北海道函館市の建築設計事務所 小山設計所

建築の設計のことやあれこれ

帝国ホテル

2014-10-05 17:51:24 | 日記
帝国ホテルと言えば、旧帝国ホテル。もしも、今、日比谷公園の前に残っていたら、間違

いなく、「世界遺産」。こんなものを壊すなんて、R事件のOさんじゃなても、「蛮行」そ

のもの、、、。もしも残っていたら、日本国は、国と学会と建設業界の総力をもってして

(学会って建築学会ね、一応、、)その地下免震耐震改修工事を行っていたでしょう、、。

(あー、もったいない、、。東京という街の「心の珠玉(たま)」が、失くなってしまって

いるままなのです、、、。)

ご当地、函館市は、各界に様々な人材を輩出しておりますが、早稲田大学名誉教授、明石

信道さんも、そのお一人。その大著『旧帝国ホテルの実証的研究』は、建築本なのに、本

の中で散歩が出来ると言う、稀な書。(小説なら、いざ知らず、、、。)ある時、例の

ごとく歩いておりましたら、「はっ!」と気が付いてしまいました。このホテル、玄関か

ら入って、今は明治村に残っている入り口ホールの、さらに奥に行くと(明治村は残念な

がら、そこで行き止まり、、、)、長大なバンケットホール?があり、その両側には列柱が

並ぶコリドー?(つまり廊下)があるのですが、そこをさらに奥まで進むと、脇に、目立た

ない、人が行き違うのが大変なくらいの、狭い階段があるのです。この階段を上がると、

それまでの進行方向(東西)とは直交する方向(南北)で、この建物の巾いっぱい長さの、

2階のプロムナード(談話室というか、さらにその奥の孔雀の間の待機スペースとでも言

いますか、、、)に、いきなり出ます。(ここの天井は圧巻で、この建物の肝でしょうか?)

さらに、そこから上を見上げると、不思議な半球状の飾りのある3階の(確か、この3階

に上がる、途中踊り場で直角に折れる、やはり狭い階段も、ちらっと見えたような、、)

、巨大な踊り場といいますか、明り取りもかねたようなフロアーがあるのです。(ここか

ら孔雀の間が見下ろせた?、プロムナードは、もちろん見下ろせます、、。)

何に気が付いたかと言うと「この空間構成は吉村先生の軽井沢の山荘と、同じじゃないか!」

と思ってしまったのです、、、。片方は当時の巨大ホテル、吉村先生の山荘は、ご存知の

通り、7m20cm正方形の小さな木造の建物です。でも、同じなんです、、、。吉村先生の

山荘は、1階のRC部分の階段から、


     




2階に上がって振り返ると、急に視界がひらけます。


     


(ここに、子供のような喜びがあります、、、。)そして、さらに、梯子のような急角度の

さらに狭い階段を上ると、(またしても振り返ります。)


     
     

3階の小屋裏部屋から、4m80cm×4m80cmの居間が見下ろせるようになっているのです。

(ここにも、子供のような喜びがあります、、、。)



     




吉村先生は7m20cm×7m20cmの中で、それを無理なく自然に実現してしまっているのです、、、。

囲碁で言えば、手筋、形とも良く、大局観に優れ、その読みは深くて、人間的にもバランスが良く、

いつの間にか半目勝ちをしてしまう名人、とでも言いましょうか、、、。

私が「終生、尊敬申し上げる」って意味、少しはお判り頂けるでしょうか、、、?



