吉井町、福岡県の真ん中の寒村だ。鳥越俊太郎の出身地でもある。製粉に限らず田舎の財閥として君臨する。
彼は僕が何度水を向けても安保問題には乗ってこなかった。代わりに喫煙の害について力説した。終わりを自覚しているのだ。やるだけのことはやったので、自分の引き際については何も言わせないという表情をしていた。
そうだ。あとに続く者がいないのは続くほうの責任だ。表情に殺意のないボクサーはリングに寝ることになる。俊太郎に全盛期のボクサーを期待するのは無理なことだ。表情にとげがないのだ。これでは論争に負ける。
プロは負けたらその世界から去るしかない。命がけだ。俊太郎は優しい余生のおじいちゃんだった。
「からけんさん、タバコ止めてよかったです。」
昔の年賀状には、「時代の接点に注意しろ、われらが神経を研ぐのは今だ。」とあった。
ところでその吉井町。ちょっと見過ごせないものを発見した。
高さ20センチほどの、仏教との融合もあるがヒンズー教の神だろう。ネパールに地震がなかったら日本まで流れてくることはなかっただろう。専門家の学術資料としてならいざ知らず、貧しいネパールを救いましょうという触れ込みで金儲けをたくらむ奴らはなかなかあくどい。しかも、日本人が持つことで貴重な人類の文化遺産が散逸しないで住むのです、ときた。
人の災難を利用して買い叩くか泥棒するかして洗練されたネパール仏教の像を国外に持ち出す。そして吉井町で50万で売る。
「ホントならとても50万では買えません。」 たしかにそれはそのとおり。
僕はフリーマーケットに行くのが大好きだった。工作の材料を買い込み、工作室で夜が開けるまで考える。至福のときだ。
少しずつ感じていたが、フリマは最近変質した。ガキのパンツの交換会とか下手な手作り品はそれなりによかろう。だが出所も分からぬ仏像を、さも人助けであるかのように言い含め勝手な値段で売るのは泥棒である。そもそも、仏像に値段がついて売られることがありうるか。
勝手な理屈で、あなたのお金がネパールを助けますとはよく言ったな。
ネパールが貴重な仏像を持ち出してくれと頼んだか。
鳥越俊太郎がある時点で人生に一線を引いたように、僕はもう気持ちの悪いマーケットとは一線を引く。