珈琲一杯分の話

2018年2月26日スタートのただのボヤキカフェです。
毒とユーモアを楽しんで頂ければ幸いでございます。

納得した言葉6

2019-12-28 | 思うこと
学術とか権威とか論文とか、私などがわかるわけもない彼方の別世界のようなものが、例えばネットのウィキとか、人気ユーチューバーとか、果ては誰ともわからない書き込みで知ったかぶりされる昨今、
その学術的な論文で、世界的に権威のある賞を受賞した学術者が書かれた文章を紹介する。
以下、ブログ「アメリカ大学教員の日記」より引用

まず、日本人(に限らないが)の多くの人(というかほとんどに人)は科学論文なんてまともに書いた事もないのが普通である。いや、書くどころか読んだ事すらないのが普通である。
そんな人がまず知る必要があることを一つ。それは
いわゆる理系分野(私はこの理系とか文系という言葉は極力使いたくないのだが、ここでは便宜上使う事にする)では、基本的に
ほぼ全ての論文が(学問の歴史の中で見れば)ゴミ程度の価値しかない
ということである。

おそらく世間に出回る論文の99.99パーセントぐらいはゴミのような論文である。私は数学が専攻だが、数学のような厳密な学問であったとしても例外ではない。実験系科学になればなおさらであることが容易に分かる。

このことは世界的に最も権威があるとされる論文雑誌(Natureとか)に載るような論文でもその例に漏れないのだ。

もちろん私が今までに書いた論文もそうである。

ましてや博士論文などになればゴミの中のカスぐらいといったところが普通である。(さらに修士論文ぐらいになれば、目にも見えない塵ぐらいである。)

そして、論文一本一本の重箱の隅をつつけば、いくらでも問題点は見つかるものなのである。不完全なものもあるし、不備もある。あやしい点も見つかるかもしれない。ミスだってあるし、書き間違えもある。

数学のような学問であっても、一本一本の論文をよく調べれば、

この論文にあるこの定理の証明ちょっと怪しいんじゃないか?
とか
こんなの、当たり前のことじゃん。なんでこんなくだらないことを論文にする必要があるんだ?
とか
この論文の内容、間違えでは無いけどだからどうしたの?
とかいった感じで首を傾げたくなるようなものも沢山あるし、さらには
この論文に書いてあることって、基本的に間違えじゃん
ってな場合だってあるのだ。もちろん、世界的に権威のあるジャーナルに出版されているような論文であってもである。

それもそのはずで、上に書いたように分野を問わず99.99パーセントの論文はゴミだからである。

とりわけ、現代においては学者間の競争も激しい上に、学問も細分化されており、各分野の最先端の論文を理解できる人間など世界中に数人といないかもしれないのが普通である。

そのような状況で、研究者(特に若手)の多くは少しでも良質の論文を少しでも早くかつ多く排出することを迫られるのだ。

そのことが、論文一本一本の「ゴミさ加減」をさらに増すことになる。が、

実はそれで良いのである!!

ゴミのような論文が大量に排出され、ゴミの上にゴミが積もり、巨大なゴミの山ができる。が、これが不思議なもので、いつしかそんなゴミの山の中から小さなダイヤの原石(残りの0.01パーセントの論文)が生まれるのだ。そして、そんなダイヤの原石に磨きをかけようとして、さらにゴミのような論文が大量に重なり、初めは小さなダイヤの原石も少しずつ大きくなり、磨きがかけられる。このようなプロセスが長い年月に渡り行われ、いつしか『まばゆい光を放つ大粒のダイヤ(後世に残る大理論)』が出来上がるのだ。そして、この時点になるともやはそのダイヤがいったい誰の功績なのかすら分からなくなっているのである。

そのため、論文一本一本はある程度時間が経てば、誰も読まないものになるのだ。数学で言えば、まぁ、どんな価値のある歴史的論文でも半世紀以上経てば、ほとんど読まれなくなる。

ちなみに(いわゆる)文科系の学問と理科系の学問の相違点の一つはこのような点にもある。哲学を志す人であれば誰でもプラトンやアリストテレスの著作を(ある程度は)読む必要がある。これらは2000年以上も前に書かれたものである。が、数学を志す人は別にガウスやオイラーの書いた論文なんて読む必要は全くないのである。相対性理論を学ぶのにアインシュタインの書いた現物を読む必要等もない。それどころか、そんな昔のものを読んだらかえって理解の妨げになるし、時間の無駄でもある。

結局、数学や自然科学は「ゴミの積み重ね」によって発展していく学問であり、一本一本の論文(つまり単なるゴミ)を取り上げて、その不備や不完全生を指摘することがいかに馬鹿げた事か理解する必要がある。
 (引用ここまで)


