川連集落には二つの大きな神社があり、かつて村社の社格をもっていた。町道を挟んで南側が八坂神社の氏子。麓、大館集落(旧大館村)で約570戸、北側の八幡神社の氏子は上野、川連、野村、久保集落(旧川連村)合わせて約550戸となっている。八坂神社の例大祭は田植が終わって7月14、15日。八幡神社は9月14、15日となって例大祭が終わると稲刈りシーズンに突入する。村社の社格であったため、かつては例祭には小学校の全生徒が参拝したと云われている。
麓集落に鎮座する八坂神社の例大祭は7月14、15日だ。かつては旧暦の6月14、15日だった。今年の例大祭は好天の中で執り行われた。
神社鳥居2014.7.15
約樹齢300年の杉木立に囲まれた、鎮守の森の名にふさわしさの中に八坂神社は鎮座している。八坂神社の祭神は「素戔嗚尊」(スサノオノミコト)で御神体は「祇園牛頭天王」の木像になっている。「素戔嗚尊」と「牛頭天王」は神仏習合時代は同体だった。
祇園とは、京都の八坂神社の旧称ともいわれ、「牛頭天王」はさまざまな説があるが歴史的にはインド、中国、朝鮮、日本と伝わってくる中でその土地の神々と習合して、明治の神仏分離令までは祇園社と称していた。八坂神社神殿には「祇園宮」の額が掲げられている。昭和58年に川連漆器の蒔絵師に修復してもらった。一説には「新羅国牛頭山に祭られている「素戔嗚尊」を山城国愛宕郡八坂郷(現在は京都府東山区祇園、八坂神社一帯)に遷し祀ったと云われている。疫神(厄病をはやらせる悪神)として性格が強く、病気払いのの夏祭りをしたことで人気を博したと云われている、「牛頭天王」はの神格は防疫神、鎮守神として定着してきたといわれている。
現在の社殿は寛成12年(1800)の造営で、秋田佐竹藩主の臣で横手の岡本代官が来村の際「自分の家の氏神と同じで、もっとりっぱな社をつくるよう」と命じられ、現在地に造営したと云われている。300年ともいわれる杉木立、低地にはめずらしいブナの古木から推定してみると寛成12年以前にこの地に社殿があったのではないかと思われる。現在の社殿が214年経過、鎮守の森に相応しい古木が約300年と云われている。現在の社殿約85年前からこの森は形成されていたことになる。先のブログ「二つの古絵図」に約366年前の絵図に現在地の場所に神社の記述が見られる。「いなかわ広報」平成9年7月10日号の「いなかわのむかしっこ」八坂神社・八幡神社由緒沿革概要に、「社殿は寛成12年(1800)の創建」の記述がある。創建の意味は「初めて創る」と云うことなので何かの間違いではないのかと思われる。言い伝えでは、近くの平地から現在地の移ったと云われ、移った時期は現在の社殿以前と推定される。
旧長床の場所からの手水舎と本殿 2014.7.15
かつてこの場所に長床があった。子供の頃のこの建物の側はすでになく、茅葺の建物はよい遊び場になっていたが、昭和30年頃荒れが甚だしくなり解体された。解体された材料は一か所に集められ無くなるまで十数年あったと記憶している。神社等の解体されたものの焼却は固く禁じられていたとも云われている。「長床」(ながとこ)は神社建築の一つ。本殿の前方にたつ細長い建物、修験者、行人、長床衆に一時の宿泊・参籠の場であったり、宮座や氏子の集合場所にあてられてたという。八坂神社の長床は比較的大きく建物の真ん中が神社へ向かう参道になっていた。この参道を挟んで左右に分かれていた長床は一つの建物だった。
明治以前は集落ごとに大小さまざまな神社があり、それぞれに鎮守の森があった。これが大いに減少させられたのが、いわゆる神社合祀令。この結果、多くの神社が廃止されると同時に、そこにあった鎮守の森は伐採された。神社合祀は神社を行政村1つにつき1つだけに整理することにより、土着の信仰を国家神道に組み込むために行われたものとの説もある。八坂神社は村格の神社で見事な森が残された。面積は1ha程、樹齢300年の杉100本近く、海抜150mに自生するブナも樹齢300年はあるものと想われる。
八坂神社 例大祭の祭壇 2014.7.15
