珈琲一杯分の話

2018年2月26日スタートのただのボヤキカフェです。
毒とユーモアを楽しんで頂ければ幸いでございます。

心は自分のもの

2020-05-17 | 思うこと
毎度、ただの主婦でしかない私が思いつくことなんて、あくまで自分の生活圏の自分の目線でしかないことを了承頂きたく。

コロナ騒動にしたって世界情勢や政治を知ってるわけじゃないし、そんなことは何も解らない。
ただ目の前の元気な中学生が皆ピンピンしているのに、学校が閉鎖になった。
娘の学校どころか、県内のすべての学校で誰一人発症者なんていない。
一人も患者がいないのに病気を理由に学校閉鎖?!
一体なんでよ~?
ただそんな思いから書いている。

マインドコントロールというものに疑問を抱いたのも、目の前のどちらかというとおとなしい我が子でさえ、どう説得しても自分が納得しないことにはウンと言わない。
それなのに他人の意思なんてコントロールできるのだろうか?と思っただけだった。

これは今回のコロナ騒動でも改めて、人をコントロールするなんて無理と思った。

「こんなことはおかしい、絶対に嫌だ!!」と叫びたいくらいのことでも、有無を言わせないような権力があったら人の行動を強要することはできる。
学校に行きたくても強制的に学校を閉鎖して、自宅にいさせるとかね。
でも「これが正しいことなんです」と思わせることは別と思った。
「命を救うことなんです」とか「大切な人を守ることなんです」と言われても、「身勝手で幼稚」と言われても、そんな言葉も私には刺さらなかった。
だからといって私が命を軽んじていて、大切な人が死んでもいい身勝手な人間と言われたらそれも違うゾ。
そんな短絡的な二択で責めるのはズルイし、違うと思った。
もっとやり方があると思った。

S時代にも「しつこくして嫌がられたら所詮そういう人」とか「強いてでも言い切りなさい」とか同じように刺さらない言葉はあった。
私、しつこくするのもされるのも大嫌いだからね。
だからといって、私が反抗的で信仰心の薄い会員だったかというとそれも違った。
単純に「相手が嫌がっても、それで自分が得するんだから嬉しい」なんて感情は、教えられたところで自分になければ出ないもんね。

要は、自分の素地にないことは、いくらやかましく言われても他人がコントロールはできないと思うのである。

心は自分のもの。
自分をコントロールできるのは自分しかないと思うのである。

国家一同を上げて説得されても響かないものは響かないんだから、チンケな教団の説法くらいが人の心をコントロールするなんて私はないと思うけどね。

コメント

アンチの本質3

2020-05-17 | 思うこと
対話ブログで「Sは絶対的なもので、するかしないかの2択といったものではなく、数多ある考え方の1つでしかなくなっている」という書き込みがあり、これには同意した。
何よりS自体がとうに、そういう姿勢をとっている。
正確には「知らん顔していつの間にかそういう姿勢をとっている」というか。

組織や偉い人というのは一度出したものを引っ込めるということは嫌って、いつのまにか気づいたらなかったことになっているを好む。
あんなに断言して人の人生を振りまわした言動を、
誰が何を明確に訂正したわけじゃないけど、いつの間にかというか、誰ともしなにというか、時代がというか、変わっていったんだよねー。

コロナ騒動の言動だって、どうせこうなる。
いちいち真に受けてるとアホらしくなるわ。

ところで人の不幸を書くのが大好きなマスコミは、収束はよほど面白くないんでしょうねえ。
「2派が2派が」「油断は禁物」と頑張るんだなあ。
まさか本気で心配してるんじゃないけどね。
だって本当に心配ならば、免疫力の高め方とか重症化させないコツとか、もっとためになる情報はいくらでもあるのにそれは絶対に出さない。
「いかに相手が深刻で厄介なモンスターで、自分たちが非力で太刀打ちできないか」が書きたくてしょうがないんだから。
ホント、一部のアンチの構造とソックリ。

これからも自粛による不況とか、2派が来たとか、不幸話ときたら張り切ってをどんどん発信していくんでしょうねえ。さも正義ヅラして。


「Sは絶対的なもので、するかしないかの2択といったものではなく、数多ある考え方の1つでしかなくなっている」
私はこれは久しぶりに読んだ喜ばしいコメントだったんだけど、コロナ収束同様、アンチは嬉しくないのだろうか?
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