北海道函館市の建築設計事務所 小山設計所

建築の設計のことやあれこれ

たった一度の就職活動

2014-10-04 18:01:12 | 日記

地下鉄銀座線に「稲荷町」と言う駅があって、歩いて1分の同潤会東上野アパートの4階

に住んでいました。向いは、落語家の林家正蔵(彦六)さんの住んでいる長屋。彦六師匠の家は







両側が駐車場になってしまっても残っているようですが、同潤会東上野アパートの方は、

最近取り壊されてしまったらしい、、、。



寿湯(マンションの影で見えない。僕も良く行きました。)の文字のあたりに同潤会東上野アパートは

ありました。








                     落語はろー】情報交換の部屋さんのブログより



林家正蔵(彦六)さんの住んでいた長屋。

                                    「寝言は寝て言うも~ん」さんブログより




その向かいが同潤会東上野アパートでした。

                                    「寝言は寝て言うも~ん」さんブログより


4階の寿湯さん側(北側)のトイレ台所共用もちろん風呂なし6帖一間(月22000円)に住んで

いました。

                       

下町は、あちこち徘徊しました。玉の井、洲崎、鳩の街、向島、、。洲崎は、永代通りから橋を

渡って、すぐ左側、むつ市出身の、川島雄三監督の映画「洲崎パラダイス赤信号」の町が、当時

はそのまま残っていました。と言っても、昭和33年じゃないから、建物がそのまま残っていただ

け、、、丸い柱には、お風呂場のタイルが何故か必ず張ってありました、、、。





カエル好きのページ https://minkara.carview.co.jp/userid/2537399/blog/39963824/さん より




浅草に行くと、六区(ロック)から、すきやきの「今半」のあるアーケードを、言問通りに

抜けて、すぐ右の、じいさんがやっていた「煮込み屋」でハイボールあけると、必ず、

千束(つまり吉原)をお散歩。今はどうか知りませんが、当時は、通りに面して「声掛け

おばさん(もしくは、おばあさん)」(我々、つまり僕と友達のI君は、そう呼んでいた、、。)

が、小窓と言っても、3尺×6尺くらいの窓から、「お兄さん、どう、好い娘いるわよー」と、

声を掛けてくれるのが嬉しくて、、、何度も何度も行きました、、。「すいませーん。」

冷やかしてもらうのが、楽しかったのです、、、。(あくまでも「お散歩」です、念の為。)



鳩の街は偶然見つけました。名前も、それまで知りませんでした。当時、すでに商店街に

生まれ変わっていて、それらしき建物が一本裏の路地に、あちこち残っているくらいでし

た。その商店街の中ほどに建築設計事務所がありました。

「卒業したら、こういう所で働きたいなー」

学校の教務部に行って成績証明書と、出席しなかった卒業式で受け取っていない卒業証書

をもらって、その事務所に行き、

「すいませーん、こちらで所員は募集してませんか?」

出てきた奥さんが

「あいにく、うちでは今は募集していませんがー、、、」

人生で、たった一度の就職活動でした、、、。



その設計事務所は、この図の「こぐま」さんの辺りにあったと思います、、、。



下町のおもてなし https://www.nippon.com/ja/views/b01103/ より

 

 

「こぐま」さんの5軒くらい先、保育園の入り口の手前に、今でも設計事務所があります、、、。

 

 

 


タイルの壁





往時の鳩の町







追記   洲崎の入口のアーケード



     

     

      ポタリング犬@のポタ山イチさんのブログ

      http://potadog01.blogspot.jp/2013/04/blog-post.html

      江戸川ポタリングガイド より




      アーケードの右下の奥の建物は当時まだ建っていたような、、、。




追記の追記  

       




       4階の寿湯側の22000円/月6帖間(右側のたたみの部屋。たしかに畳表の下はコルク

       っぽかったです。)の、ずっと上野駅寄りの部屋が、僕が2年間住んでいた部屋でした。     


       



もうひとつ  

       




2′45″あたりから、建て変わった後の14階建てのマンション


       





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出し逃げ

2014-10-04 13:40:42 | 日記
高校受験の時、工業高校の建築科を受けるか、普通科の高校を受けるか、迷った。(こ

の、普通科の「普通」って何なんでしょうね? なにが「普通」なのか、さっぱり判らな

い、、、。)ところが、去年、亡くなった大学の同級生の幸田章君は、田町にある、東京

工業大学付属工業高校の建築科。しかも国立、全国どこからでも受験できるし、授業料も

安そう、、、。そうか、こんな手もあったのか、さすがは幸田君、中学生にして目の付

け所が違う、、、。(幸田章君については、また、あらためていつかどこかで、、、僕の

知る限り、本当に設計の神様に愛でられた、とんでもない才能の、、、幸田君でした、、

、、、。いくらなんでも早すぎる、、、、。建築家は、これからなのに、、、、。ちなみ

に、世田谷美術館も皇居の新吹上御所も幸田君の担当、、、その大宮の自宅は、ここ

何年かの日本で建った住宅の中では、まごうことなき、最高傑作、、、。)




