縄文中期の特殊道路
縄文中期の遺跡を発掘してみても、そういうことは感じる。たいていは、竪穴の
掘立家屋の南側に出入口があって、そこから、ロームの踏みかためられた帯が感
じられる。水場へ行く、または猟場へ行く道もあっただろう。しかし、私は、い
つも、八ヶ岳でみたトヤへ行く道を思いだすのである。
クリとクルミの木に囲まれて生きてきた中期縄文人、クリの花咲くころ、彼らの
性が強く刺激されたとすれば、女は夏の端境期は食欲が減退しても、秋の実り、
冬の狩猟と、妊婦の食欲は頂上に達して、休養期のあける四月が、格好な出産期
となる。とすれば、美しい明るい沢にのぞんだ、クリやクルミの林の下草の中に、
愛の場があったとしたらどうだろうか。
近世においても、成人の若者仲間の集会場、女たちの月のけがれを送る他屋(たや)
、古い村には特定の精進屋に行く道、他屋小路などというのも残っている。きっと
、私のまよい込んだ山の隣人のトヤ道のような道も、縄文人にはあったに相違ない。
そうしたことを考えあぐんでいるころ、滋賀県教委の水野正好さんが長野県尖石の
与助尾根住居址群について、おもしろい学説を発表した。与助尾根の村は、どの家
も南を向いて出口があり、ほぼ、一線に並んでいるという観察である。そのとおり
とすれば、そこには、明らかに意識的に道がつくられていたことは確実だったとい
えるだろう。
その戸口戸口を結んだ道はどこへ通じていたのだろうか。縄文中期の村落は、たい
てい環状または馬蹄形に構成されている。真中は、何もなくて広場である。こうし
た広場聚落の東独中世の村は、限定されたいくつかの門(ゲート)があって、それぞ
れの門はきめられた目的に使われる。狩猟・燃料採集・水汲み・農事、などなど、
つまり、その門はいっさいの村落に搬入される物資の量をおさえ、広場で分割さ
れるというのである。縄文中期の村が、そうした原始共同体だったとすれば、や
っぱり、村それぞれに、獣とり、魚とり、木の実や野菜あつめの道もできていて
さしつかえないとも考えられるのであるが。
長い引用になってしまい、申し訳ない、、、。読み物としてもおもしろいと思ってしまっ
たのです。特に、「噛んだりわめいたりして」なんて、考古学の本に出てくる表現というよ
りも、小説か何かみたいです、、、。
この『古道』という本を、僕はおそらく、このブログの記事の『追記の添付写真』の中の
瀬川清子さんの『女の民俗誌●そのけがれと神秘』(東京選書)よりも前に読んでいたので
しょう、「他屋小路」を読み飛ばしてしまっていたようです、、、。それにしても、
「だれだ?ここんとこは、俺のトヤだゾ」
の、「トヤ」は、もしも漢字をあてるとしたら、どんな字になるんでしょう、、、?「タヤ」
の「ヤ」は「屋」ですから、「トヤ」の「ヤ」も屋根も無い栗の木の下か何かなのに「屋」なのでし
ょうか? 「トヤ道」なんて言い方があったんでしょうか、、、? 謎は深まるばかりです。
『古道』の表紙
私の手元にあるのもこの版です。
今は文庫に入っているようです。
『古道』 その4 につづきます。