か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

ちゃんぽんはすべてを語る

2017年07月23日 | 食・レシピ

で、今回はちゃんぽんは登場しない。昔、長崎でちゃんぽんを食った。今の値段は知らない。30年前だから。当時は約1000円。

長崎の友人がいった。長崎でちゃんぽん食うならリンガーハットよ。

なるほど、同感だ。昔、中華街に行ったら僕の子供たち(5歳、3歳)を見て、言葉遣いや行儀がよくいい子供たちだとほめてくれた人がいた。当たり前だ、僕が育てたのだから、漂う品の良さ、りりしい顔つき、父親に似た着眼点の良さ、控えめな態度、公共の場では走らない、食事は音を立てない、相手が聞き取れる最低限の音量で話す、・・・などは十分体得していた。さて少しづつ勉強を仕込むかという時期だった。

栴檀は双葉より芳し。

僕の子供をほめてくれた人が帰り際、子供たちに50円づつくれた。子供はどうしたらいいか心配そうに僕の顔を見た。兄は僕の許可を心から喜んだ。弟は、しっかり勉強しますと言ってもらった。人からものを貰ってはいけないと教えていたので例外中の例外の事件だ。子供たちは例外であることもよく自覚していた。今や当時の賑わいはない。

栴檀は双葉より芳し。

言い換えると、雑木は双葉より臭い。

案の定、小学校に入ると雑木は栴檀をいじめた。学校なんか人生のおまけだ。本質ではない。教育されてたまるか、という気概を持てといつも僕は言った。下賤の民のヒガミに負けるな。高貴であらねばならない。ノブレスオブリージュだ。生活保護をインチキして喜ぶ非民は、日本の文化を継がない。自覚と能力に欠けるからだ。

いじめ人殺しが野放しになるところに文化はない。モスルに何の文化が残ったか。「みんな楽しく」というウソつきの学校は迷惑だ。先生は現状を取り繕い子供は殺される。冗談じゃない。ちゃんとした私立に転校し上品さを失わずに今社会の中枢にいる。

 

そんな高貴な僕は、最近、「王将」という大衆がいく食堂に行ってみた。決していつも行くのではない。詳しいはずがない。庶民の外食の実情に触れようと思っただけだ。

僕は試しに行っただけです、みなさん。誤解なきよう。僕は高貴ですから。

この朝鮮式ご飯の盛り方は気に入った。これだけで長崎市はほぼ合格点。たぶん今後良い町として登場する。残念だな佐賀県。

酢豚は気取った店と異なり一個一個が大きい。上流の人間の口は小さい。丹念に作られた料理を食してきたからだ。不思議に僕は噛み応えに快感を感じた。

この中で絶品はスープ。塩分がどうしたとか騒ぐような非科学的無知蒙昧は嫌いだ。そいつらは小学校の時、石綿付き金網で遊んでいたくせに。僕はそれをアスベストというと思うが。オーガニックの野菜じゃないとかも言うな。さんざんスミチオンまみれの野菜を食ってきたくせに。

鶏ガラでだしをとるが、あまりに出すと味は骨に逆流する。その勘所がプロであり、高い料亭でたまに作る卓袱料理が非人道的な味になるのは、休みなく作り続けないから味が一定しないのだ、どんどん作らないと腕は鈍る。

僕はソフトバーテンをしていた(アルバイト)。それでも一日造らないと勘が狂ってお客さんからクレームが来た。

細いそうめんのような溶き卵は中華料理にはまれに美しい。

 

残念なことは、社長が射殺されてから材料が少なくなり値段が上がったこと。子供や女性にもっと細かい対応があったと思う。なんか工場の食堂のようで嫌だった。カバがマントヒヒを連れてきていると思ったら親子連れだった。いろいろあるが、長崎の主だった中華は行った、王将に勝てる店はない。

卓袱は主要三件に行った。個性はあるが共通点のほうが多い。高い。せかす。うまくない。研究してない。生徒だったら学籍簿の「向上心」の欄にCをつける。

食レポは犯罪的ウソを言う。

 

 


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