田舎は家々が離れている。点在する家にはたいてい犬がいて、しつけが悪いのでよく吠える。バイクで田舎に行くのは好きだが、この犬は迷惑だ。
🐒もよく出るがガンガン空ぶかしをするとたいてい姿を消す。犬はそうはいかぬ。かえって余計に吠え出しエンジンと張り合う。僕はその犬がつながれていないことに気が付くと、途端によいこになって、ごめんごめんと唱えながらその場を去る。
バイクにまたがっていたらどうしようもない。とくに坂道に停車したとき。
大体状況は悪い方に進む。飼い主が出てきて犬に代わって人間が吠えだす。
田舎人は、よそ者に対し何をしてもよく、何をしなくてもいい。ところがムラの知り合いに対しては、何か失敗はしてないか、うわさされていることはないか、びくびくして暮らしている。
平成の世でも村八分は江戸の話ではない。話をするといえばその場にいない人の悪口しか言わないくせに自分は人から悪口を言われてないかおびえている。
婚姻は人生最大の虚勢の張り合いとなる。溝にカネを捨て必死に作り笑いをして酒に酔ったふりをする。
無教養は犯罪だ。お上すなはちJAの言うことに逆らったら生きていけない。学校ではそれを「結(ゆい)」と美化して教え、実際は相互に首を絞めあう地獄のゲットーの強制労働だ。なぜならそこでは人と違うことが罪悪なのだ。この縛りがある以上、農業が会社化されることはない。
カネなら今でもある。カネはあるが嫁は来ない。向上心をもって最新の実験的農法を試すこともできない。消費者は世界の価格の7倍のコメを食わされる。農水省の失敗農政と、票田にしてきた自民党が変化を嫌ったせいである。
しかし、一義的な責任は農民本人にある。
改革しようとする人はいた。もちろん失敗した。法律の改正がなければ不可能だ。農業基本法から続く経営規模の拡大に夢を託す、机上の官僚空論が重しになっている。
それと、変化の不可能性の原因は、村の縛りだ。
なぜ水害で家族が死んでも村民は何も言わないか。みんな原因はわかりきっている。山を針葉樹の密植状態にしたからだ。そこに生態系はない。山における略奪農法だ。
根を張らない針葉樹。それでもちゃんと間引いた50年物の大木は、むしろ山崩れをそこでとどめている。農水省が砂防ダムを作り建設業者を潤し自分ら役人の天下り先にしている。朝倉の山に行って砂防ダムを見てくればいい。崩れていない山には砂防ダムはなくとも広葉樹があるのだ。
ここが一番重要な点だ。
なぜ水害で家族が死んでも村民は何も言わないか。
本人もそんな山の所有者だからだ。ムラに加害者と被害者は共存できない。
吠えるのは犬だけだ。