この項、実は手元にホテルの平面図もなにもなくて書いております、、、。勘違い等あり

ましたら、訂正するかも知れません。





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朝鮮人脈

2014-10-05 14:14:58 | 日記
と言っても、そんな言葉はない。私が勝手にそう呼んでいるだけである。私の母は、西暦

2000年代の今でも、思い出の「朝鮮人脈」の中で生きているのだ、、、。美枝子ちゃんが

どうしたとか、宝塚の何とかちゃんはどうだったとか、母の話は、そのほとんどが、朝鮮

時代、それも自分にはまったく判からない、「しもきせん」と言う、自分には、その漢字

さえ判らない、おそらく今の北朝鮮の山の中のどこかの、まるで架空の街?での出来事と

、その人達の引揚げ後の内地での、あーでもない、こーでもないの話に終始するのだ。

登場人物のほとんどは「おばさん」で、その人達の息子さんや娘さんの動向に、母は猛烈

に詳しい、、、。最大の関心事は、息子さんの場合は学歴で、娘さんの場合は結婚相手で

ある。いい年をして結婚をしていないと大変だ、「どうしたのかしらねぇー」って、大き

なお世話だ。こっちは、そんな人達に会ったことも見たことも無いんだってば、、、。

それでも母は延々と喋り続ける、、、これは、もはや、もう、「生き甲斐」そのもの、

これなくしては生きていけない、生きている意味そのもの、なのだ。どうだの、こうだの

言っても、どうしようもない、、、。その母の女学校の同窓会は、たしか「白楊会」とか

言ったのだが、何年か前に開くこと自体やめてしまった。(毎年、帝国ホテルとかで、や

っていて、某有名照明デザイナーの女性も参加していたらしい、、、。)しかし、もう、

これ以上開催しても、会員があまりにも高齢化し過ぎて、毎年開催するには忍びない、と

言うことらしかった、、、。(具体的には、お察し下さい、、、。)それでも母は諦めない

、、、、。毎年、小さなグループで、どこかで小会合を開いていた。(新宿の中村屋とか

、、、こういう需要があるんですね新宿の中村屋さんには、、、)たが、さしもの母も、

ここ何年かはパッタリそれさえもなくなってしまった。長男の十何回かに及ぶ見合い話を

その「朝鮮人脈」で乗り切った母が、である、、、。(私は三男なので被害なし、、、。)

人生って、こういうものなのですね、、、、。



この項、建築には一切関係ありません。お察し下さい、、、。




追記 「しもきせん」の漢字は「下岐川(하기천 ハギチョン Hagich'ŏn)」でした。

    今の朝鮮民主主義人民共和国の日本海側の海岸の街、「興南」から山の中に

    入った所らしいのですが、Google Map では見つかりません、、。長津線と言う

    線路の近くで、大きなダムがあるはずなのですが、、、。





追記の追記  見つけました!!

   
       


       赤い印で하기천역(下岐川駅)とあるところ。左上は赴戦江ダム(부전강댐)




       久保田豊『私の履歴書 経済人9』日本経済新聞社・1980年 より


       私が赴戦高原に足を踏み入れたのは大正十四年の夏であった。(中略)測量、調査は

       約六ヵ月で終わり、いよいよ設計にとりかかった。赴戦江は長津江、虚川江とともに

       鴨緑江の支流で、赴戦高原を北西に流れて鴨緑江に注いでいる川だ。森田さん(註・

       森田一雄)と私の案は、この流れをある地点に集め、そこから逆に、水源の方にトン

       ネルを掘って落差の急な東海岸―日本海に落とそうするものである。いわば流域変更

       であり、人間の力で水の流れを逆にしようというのだから大きなそして愉快な計画で

       ある。



赴戦江ダム(부전강댐)

       




       この写真の発電所の右下が「下岐川(하기천 ハギチョン Hagich'ŏn)」の街?

       





     私の母方の祖父が亡くなった時に、久保田豊さんが代田橋の祖父の家に来て下さいました。

     祖父の墓は豪徳寺にあります、、、。




追記その3   下岐川(하기천 ハギチョン Hagich'ŏn)の町

        左上が発電所。右下が母の通った小学校?(当時は国民学校?)


