日ごろ、勇ましいことを言う者に限って、状況が変化したとき、身の振り方の変わりようには、節操がない。
① おいおい述べていくが、東京裁判の証言台に立つ大本営の発狂将官参謀たちは、数百万の兵を死なしたことへの反省はまったくなく、アメ公に対しこびへつらいを始め、陸海軍相互で責任のなすり付けをはじめる。見苦しい。
この無能集団を、学歴のない国民は、信仰のように陸士海兵とあがめ盲従した。
ニュールンベルク裁判で連合軍から謝罪を要求されたナチスの将軍は、毅然として反論する。「なぜ私がアメ公に謝らなければならないか。ドイツ国民に対してはいくらでも謝ろう。負けて申し訳ない、と。ドイツ親衛隊は敵に謝ったりしない。ドイツ国民から敗戦責任を問われれば、いくらでも絞首刑になる。だが、私は犯罪人ではない。したがってアメ公は私を裁けない。」
低脳大本営からは、ついにこのような言葉を吐く人間は出なかった。
② 次のあほの例として青木泰二郎がいる。敗戦確実と知るや一部の部下と家族を連れて元山(北鮮)から脱走し日本へ逃亡した。元山航空隊の司令である。 僕の数学の先生井上少尉は取り残された一人だ。ソ連の侵攻を死をもってとどめる、あるいは遅らせるのが軍人の当然の務めだ。
グラマンとの戦闘にへとへとになりつつもゼロ戦パイロットは、一人も青木のように敵前逃亡したものはいない。待っていたのは優秀なソ連軍飛行機との歩が悪い空中戦だ。パイロットは肉片となって振ってきた。
ゼロなら1時間で内地に帰れる。しかし帰ったものはいない。一人パイロットがいれば10人近くの整備兵がいる。さらに100人近くの地上勤務者がいる。人間なら仲間を残して帰れるか。
青木のように敵前逃亡するやつは一人もいなかった。ところが、青木は戦後を恥じることなく生きた。
③ ジャワから撤退するとき、大本営軍令部はグッドイヤーのタイヤ工場(ブリジストン、当時日本タイヤ、が接収していた)を破壊するよう命じた。中国に何箇所か存在したタイヤ工場も同様の措置を命じた。
敵に利用されるのを防ぐ措置で、一見合理性があるようだ。ところが、タイヤは米本国で有り余っていた。高校生が彼女を誘う車に対しても制限はない国に対して、まさに蟷螂の斧とはこのことだ。
ブリジストンは命令に背いた。とりわけ陸軍と癒着することで発展してきた会社だ。隼のタイヤはすべてブリジストンが作った。だがブリジストンはいつまでも軍のあとを追うチンピラ企業ではなかった。タイヤ屋の意地を見せた。インドネシアにとって戦後の発展には、タイヤは欠かせないものになる。
そのあと工場を取り戻したグッドイヤーは驚いた。俺たちが日本軍に押されて撤退したときよりも、いい状態じゃないか。
戦後、ブリジストンとグッドイヤーとの各種提携は、1979年まで続く。