北海道函館市の建築設計事務所 小山設計所

建築の設計のことやあれこれ

『古道』 その3

2015-06-11 19:25:56 | 日記

 縄文中期の特殊道路


  縄文中期の遺跡を発掘してみても、そういうことは感じる。たいていは、竪穴の

  掘立家屋の南側に出入口があって、そこから、ロームの踏みかためられた帯が感

  じられる。水場へ行く、または猟場へ行く道もあっただろう。しかし、私は、い

  つも、八ヶ岳でみたトヤへ行く道を思いだすのである。

  クリとクルミの木に囲まれて生きてきた中期縄文人、クリの花咲くころ、彼らの

  性が強く刺激されたとすれば、女は夏の端境期は食欲が減退しても、秋の実り、

  冬の狩猟と、妊婦の食欲は頂上に達して、休養期のあける四月が、格好な出産期

  となる。とすれば、美しい明るい沢にのぞんだ、クリやクルミの林の下草の中に、

  愛の場があったとしたらどうだろうか。

  近世においても、成人の若者仲間の集会場、女たちの月のけがれを送る他屋(たや)

  、古い村には特定の精進屋に行く道、他屋小路などというのも残っている。きっと

  、私のまよい込んだ山の隣人のトヤ道のような道も、縄文人にはあったに相違ない。

  そうしたことを考えあぐんでいるころ、滋賀県教委の水野正好さんが長野県尖石の

  与助尾根住居址群について、おもしろい学説を発表した。与助尾根の村は、どの家

  も南を向いて出口があり、ほぼ、一線に並んでいるという観察である。そのとおり

  とすれば、そこには、明らかに意識的に道がつくられていたことは確実だったとい

  えるだろう。

  その戸口戸口を結んだ道はどこへ通じていたのだろうか。縄文中期の村落は、たい

  てい環状または馬蹄形に構成されている。真中は、何もなくて広場である。こうし
  
  た広場聚落の東独中世の村は、限定されたいくつかの門(ゲート)があって、それぞ

  れの門はきめられた目的に使われる。狩猟・燃料採集・水汲み・農事、などなど、

  つまり、その門はいっさいの村落に搬入される物資の量をおさえ、広場で分割さ

  れるというのである。縄文中期の村が、そうした原始共同体だったとすれば、や

  っぱり、村それぞれに、獣とり、魚とり、木の実や野菜あつめの道もできていて

  さしつかえないとも考えられるのであるが。



長い引用になってしまい、申し訳ない、、、。読み物としてもおもしろいと思ってしまっ

たのです。特に、「噛んだりわめいたりして」なんて、考古学の本に出てくる表現というよ

りも、小説か何かみたいです、、、。


この『古道』という本を、僕はおそらく、このブログの記事の『追記の添付写真』の中の

瀬川清子さんの『女の民俗誌●そのけがれと神秘』(東京選書)よりも前に読んでいたので

しょう、「他屋小路」を読み飛ばしてしまっていたようです、、、。それにしても、


   「だれだ?ここんとこは、俺のトヤだゾ」


の、「トヤ」は、もしも漢字をあてるとしたら、どんな字になるんでしょう、、、?「タヤ」

の「ヤ」は「屋」ですから、「トヤ」の「ヤ」も屋根も無い栗の木の下か何かなのに「屋」なのでし

ょうか? 「トヤ道」なんて言い方があったんでしょうか、、、? 謎は深まるばかりです。



『古道』の表紙



私の手元にあるのもこの版です。

今は文庫に入っているようです。

    


                        『古道』 その4 につづきます。
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『古道』 その2

2015-06-11 15:22:06 | 日記
 
  少年の日の白昼夢

 
  男たちは夕方になると木橇(きぞり)を曳いて、美森山の上の赤岳の黒生(くろふ)

