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倭国の大乱 鉄資源をめぐる北九州勢力と畿内吉備勢力の争い【福永伸哉「邪馬台国から大和政権へ」】
日本史オンライン講座@YouTube
いい話題を有難うございます。
倭国大乱の原因と内容を正しく理解すれば、卑弥呼の正体もヤマト王権成立過程も分かりますよ!
大乱の原因は107年に後漢安帝に朝貢した倭国王帥升が、57年に後漢光武帝から金印を賜うまでに隆盛となっていた奴国王を討って倭国を奪ったクーデター事件です。帥升は奴国宮廷楽師で祭祀を任されていた人物だと推理しました(帥姓は西晋の時代に師姓から改姓されたのです。師姓は周代以前から宮廷祭祀を行う楽師の官位を表す姓なのです)。
この奴国王が、宋史王年代紀18代奴国王素戔嗚尊(スサノヲ)だったのです。日本書紀ではこの史実を、高天原神話を創って誤魔化しましたが、古事記は真相を暴露しています。乱暴者の神スサノヲを捕らえた八百万の神が拷問し、全財産を奪ったとあります。金印を奪うために拷問したのですが、いち早くスサノヲの部下が持ち出し、逃げる途中で志賀島に立ち寄り土の中に隠したのです。この金印が、江戸時代の百姓によって偶然発見されたのです。金印が手に入らなかった師升はスサノヲの部下160人を奴隷(生口)として後漢に献上し、倭国王に認められたのです(詳細は「【刮目天の古代史】倭国王帥升のなぞ」参照)。
師升の反乱を逃げたスサノヲの弟ニギハヤヒは吉備を任されていた父イザナギ(16代王伊弉諾尊)の部下が奴国を裏切ったので討ち、吉備を平定して奴国を再興したのです。王年代紀19代王天照大神尊とされています。先代旧事本紀では天照国照彦天火明櫛玉饒速日命として物部氏の祖とされていますが、日本書紀は吉備津彦(イサセリヒコ)の鬼退治の伝承を作り、史実を誤魔化しました(詳細は「【刮目天の古代史】消された吉備の大王ニギハヤヒの謎?」参照)。
でも、現在の天皇の祖神であることが平安時代に吉備津彦を皇祖神として伊弉諾尊と一緒に祀っていますので正体が判明しました。そして、倉敷市楯築王墓の被葬者だということも、墳頂の神社のご神体の亀石(弧帯文石)がシナの三皇神話の筆頭の天皇伏羲と同じ人面蛇体で、魏略逸文にある「倭人は太伯の後」を裏付けるものだったことが分かりました。記紀神話で、最初に高天原に降り立った神天御中主が新唐書・宋史王年代に初代奴国王だとあります。江南の海人族の信奉するナーガ(龍蛇神)国王(奴国王)という意味ですから、BC.473年に滅んだ呉の王族で、呉の先祖が夏王朝を興した禹、その祖神天皇伏羲に繋がります。つまり、天皇のルーツも判明しました(詳細は「【大発見!】天皇家のルーツの証拠!」参照)。
また、奴国王スサノヲの王子イタケルらも祖母イザナミの実家のムナカタ海人族に助けられてイタケルは出雲王になります。その子孫がスサノヲゆかりのムナカタ族を束ねる王として、裏切り者の師升の一族の倭国に復讐します。後漢末の朝廷の内乱で統治が緩んだ半島で韓人・濊人が強勢になって暴れたので倭国は楽浪郡との交易が廃れ、衰弱します。
イタケルの子八束命(出雲国風土記国引き神話の神八束水臣津野命の略称)は半島南部の鉄をスサノヲのコネで入手し、鉄のネットワークを作って隆盛になります。その跡を継いだ日高彦(魏志倭人伝の狗奴国の官狗古智卑狗、豊岡市久久比神社祭神久々遅彦)は熊本県菊池川流域に前線基地を築き、山陰や畿内から兵を呼び寄せ、倭国の領土の佐賀平野・筑紫平野などを攻撃したのが倭国大乱です。この戦いで日高彦が戦死して、玄界灘を支配していたムナカタ族の有力者赤坂比古(卑弥呼の父、和邇氏の祖)が倭国王難升米に懐柔されたのです。卑弥呼の太陽神のお告げによって政治を行う条件で狗(旧)奴国王卑弥弓呼(ヒコミコ)を裏切ったのです(詳細は「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」参照)。
そのため狗奴国王は吉備から纏向遺跡に王都を遷し、全国に展開していた旧奴国の勢力を呼び集めて、247年に倭国追討軍を送ります。卑弥呼の死後の内戦に勝利した高野御子(日高彦の御子)が狗奴国を裏切り、13歳の台与を外交上女王に立てて倭国王となり、列島各地のムナカタ族が傘下となったので、記紀神話で大国主とされます。出雲・丹後王国三代(八束命・日高彦・高野御子)の史実が記紀の日向三代神話で誤魔化されています(詳細は「【刮目天の古代史】出雲・丹後王国の謎!」参照)。
狗奴国王(記紀の崇神天皇)が尾張王(記紀の景行天皇)を派遣して、最終的に大国主・台与らを討って日本を統一したのですが、狗奴国の後ろ盾だった呉が西晋に滅ぼされます。西晋に朝貢していた倭国を狗奴国が滅ぼしたので、西晋に追討されることを怖れ、大国主と台与の子ホムダワケ(応神天皇)をヤマトの祭祀王として呼び寄せ、狗奴国を倭国の後継国ヤマト(邪馬台国)と呼んだのです。両親の鎮魂のために桜井茶臼山古墳と箸墓を造り祭祀を行ったのがヤマト王権の成立となります。かなり端折りましたので、詳しくは「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」をご参照ください。お邪魔しました(;^ω^)
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王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆
10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として日本の国号が正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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