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坪漆と杉の枝うち

2009年12月05日 | 集落
小春日の一日、久しぶりに杉の枝うち作業をする。枝うちなどと言うと大そう大げさな作業を連想するが、「枝うちクラブ」という道具で杉枝に引っ掛け引っ張るだけ。地上6~7mの高さまで作業が可能なのだ。あまりの好天で10数年ぶりに始めたのだ。集落からすぐの里山、通称「かしかざわ」がすぐ下側を流れる。字名を「外坪漆」と言う。この珍しい地名は自分が調べる範囲では全国どこにもない。


写真中央部から左側上部白い部分

総面積せいぜい4ha。地引絵図に空白で地番がない場所がある。
明治新政府が地租改正のため地引絵図を作成した。各字毎、地租改正取調係戸長、地租改正総代人、区長、隣地接続人の他持ち主総員の捺印で地番、持ち主名が記されている。地引絵図で地租は評価額の3%。この改定で各地に混乱が勃発。山形県庄内の「ワッパ一揆」は有名。しかし山林の地引絵図は複雑でおおざっぱだったらしい。他の地引絵図での空白の場所は畦畔、水路等と同様は新政府預かり(官地)となっているようだ。

坪漆のこの場所は私の杉林の隣地にあって、杉林になっている。区画が他の地番と違って直線で括られていて、何か特別な場所のようにも思える。傾斜5度にも満たないこの区画がいつも気になる場所だ。120年程前のこの地引絵図の作成を知る人は地域にいない。

それにしても不思議な地名「坪漆」。

ネット検索で「坪漆」と検索すると中国語では「床塗料」となり、「公司」の宣伝記事が並ぶ。
坪は「たいら」、漆は「ペイント」いかにも優れた凹凸がなく平らに仕上がる塗料と言う意味になるのだろうか。坪漆の地名に床塗料というイメージはわかない。中国語との関連はないことぐらいはわかりつつもどこから来た地名なのか興味は尽きない。
当地区には800年の伝統という川連漆器の産地だが、うるしを連想して「坪漆」と「漆器」との関連はなさそうだ。

この地を我が家の所有になったのは明治以前には違いはないが、詳しい記録は残っていない。今の時代もこの地引絵図による地番、地積は生きている。地租改正時の地引絵図について「公図 読図の基礎」佐藤甚次郎著に詳しいと言うがいずれ調べてみたいものだ。

「坪漆」での我が家の山林は約1.2haほど、雑木林は10aほどであとは杉林。約45年生、一部35年生の杉の木が今回枝うちの対象だ。

     枝うち作業後の状態 

戦後、林野庁による拡大造林の方針の元で強く進められた杉の植林。今では各地で木材価格の暴落で山林の手入れをする人はほとんどいない。特に国有林で放置された杉林はひどい状況だ。間伐はおろかツルのカラマリ、下草も育たず薄暗くなったしまった植林地は見る影もない。我が里山は可能な限り間伐作業は森林組合へ委託、自分のできる範囲は少しでもと枝うち作業などしてきたら株下に陽があたり、ヤマユリ、ホウチャクソウ等の山野草が見られるようになった。

                                              

        
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