思うに教育界でなくとも一般企業でも同一だ。例外なく言えることだが人望のある人は出世しない。能力のある人は定年まで昇進せずその位置にとどまる。つまり部下から慕われない人ほど出世が早い。
大学教育でも同様だ。採用の時点において教授たちは志願者が自分より優れているとその採用をとても警戒する。自分を蹴落とす人間をわざわざ採用してやることはない。
しかし、いったん採用されるとそこは学問の自由によって守られた自由な世界だ。大学にも職階はあるが福岡県教育委員会(以下県教委)のようにわざわざ馬鹿の順に偉くなるシステムを作ったりしない。
県教委は杓子定規に勤務規定を守らせようとした。夏休み、意味もなく課外授業もないのに一日中学校にいなさいとか、まいにちA4の広さを埋めるレポートを出しなさい、意味のないものでもいいがパソコンを使ってはいけないとか夏休みですら5分早く帰ると処分するぞと脅す。
こういうことは一般の庶民の喝采をあびる。教師コンプレックス、学歴コンプレックス、成績コンプレックスに固まった者から見ると先生方がやられるのを見るのはなんと小気味いいものだったろう。
ところが人生は複雑だ。修猷館の教師にコンプレックスを抱きながらわが子は修猷に入れたがる。入るもんか。絶対に合格しない。修猷の偏差値をいくらだと心得る。99%の15歳はファシズムの学校に行く。
太宰府高校のような三位一体のバカ高校では哀れな共演がくりひろげられる。生徒と親と教員の三位一体だ。親と生徒は相似形でいずれもよく日本語を理解しない。節を含む文章は理解しない。服装が派手で不潔である。
修学旅行に行くためパスポートをとらせたときの話が象徴的だった。太宰府高校ではパスポートを持っている者がクラスに一人程度であったのに対し修猷では全員が持っていた。
この差はなんだ。庶民が選んだのだ。庶民が差別を選んだのだ。賢いのとバカ、金持ちと貧乏、上品と下品。お互いにお互いの足を引っ張って這い上がろうとする途上国的選抜方法に賛成してきたのは貧乏人だ。
こんなバカな競争をしなくとも優れた人材は掃いて捨てるほどいる。太宰府高校の競争率は1.3倍とか1.5倍だ。こんなんで選抜したと言えるか。選抜ではない。バカの集合だ。
すぐれた人材は豊かで自由でゆっくりした環境で育つ。バカ高校ほど補習だ課外だと言って授業をしたがる。だから馬鹿になるということが教員もたいした高校を出ていないから分からないでいる。
意味のないことを強制するのをなんと言うか。それをファシズムという。日々のくだらない授業にもんもんとしている若い頭脳たち。早く大学においで。無駄なことはさせないよ。ただし、太宰府高校は来ないでね。