているとは、筆者の持論です。 p347
*大宗匠の功績は門弟たちに継承されて、流派は生まれます。流派の成立は、茶の湯の大道がすでに個々の茶人の個性から離れて、初めて可能になると思います。・・・普遍性を得たことによって、自我に根差すことが使命である芸術活動は沙汰止みとならざるを得ません。ここで、主導者が定めたマニュアルを守るという方向に茶の湯はすすむことになります。こうして茶の湯という高級な文化は、伝統に守られた没個性の芸能として保持されていくと、筆者は考えているのです。芸術から芸能へと歩むこの方向付けは、歴史の必然といえましょう。  p325
*画期的な茶道具作りが一段落した江戸中期、18世紀以降になると、・・・過去の名品をいかに按配するか、ここに茶人の力量が試される時代に入ったといってよいと思います。
  p349

 「美術茶の湯」と「点前茶の湯」、古典的な「冷凍寂枯」の美学をめざす茶の湯とファッションの茶の湯、芸術活動と芸能活動。茶道、茶の湯について考える観点が整理されていて、おもしろく読めた。
 著者の語るファッションの茶の湯の背景にある美学について、一歩踏み込んで知りたくなってきた。

 ご一読ありがとうございます。
  

補遺
村田珠光  :ウィキペディア
武野紹鴎  :ウィキペディア
千利休   :ウィキペディア
千利休   :「ジャパンナレッジ」
古田重然  :ウィキペディア
小堀政一  :ウィキペディア
金森重近  :ウィキペディア
山田宗徧  :ウィキペディア
珠光青磁茶碗(出光美術館所蔵):「表千家」
珠光青磁  :「鶴田鈍久乃章 お話」
建盞  :「コトバンク」
天目  :「コトバンク」
南蛮芋頭水指  :「茶道入門」
面桶      :「茶道入門」
古備前水指 銘 青海  :「文化遺産オンライン」

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)


こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『茶人物語』  読売新聞社編  中公文庫
「遊心逍遙記」に掲載した<茶の世界>関連本の読後印象記一覧 最終版
 2022年12月現在 26冊

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