今年の例大祭に大館の川連漆器の木地師「小野寺」さんから、立派な「獅子頭」が奉納された。大きな口を開いてみると下顎と舌があった。鼻が黒いので「雄獅子」と云う。「獅子頭」(ししがしら)古くは〈師子〉と書くことが多く、伎楽面や行道面の一種と考えられる。獅子は本来的には中国で成立した破邪の霊獣で、その起源がより西方の猛獣といわれいる。獅子はやがて社殿を守護する獅子狛犬(狛犬)の彫刻ともなり、一方で楽舞用の伎頭となったのである。伎頭としての師子は多く木製で、眼をいからし、耳を立て鼻孔を開いたすさまじい表情で、一材の頭部に別製の下顎と舌,耳を取り付け、それぞれが動くように工夫されている。獅子舞は幸せを招くと共に厄病退治や悪魔払いとして 古くより伝えられ、 獅子に頭をかまれると、その年は無病息災で元気で過ごせるという言い伝えがある。そして五穀豊穣祈願した。
奉納された獅子頭 2014.7.15
八坂神社の例大祭の神事は午前11時に始まる。今年の神事には神社総代三名と麓総代、大館総代と神社係が各地区の氏子の代表として列席した。いつの時代からか当家は八坂神社の責任総代の役を務めている。祭典には昭和30年代から麓の氏子の寄付で奉納花火が打ち上げられる。氏子の栗林君は二代に渡って花火師だ。前日の宵宮に連続花火が打ち上げられた。昨夜の花火は18連発だった。かつては各地でそうだったように祭りに余興等が昭和30年代まであったが、今は祭花火だけになっている。例大祭が終わると一年の半分経過したことの重さを実感する。かつて例大祭は旧暦の6月14、15日は田植が終わってホットした時期だったが、近年の田植作業は機械化され田植時期も手植え時代よりも約20日程早くなった。
八坂神社の例大祭が終わると田んぼの稲は出穂期を迎える。春先にエルニーニョ現象で冷夏が心配されたが予報がはずれ、田植期から順調な天候で出穂を迎えた。米つくり50年以上になるが今年の稲の姿は惚れ惚れするくらい見事だ。田んぼは穂揃い寸前。田んぼの一番晴れやかな季節になった。稲の出穂のころ秋田は夏まつりを迎える。秋田の「竿燈」3日から6日まで、今年は過去最多の270本の稲穂を象徴する「竿燈」が登場。能代市の七夕行事「シャチながし」は6、7日、今年の城郭型大型灯籠「天空の不夜城」は高さは青森県五所川原市で運行される「立佞武多(たちねぷた)」の23mを上回る23.5mで、「日本一」という触れ込み。湯沢市の七夕行事「絵どうろうまつり」は5日から7日まで行われる。秋田の夏は熱い。
麓集落に鎮座する八坂神社の例大祭は7月14、15日だ。かつては旧暦の6月14、15日だった。今年の例大祭は好天の中で執り行われた。
神社鳥居2014.7.15
約樹齢300年の杉木立に囲まれた、鎮守の森の名にふさわしさの中に八坂神社は鎮座している。八坂神社の祭神は「素戔嗚尊」(スサノオノミコト)で御神体は「祇園牛頭天王」の木像になっている。「素戔嗚尊」と「牛頭天王」は神仏習合時代は同体だった。
祇園とは、京都の八坂神社の旧称ともいわれ、「牛頭天王」はさまざまな説があるが歴史的にはインド、中国、朝鮮、日本と伝わってくる中でその土地の神々と習合して、明治の神仏分離令までは祇園社と称していた。八坂神社神殿には「祇園宮」の額が掲げられている。昭和58年に川連漆器の蒔絵師に修復してもらった。一説には「新羅国牛頭山に祭られている「素戔嗚尊」を山城国愛宕郡八坂郷(現在は京都府東山区祇園、八坂神社一帯)に遷し祀ったと云われている。疫神(厄病をはやらせる悪神)として性格が強く、病気払いのの夏祭りをしたことで人気を博したと云われている、「牛頭天王」はの神格は防疫神、鎮守神として定着してきたといわれている。
現在の社殿は寛成12年(1800)の造営で、秋田佐竹藩主の臣で横手の岡本代官が来村の際「自分の家の氏神と同じで、もっとりっぱな社をつくるよう」と命じられ、現在地に造営したと云われている。300年ともいわれる杉木立、低地にはめずらしいブナの古木から推定してみると寛成12年以前にこの地に社殿があったのではないかと思われる。現在の社殿が214年経過、鎮守の森に相応しい古木が約300年と云われている。現在の社殿約85年前からこの森は形成されていたことになる。先のブログ「二つの古絵図」に約366年前の絵図に現在地の場所に神社の記述が見られる。「いなかわ広報」平成9年7月10日号の「いなかわのむかしっこ」八坂神社・八幡神社由緒沿革概要に、「社殿は寛成12年(1800)の創建」の記述がある。創建の意味は「初めて創る」と云うことなので何かの間違いではないのかと思われる。言い伝えでは、近くの平地から現在地の移ったと云われ、移った時期は現在の社殿以前と推定される。