私にこんな文章をジャッジできるような知識も経験もないけれど、この方は、以前騒がれたスタップ細胞をめぐる騒動に、
「マスゴミだけでなくブロガーなどのネットメディアまでもがこぞってこの陰湿なイジメに加担している。
 件の女性科学者に関して、科学の研究や論文のこともろくに知らずに個人攻撃をしているそこのあなた、恥を知りなさい!」

と言及されていた。
私はこの「科学の研究や論文のこともろくに知らないないのに」「恥を知りなさい!」
という二つの言葉にただ納得した。

そして
「ゴミのような論文が大量に排出され、ゴミの上にゴミが積もり、巨大なゴミの山ができる。が、これが不思議なもので、いつしかそんなゴミの山の中から小さなダイヤの原石(残りの0.01パーセントの論文)が生まれるのだ。そして、そんなダイヤの原石に磨きをかけようとして、さらにゴミのような論文が大量に重なり、初めは小さなダイヤの原石も少しずつ大きくなり、磨きがかけられる。このようなプロセスが長い年月に渡り行われ、いつしか『まばゆい光を放つ大粒のダイヤ(後世に残る大理論)』が出来上がる」
という言葉が響いた。
そうなんだろうなと思った。
この言葉に論争の余地はないと思った。

これ以上の言葉も足しません。
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夫の仕事

2019-12-28 | 仕事の話
大掃除をやりたくないために、12月に入ったら普段の掃除にちょっとだけあちこちの片付けをプラスする。
あとはカーテンを洗って、グラスを全部ハイターに漬けて、換気扇だけはプロにお願いする。
たいしたことはしないけど、これでなんとなく年を越せる気分になる。

ホントたいしたことしないし、ユルユルの次男の嫁ですよ~( ̄∇ ̄)

今年は夫がめずらしく27日が仕事納めだった。
いつもはもっと撮影が押すのに今年はうまくいったようである。
そういえば今年のキーワードに「働き方改革」ってありましたね。
が、そんなものは勤め人の話で、夫のような立場は全然関係ナシ。

ついでだから一般の人にはなかなか知られていない、夫の働く業界の話を書きましょうか。
私がやっていることではないので、あくまで「妻の立場として聞いて知っている範囲」と了承して頂きたく。

会社勤めの人は、年間の休みが計画的に立てられると思うけど、こういう仕事は本当にわからない。
というのは例えば、「連続ドラマ」にしても「単発ドラマ」にしても「映画」にしても、撮影が始まると台本と仕事のスケジュール表が渡されるんだけど、そのスケジュール表に関していうと
「その予定はだいたいが一週間くらいのものが細切れで渡されるため、休みなどはその単位でしかわからない」
つまり、子どもの運動会がいつというのがとっくに分かっているとしても、夫の休みがいつかんてことは一週間前でないとわからないので、予め予定など立てられないのである。
(立ったとしても、悪天候や震災や、役者がインフルエンザにかかった、スキャンダルで降板などいろいろある)

仕事の話をすると、例えば2時間ドラマ一本を撮る時の撮影期間は、だいたい2週間くらいかかる。
テレビではほんの一瞬で流れて終わるシーンに、何時間もかけられているんですよね。

昼を夜にしたり、夜を昼にしたり、夕暮れや雷の明かりを作ったり(そんなことができるんですよ)、明かり一つもいろんな機材や技術を使って全部、当たり前だけど「考えられて、人間関係の軋轢や重労働を乗り越えて、制作されている」
雨や雪もホンモノを使う場合もあるけど、「作って」降らせたりもする。
それによってたった一言の芝居も変わってしまうんだよね。
男性のメイクや服を整えるだけで人によっては一時間くらいかかる。


そんなこんなで、朝は新聞配達員より早く起きて、帰宅は深夜が何日も続いたりする日程になったりする。
効果音や音楽一つにもその道のプロが練り上げて作るものであり、そもそもの脚本も、思い付きや勢いなんてものではなくて、生み出している作品なんですよね。

まあ昨今は、動画といえば誰でも簡単に撮影して世界配信なんてできる時代で、まずかったら即削除、なーんて世界だけど、そういうものは根本的に別物というか、プロが作っている作品ってそういうものである。

そんな堅い話は置いといて、役者の「生の芝居」を見ている夫が私には単純にうらやましい(;゚∇゚)
打ち上げで歌もやっている役者さんの「生の歌」を聴けるのがうらやましい(;゚∇゚)

でも……聞いた話なんて所詮この程度だよね~
私のリアルはカーテンを洗ったり床の雑巾がけをすること。
やはり「実体験は強し」だと思う。
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