        




興南のコンビナート









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祖父つづき

2014-10-05 11:55:27 | 日記
祖父は、旅館や料理屋さんで、「あの女中の先生は、、」と言って、なんでもかんでも、

「先生」をつける、、、。「あの運転手の先生は、、、」、だれでもかれでも「先生」に

されてしまう、、、どうやら、「コンサルタント業」は「先生」をつけて、相手と話をす

ると具合が良いと、戦後のどさくさの中で勝手に身についたようだ。自分は話せないが、

祖父は明治生まれだが英語を話した。(戦後教育の自分としては情けない、必要がなかっ

たと言えばそれまでだが、、、)戦後のコンサルタント業で必要にせまられたのだろう、

不思議な、東北なまりの英語だった。最後はアフリカのガーナまで行っていた、、、。

鈴木宗男氏の「ムネオハウス」が、テレビで報道された時、祖父の会社の名前が出てきて

しまい、「あらっ、こんなところで出ちゃって、、、」と、母は笑っていた、、、。

最初の一級建築士の試験に落ちた時、(二度目には受かったが、、、)祖父に怒られた。

当時、祖父の会社は一級建築士の人数だけなら、某N建設計よりも多かったのである。

祖父の出生地は宮城県角田市の花島というところ。近くの高蔵寺という寺に「佐藤家

住宅」という古民家が移築されている。東北の民家なのに、何故か数奇屋建築のように

洗練されている。国道6号線を走ると、相馬のあたりから果樹園を抜けて、見に行く。

(間違い、、、。見に行っていた、、、です。)


写真は、その旧佐藤家住宅です。


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祖父

2014-10-05 10:29:40 | 日記
母方の祖父は土木技術者だった。最初は、旭川で旧国鉄に勤めて、トンネルなどを掘っ

ていたらしい。囚人をトロッコに乗せて、一日の作業が終わると、改札口でおにぎりを

渡すのだ、と言っていた。一人息子で、郷里に残した自分の母親を、北海道に呼び寄せる

のに、年寄りが一人で青函連絡船は不案内だろうと心配して、浅虫温泉のホームで待ち合

わせして、温泉で一泊してから、旭川に向かったらしい。当時は、民間の方が景気が良く

て給料も良く、先輩か恩師に誘われて、同じ土木でもダム工事に転職した。高知県のニ淀

川町と言うところの現場である。私の母の兄は、そこで生まれている。野口遵という人が

大陸で肥料が必要だから、その生産ためには電力が必要で、今の北朝鮮と中国の国境に流

れる川にダムを作ると言う事になって朝鮮半島に渡る、、。私の母は、生まれは内地だが

育ったのは京城、今のソウルである。京城第一高等女学校という女学校の出身である。

ダムの現場の近くの社宅は、昭和の初めだが、当時の最先端のオール電化のRC建築だった

らしい。同じ社宅には東条英機の息子さんもいて、娘さんは母の同級生だったとか。

そのダムが完成して半年もしないで日本は敗戦する。祖父も伯父も母も、引揚者である。



水豊ダムの定礎式 

  中央の上段、正面を向いて、両手を後で組んでいるのが 祖父のような気がするんですけど、、、。 


  


        

その時、少なくとも朝鮮半島では日本という国が無くなってしまった訳で、母は、たとえ

短い期間とは言え、自分の国が無くなると言う事はどういう事かと話すのです、、、。

内地に戻っても日本は敗戦国、仕事は無い、自分の仕事が無いのはまだしも、日本中あち

こちに散らばっている半島時代の同僚から「佐藤さん、何とかならないか?」話が来る。

当時、マッカーサー司令部の方針で、日本もアメリカのように、役所の中で図面など引か

ずに、もっと役所をスリム化しなければいけない、その為には「コンサルタント会社」が

必要と言う事になり、祖父達は内幸町の焼けビルで会社を始める、、、。しかし、やはり

国内にダムの現場など当時は無い、、、戦後賠償でインドネシアやビルマにダムを作る事

になり、祖父達は南の国の仕事をする事になった。東京オリンピックの頃、竹下町の祖父

の家に遊びに行くと、今ならワシントン条約で国内輸入禁止であろう、亀の大きな甲羅や

象牙の牙や、いろいろな剥製が床の間に飾ってあったのは、そのせい、、、。






追記  ウィキペディア(Wikipedia)で、調べてみました。東條英機さんの長男・英隆さんは

    鴨緑江発電職員とありました。鴨緑江は本文にある「今の北朝鮮と中国の国境に流れる

    川にダムを作る」の川で、ダムの名前は「水豊ダム」です。東條英隆さんのお嬢さんが

    由布子さんで、私の母の話に出てきたお嬢さんと思います。







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