<前回のつづき>
大韓帝国(1897~1910)の末期、偉大な学者黄炫は<梅泉野録>でこの事件が発生する数か月前、朝鮮政界の執権者であった朴永孝が閔妃を暗殺しようという計画を準備していたがユキルジュンがこのことを高宗に密告することでこのたくらみがばれ以後日本に亡命することになった経緯を次のように述べている。
朴泳孝の陰謀
朴泳孝が日本に逃走した。開化(鎖国を解くこと)以後、高宗は外部から日本の経済を導入するとしつつ内部は政府が何らかの方策をしようとしたが一件も処理、下命を下すことができないでいた。中宮(閔妃のこと)はこのことにいたたまれず高宗の復権をたくらみロシアと内通していた。
このとき朴泳孝は閔妃の行為を大変に憂慮していた。しかし彼は中国の圧力を恐れ閔妃を殺さなければその禍根を断つことができないと考え、日を決めて対策を練った。彼は日本に兵力を要請した。彼はユギルチュンが自分と親しいので自分の意図を打ち明けたがユギルチュンはこの事実を高宗に報告した。
このとき、朴泳孝は自分の計画がもれたのを知り洋服に変装し日本の兵隊に護衛を頼み竜山から汽船に乗って逃走した。彼の一団申応煕、李圭完らと彼は一緒だった。(梅泉野録 高宗32年 乙巳 5月の記録)
このとき日本に逃走し九死に一生を得た朴泳孝はその後日露戦争が終わった1905年まで朝鮮に戻れなかったがこれは甲午政変に続く彼の二度目の亡命生活だった。このように閔妃暗殺は日本の介入なしにも朝鮮の志のある改革勢力自体でも準備され練りに練られたテーマだった。この年5月、朴泳孝の閔妃殺害計画が失敗したのち、閔妃は8月20日に大院君と閔妃は日本公使三浦五楼らが導くゴロツキによって処断された。またファンヒョン(黄炫)は閔妃に対しても大変否定的な人物に描写しているのだが、どういうわけか韓国の国定教科書はこのような歴史から目を背け閔妃を日本の侵略と戦ったが殺されてしまった愛国者だと描写している。ファンヒョン(黄炫)は典型的なソンビ(人士)であり、韓日合併で朝鮮王朝が滅亡するや否やそれは自分の不忠のせいであるとして自決してしまうほど朝鮮王朝に忠誠をささげた人物であるだけに彼の記述の客観性を疑う必要はない。
日清戦争で朝鮮半島から清の勢力を追い出した日本が侵略の意図を露骨に表すと民族的抵抗が多方面から起こった。祖sの中でも最も積極的な抵抗が義兵闘争であった。最初の抗日義兵である乙巳義兵は閔妃殺害と断髪令を契機に起こった。この乙巳義兵は儒学生たちがリードして農民と東学農民軍の残兵が加担して全国的に拡大した。(国史P. 337)
この部分は大きく言って二つの間違いがある。まず、日清戦争で日本が勝利したのち日本の朝鮮進出とその影響力が多方面にわたり朝鮮が発展向上したのは明らかなことであり、日本背後朝鮮を自主独立国にして朝鮮(の独立)を世界に知らしめようとした一方で軍国機務所を通じ強力な近代化政策を施行した。これに対し朝鮮の世論は大変好意的であり日本を歓迎し見習おうという雰囲気が支配的であった。これについて当時ファンヒョン(黄炫)先生の文を引用すると、
<次回用メモ> ……万一ロシアの協商(の提案)を受け から