「大正14年3月、東京放送局開局にあたっては、第二文字と第四文字は明るく発音しやすいという理由で、“O”と“K”が、第三文字は第一開局局としてローマ字の第一字“A”が選ばれ、“JOAK”となったものです。
同年6月開局した大阪放送局は“JOBK”、7月開局した名古屋放送局は“JOCK”と、第三文字はA、B、Cの順になっていますが、その後は必ずしも放送局の開局順ではないし、使われなかった文字もあります。」 (NHK on line より)
つまりこのような次第でNHKのコールサイン(呼び出し符号)が決まったという説明だ。各放送局ごとに一つのコールサインが割り当てられその符号はその放送局を代表した。
ごまかしちゃあいかんぞ。JODKがないではないか。ちなみに福岡はJOLKだ。僕はJL6〇〇〇だ。
日本で4番目に開設された放送局が消えている。
すこし前、日本で6番目に開校した帝国大学は京城大学であったことを書いた。朝鮮総督府は設立予算獲得のためまさに粉骨砕身努力した。それを渋ったのは内地の帝国政府だった。
朝鮮の低能学者、学生、国内の低能学者どもはいつでも大日本が朝鮮侵略完遂のため血眼になっていたようにいうが、バカの空想である。
帝国政府としては、”JO”で始まるコールサインは国内用のものにしたかったので、逓信省は朝鮮にこの”JO”を振り当てたくなかった。内地の優位を保ちたかったのだ。朝鮮総督府はよく逓信省に対抗した。
総督府は内鮮一体を根拠についに”JO”のコールサインを勝ち取る。放送網はまたたく間に半島全土に広がり、朝鮮語専門放送の第二放送も始まる。母国語による放送は庶民の唯一の娯楽となった。
低脳左巻きが日本帝国主義は朝鮮から言葉を奪ったというが何をほざくか。朝鮮総督府は大日本の皇民化政策に抗しつつ誠心誠意朝鮮語の普及に努力した。以下に書く第二放送とは朝鮮語による放送だ。第一放送でも何割かは朝鮮語で行われた。
台湾も上海租界も関東州も”JO”のコールサインを持つところはない。唯一朝鮮だけが内地と同様の、しかも全国で4番目の放送が開始されたのだ。
ここまでしたのに何でわからんのか、朝鮮人。言葉を与え、教育を与え、およそ近代とか文化とか名のつくものはすべて与えた。
京城中央放送局(呼出符号JODK)
所在地: 京畿道京城府西大門区貞洞町1-10
周波数: 第1放送 - 710kc(1927年2月16日開始)、第2放送 - 970kc(1933年4月26日開始)
釜山放送局(呼出符号JBAK)
所在地: 慶尚南道釜山府大庁町一丁目7
周波数: 第1放送 - 650kc(1935年9月21日開始)、第2放送 - 1030kc(1941年8月開始)
平壌放送局(呼出符号JBBK)
所在地: 平安南道平壌府梧野里130
周波数: 第1放送 - 820kc(1936年11月15日開始)、第2放送 - 1090kc(1936年11月15日開始)
清津放送局(呼出符号JBCK)
所在地: 咸鏡北道清津府目賀田町8-3
周波数: 第1放送 - 850kc(1937年6月5日開始)、第2放送 - 1100kc(1941年8月開始)
咸興放送局(呼出符号JBDK)
所在地: 咸鏡南道咸興府山手町一丁目79
周波数: 第1放送 - 780kc(1938年10月30日開始)、第2放送 - 1050kc(1939年4月開始)
裡里放送局(呼出符号JBFK)
所在地: 全羅北道益山郡裡里邑南中町86
周波数: 第1放送 - 570kc(1938年10月1日開始)、第2放送 - 1100kc(1942年4月開始)
大邱放送局(呼出符号JBGK)
所在地: 慶尚北道大邱府院垈洞1169
周波数: 第1放送 - 800kc(1940年10月30日開始)、第2放送 - 1070kc(1941年4月19日開始)
光州放送局(呼出符号JBHK)
所在地: 忠清南道光州府社町117-2
周波数: 第1放送 - 780kc(1942年3月21日開始)、第2放送 - 1040kc(1942年3月21日開始)
大田放送局(呼出符号JBIK)
所在地: 忠清南道大田府北町15
周波数: 第1放送 - 650kc(1943年7月15日開始)、第2放送 - 880kc(1944年11月10日開始)
元山放送局(呼出符号JBJK)
所在地: 咸鏡南道元山府栄町15
周波数: 第1放送 - 650kc(1943年7月15日開始)、第2放送 - 900kc(1943年11月10日開始)
海州放送局(呼出符号JBKK)
所在地: 黄海道海州府広石町
周波数: 第1放送 - 800kc(1943年8月開始)、第2放送 - 1080kc(1943年11月10日開始)
( ウィキペディア 朝鮮放送協会より )