旧長床の場所からの手水舎と本殿 2014.7.15
かつてこの場所に長床があった。子供の頃のこの建物の側はすでになく、茅葺の建物はよい遊び場になっていたが、昭和30年頃荒れが甚だしくなり解体された。解体された材料は一か所に集められ無くなるまで十数年あったと記憶している。神社等の解体されたものの焼却は固く禁じられていたとも云われている。「長床」(ながとこ)は神社建築の一つ。本殿の前方にたつ細長い建物、修験者、行人、長床衆に一時の宿泊・参籠の場であったり、宮座や氏子の集合場所にあてられてたという。八坂神社の長床は比較的大きく建物の真ん中が神社へ向かう参道になっていた。この参道を挟んで左右に分かれていた長床は一つの建物だった。
明治以前は集落ごとに大小さまざまな神社があり、それぞれに鎮守の森があった。これが大いに減少させられたのが、いわゆる神社合祀令。この結果、多くの神社が廃止されると同時に、そこにあった鎮守の森は伐採された。神社合祀は神社を行政村1つにつき1つだけに整理することにより、土着の信仰を国家神道に組み込むために行われたものとの説もある。八坂神社は村格の神社で見事な森が残された。面積は1ha程、樹齢300年の杉100本近く、海抜150mに自生するブナも樹齢300年はあるものと想われる。
八坂神社 例大祭の祭壇 2014.7.15
今年の例大祭に大館の川連漆器の木地師「小野寺」さんから、立派な「獅子頭」が奉納された。大きな口を開いてみると下顎と舌があった。鼻が黒いので「雄獅子」と云う。「獅子頭」(ししがしら)古くは〈師子〉と書くことが多く、伎楽面や行道面の一種と考えられる。獅子は本来的には中国で成立した破邪の霊獣で、その起源がより西方の猛獣といわれいる。獅子はやがて社殿を守護する獅子狛犬(狛犬)の彫刻ともなり、一方で楽舞用の伎頭となったのである。伎頭としての師子は多く木製で、眼をいからし、耳を立て鼻孔を開いたすさまじい表情で、一材の頭部に別製の下顎と舌,耳を取り付け、それぞれが動くように工夫されている。獅子舞は幸せを招くと共に厄病退治や悪魔払いとして 古くより伝えられ、 獅子に頭をかまれると、その年は無病息災で元気で過ごせるという言い伝えがある。そして五穀豊穣祈願した。
奉納された獅子頭 2014.7.15
八坂神社の例大祭の神事は午前11時に始まる。今年の神事には神社総代三名と麓総代、大館総代と神社係が各地区の氏子の代表として列席した。いつの時代からか当家は八坂神社の責任総代の役を務めている。祭典には昭和30年代から麓の氏子の寄付で奉納花火が打ち上げられる。氏子の栗林君は二代に渡って花火師だ。前日の宵宮に連続花火が打ち上げられた。昨夜の花火は18連発だった。かつては各地でそうだったように祭りに余興等が昭和30年代まであったが、今は祭花火だけになっている。例大祭が終わると一年の半分経過したことの重さを実感する。かつて例大祭は旧暦の6月14、15日は田植が終わってホットした時期だったが、近年の田植作業は機械化され田植時期も手植え時代よりも約20日程早くなった。
八坂神社の例大祭が終わると田んぼの稲は出穂期を迎える。春先にエルニーニョ現象で冷夏が心配されたが予報がはずれ、田植期から順調な天候で出穂を迎えた。米つくり50年以上になるが今年の稲の姿は惚れ惚れするくらい見事だ。田んぼは穂揃い寸前。田んぼの一番晴れやかな季節になった。稲の出穂のころ秋田は夏まつりを迎える。秋田の「竿燈」3日から6日まで、今年は過去最多の270本の稲穂を象徴する「竿燈」が登場。能代市の七夕行事「シャチながし」は6、7日、今年の城郭型大型灯籠「天空の不夜城」は高さは青森県五所川原市で運行される「立佞武多(たちねぷた)」の23mを上回る23.5mで、「日本一」という触れ込み。湯沢市の七夕行事「絵どうろうまつり」は5日から7日まで行われる。秋田の夏は熱い。