  大宮の幸田君の自邸です。



  



  



  



  

      



大学の建築科に入って(「建築学科」でなくて、ただの「建築科」)、「これからは、遊

びでやってた図面書きが勉強だ!(中学、高校、家で三角定規で住宅のプラン作って、

模型も作って遊んでいた、、、。)嬉しい、嬉しい、、、。」と、思っていたらば、大

間違い、、、。大学には、「教授」「助教授(今は准教授)」と言う肩書きのついた、

「偉い人」達が、いっぱい居る、、、、「偉い人」は子供の頃から、天敵のように嫌い

なの、、、、。(吉村先生だけは別です。今でも、終生、尊敬申し上げています。)

困った。近づきたくもないし、話もしたくない、、、。特に、講評会と言うのがあって、

自分の描いた図面のコンセプトとやらも含めて、お歴々の前で説明して、その「講評」と

やらを「うけたまわらなければ」いけない、、、。(今考えれば、後々、依頼主や建て主

さんとの、「やりとり」の予行演習みたいな訓練でもあって、先生方の「親心」なんだろ

うけど、、、、奥村先生のような、すばらしい先生もおられたのに、馬鹿ですねー、、)

そこで、とった行動が「出し逃げ」。そーっと、学校に入っていって、そーっと課題を

置いてくるだけ、、、。山本学冶さんに「お前はどうして出てこないんだ?」と言われよ

うが、同級生の横内君が「あれっ?この模型だれの?」と言おうが、影にこそこそ隠れて

知らん顔、、、。おかげさまで、「S美会」と言う同窓会の見学会(吉村先生の軽井沢の

山荘や、雪谷の清家先生のご自宅や、二の宮の吉田五十八先生のご自宅、、、)のとき、

前野先生に挨拶しても、「お前、誰だ?わかんねぇ」と言われる始末、、、。自業自得と

は言え、こんな学生、いやでしょうねー、、、、、。(もちろん、こっそり、卒業しまし

た、、、。就職の相談も何もしない、、、。大学院なんて行きません、、、。ただ、、

卒業しただけ、、、、。)





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子供の頃に、、、

2014-10-04 12:34:01 | 日記
将来は絶対に偉い人にはなりたくないと思ってしまった、、、。(どうして、そうなった

かは、忘れた、、、。)特に、「社長」とか「ネクタイ」締めた人は、もうダメ、絶対

にイヤ、、。(国会で、アントニオ猪木の「変な赤い布」はダメで、「普通のネクタイ」

が問題にならないのは、理解できない、、、。「ネクタイ」の方が、よっぽど問題だ。

ついでに言うと、内閣の組閣の時の雛壇で、クラブのママみたいな格好するのも、やめて

欲しい、、、。)ところが、子供の頃から、設計が好きで、長じて、それを商売にすると

なったら、これが具合が悪い、、、。設計は好きだけど、偉くはなりたくない人間が、

アーキテクト(architect)?  archi- と言う接頭辞?には「統合する」とか、「三角形

の頂点」みたいな意味があるのかも知れないが、山のてっぺんは嫌いなの、下から見上げ

ていたいの、、、山なら「裾」が好きなの、、、。とにかく、人の上には、立ちたくない

の、、、。「あれしろ」「これしろ」なんて言いたくない、(言われたくもない、、、)

「違うから、やり直せ!」なんて、もっての他、、、。これじゃ、商売にならない、、。

因果な人生です、、、。


小学校5年の時、学級委員に選ばれてしまった、、、。職員室に「やりたくない」と言い

に行った。先生達は、「変な子供だ」せせら笑って相手にしてくれない。教室に戻って

同級生のバットを借りて、自分の机と椅子(当時はオール木製)を、バラバラに解体して、

ついでにコークスストーブの盥の水をぶちまけて、「もう、こんな学校には来ない」と

言って帰ってきた、、、。(親は、学校に呼ばれた、、、。) 11歳にして、すでに「民主

主義」は、大嫌いだった、、、。


J・G・フレーザーの『金枝篇』を読んで、「なんだ、こんなの当たり前じゃないか!」と

思った。王様なんて、都合よくこき使われて、最後は殺されちゃうに決まってる、、、。


僕は、ただ、設計が好きなだけなんです。




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