  から帰ってきた。小川で躯をふくと、それぞれ別の方向の林の中に消えていった。

  いつのまにか、女たちも消える。後には爺と少年が二人、少年が飯をたき、汁を

  煮て、爺は火をたいている。妙に物音もなく白々しい一瞬である。

   みんなどこへ行ってしまったのだろう。

  -トヤやけんー 爺は私に教えてくれた。こどもを作っているのである。栗の花

  は男の精、クルミの花は女の精の匂いがする。女たちは栗の花の花粉の舞う草原

  で力いっぱいからみあい、噛んだりわめいたりして、受精する。トヤは、それぞ

  れの夫婦の領分が、序列できまってる。クリの花のいいトヤが親方である。女は

  ホウの木の、掌より大きい密毛の生えた稚葉(わかば)をよく揉んで、事後にはさ

  み込み、子種が流れてしまわないようにする。夕方の、ブユが引っこみ、藪蚊が

  出てくる合間の黄昏の一時間がその時間だった。

  -かえればさ、三月やけん、ちょうど、ヤヤが生まれるにええわー

  -どこへ帰るんですー

  -ヒゴやー

  私には肥後という土地は、まるで想像もつかない遠い語感だった。-この人たち

  は山窩(さんか)ですかーと聞いたが、爺は何もいわなかった。

  あれは、私の少年時代の白昼夢だったろうか。

  いやいや、そんなはずはない。私は、たしか、ハルとかユキとかコウとかいった

  と思う若い女房たちの、ボロボロに裾の切れた赤いメリンスの短い腰巻の間から、

  つんと出た脚を、いまもおぼえている。新ジャガの皮のような粉をふいた柔かい

  皮膚の顔だってそうだ。もし、いま目の前にでてきたら指摘することもできると

  思う。名前と顔がいっしょにならないだけである。たとえば、ハルという女、こ

  れが一番さきトヤで逢った女だったと思う。私を見ると、きっと、鋭い糸切歯を

  出し、片エクボをぐっと凹ませて笑ったあの顔、それはいまもそこにある。

  肥後から出稼ぎにきた山人夫の集団とは、それきりだった。

  しかし、それから、いままで、私は集団と寝屋と生殖の場所がちがっていたこと

  、そこをつなぐ特定のみちがあったこと、性にはげしい季節があって、冬閑期が

  出産期になっていたこと、などなど・・・を信じている。

  しかし、肥後の山人夫と、サンカとが、おなじだったかどうかはわからない。た

  とえば、三角寛さんの『サンカの社会』によれば、彼等の性には、まったく季節

  感はなく、ほとんどエブリナイトだといっている。



                この引用、『古道』 その3 につづきます、、、。




追記  三角寛さんは、朝日新聞記者をしていて、「山窩小説」、なるもので当時(昭和の

    始め?) 流行作家となり、後に池袋文芸座の経営をした人なのですが、僕には、

    一般大衆の間で、「山窩小説」のような本がベストセラーになった、昭和の始め

    という時代と日本人の方が不思議です、、、。(敗戦後は「ダッコちゃん」が流行

    ったりするし、、、。)


    「ダッコちゃん」 (昭和35年頃)

    


    「ダッコちゃん」を抱く、当時の日本人の子供たち

    


    何故か大人までつけていたのです、、、

        
    



  

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『古道』 その1

2015-06-11 13:20:10 | 日記
「中世鎌倉街道 その6」の記事で、『これは「旧中仙道」で、藤森栄一さんの「古道」に出て

くる、黒耀石の「和田峠」に続いている道のはず」と書いたのですが、この時は記憶だけで

書いていて、あとから『古道』を引っ張り出して、久しぶりに読んでみました。黒耀石が

出たのは「和田峠」の奥の「星ヶ塔」という場所なのです。それはいいのですか、こんな文章

もあったのです。少し長くなって、その2、その3 にまでなってしまいそうですが引用

します。


昭和4年ころ、小海線清里駅で夕方の早い最終列車を逃した、当時二十歳の藤森栄一さん

は、一番近くの大きな町「佐久」を目指して、北に歩き始めます、、、、。(以下『古道』

学生社刊、昭和41年より)




  一時間半、やがて、長い六月の陽がおちかかった。もう佐久往還に出そうなもの

  である。まちがえたのかもしれない。私の歩いている道は、次第に深い雑木林の

  中に入った。木橇(きぞり)の道かもしれない。-見当をつけようー私は、見晴ら

  しいい林の切れ目をさがして、その軌跡からはなれ、雑木林の中を左右にさまよ

  った。六月ではあるが、山は寒い。しかし、私の額からは、汗が湯気になっての

  ぼった。

  そのとき、一度もかいだことのない、胸をかきみだすような生あたたかい匂いが

  むうっと、いっぱい顔をついて、私は思わず立ちどまった。いままでも、かすか

  にただよっていたのだが。-これはなんなんだーへんな人の唸き声もする。

  あたりは、まだ、夕べの光がかすかにただよっていた。見上げると、その匂いの

  もとは、私の踏み込んだ林の暗い梢から、白い房のように垂れ下がっている栗の

  花だった。私はそのふしぎな匂いの中にまよいこんだ。

   「だれだ?ここんとこは、俺のトヤだゾ」

  栗の林の下草の柔らかそうなしげみの中から、男が立ち上がった。心臓がとまる

  ほど驚いたその瞬間、私は草むらの中に、白い大蛇のようなものが、ぐぐっとち

  ぢまるのをみた。

  その男女が何をしていたのか、そのときの私には具体的にはわからなかった。が

  しかし、ひどく下品なことと思えたのである。クリの花の匂いは、いよいよ、む

  せかえるように、におってきた。

  暗闇の中を、私は、その男女について、叢林の中のふみわけみちを長いこと登っ

  て、丸太と板でつくった彼らの飯場へついた。そこには、十人ばかりの男と七人

  の女がいた。女はみんな十人のうちの女房であった。彼らは原始林から原始林へ

  わたり歩く、キコリの集団だった。飯場は、真中に土間が通って、いろりが三つ

  四つあり、その両側は板敷きで、私はそのいちばん隅に寝せられた。頸を上げて

  みると、暗いランプの下で、向こう側が全部男、私の側に女が寝ているらしかっ

  た。

  彼らは、彼らのいう学生さんに対して、とても親切だった。もっとも、リュック

  いっぱいに背負っていた、米と味噌とヒダラが魅力だったのかもしれない。私は

  なんということなしに、そこで二日すごした。



                この引用、『古道』 その2 につづきます、、、。





写真は、場所も違いますし、栗の木でも種類が違うと思うのですが、同じ長野県内なの

で、、、、上伊那郡辰野町大字小野「しだれ栗森林公園」の、「しだれ栗」です。















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